9月12日(金)
自分でも気がついていなかったのだが、私は脱力していたのだった。
先日「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」のゲラに赤を入れ終わり、これで基本的には、手を
離れたことになる。
とうとう、というべきか、版元である小学館に行くことができた。仕入れをしているときから、
いや、古本屋通いを始めた頃から、神保町に聳えるその威容は何回となく目にしていたが、
足を踏み入れるのは初めてである。過剰なまでに人の出入りを管理していた。
なんでも以前、誰かから「襲撃」されたのだそうである。でかい出版社って、いろいろあるんだね。
僕みたいなぽっと出にはシキイが高いよ。なんちって。
清潔で立派で、それでいて広すぎない会議室を、編集のI氏と二人で独占し、電話一本で飲み物が
届いてしまう。なんだか一人前の物書きみたいな扱いを受けてしまった。
ま、それだけのことなのだが、ゲラを渡して時間がたってみると、だんだんと一種の脱力感の
ようなものに囚われていくのを感じる。
考えてみれば、長かった。今年は「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」にかかりっきりだった
ようなものである。ほかのこともしたはずなのだが、思い出せないくらい、この一作に打ち込んだ。
新作も現在はペンディング状態である。
それだけやったら、さぞ素晴らしい傑作ができただろうと思われるかもしれないが、さあ、
どうなんでしょう。傑作だと思われたら嬉しいけれど、また、内心では「大したものができた」
とも自負しているけれど、人の心を打つような作品ではないかもしれない。笑えることだけは
確かだと思う。テンポもいいし、一気に読んでもらえるはずだ。一所懸命書きました。
よろしければ、11月11日発売です。
9月6日(土)
「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」のゲラが届いたりして忙しいんだけど、これだけは
どうしても書いておきたい!
昨日TBSの「News23」で、Cocco(こっこ)という歌手の特集をしていた。
この歌手について私は殆ど何も知らなかったのだが、なんでもCDを300万枚売った後、
突然姿を消してしまったのだそうである。突然姿を消す歌手は珍しくないが、それは大抵、
人気がなくなったからで、セールスとしてはまだまだいける可能性を持った歌手が消えるのは、
少し珍しい。ただし前例はある。
この人の歌は陰気だといわれていて、僕もその程度の印象しかなかった。女性に人気があった
ようである。ずっと昔、カラオケに行くとこっこの歌しか歌わないという女性がいた。
「News23」では、この人がそれから以後していたことを当人に聞いていた。
彼女は故郷の沖縄に帰ってゴミを拾っていたのだそうである。
このことについて意見はいくらでもあるだろう。
でもそれについて何か意見をいうとき、それは、「ゴミを拾ってる」ということに「意味」を
付帯させることでしかないのではないだろうか。300万枚の歌手がゴミを拾ってる。
そのことをテレビが映す。そこにはいくらでも「意味」がくっつきそうだ。いかにもである。
しかしいくら「意味」をくっつけて、「評価」とか「判断」をしようとしても、一人の芸術家が
ゴミを拾って歩いているという事実は、こゆるぎもしない。
重大なことは、そこにどんな「意味」があろうと、「善」だろうと「悪」だろうと、あるいは
「偽善」であろうと、一人の人間がゴミを拾って歩けば、それだけゴミは少なくなるという
ことである。ゴミのあったところにゴミがなくなる。そしてゴミのないところは安全であり、
きれいになる。
これは現代の芸術にとって、もしかしたら一番大切なことではないだろうか。
それはどうしてかというと ・ ・ ・ ・ ・ ・ということを、さっきから考えているんだが、うまく書けない
のである。書くまでもないとも思われる。
この世界がよりよくなってほしいと思うなら、平和な社会が実現すればいいと思うなら、
今の世界が良くないと思うのなら、できることからやるよりほかにない。
そんなことは芸術家の役目じゃない、という考えも当然、あるだろう。私もその考えだ。
けれども今、世界なんかどうだって構わないと思っている芸術家を、私はどうしても信用する
ことができないのである。
少なくとも、今こうしているあいだも、どこかでこっこという芸術家がゴミを拾っているんだ
ということは、私を落ち着かなくさせる。
8月25日(月)
編集者I氏より電話があり、我がデビュー作「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」の発売日が決まった。
11月11日だそうである。
9月初旬に「ゲラ」が来る。「ゲラ」。なんだこの専門用語は。今さらながら、ドキドキしちゃうんである。
詳細が決定したら、大々的に広告するつもり。
8月23日(土)
21日に板橋の東武東上線常盤台駅(「ときわ台駅」などという人を馬鹿にした表記は無視する)で
電車に飛び込み自殺した男は、年齢52歳、無職で、生活保護を受けていた。
警察が男の住んでいた古ぼけたマンションを調べてみると、部屋の中に女性の遺体があり、
世田谷区の16歳、高校一年生と判明した。六月初旬から行方不明になっていて、捜索願が
出されていたそうである。
テレビのインタビューに答えた中学時代の同級生によると、この女性は目立たない性格で、
使い走りなどさせられていたという。高校に入ったとたんに髪の毛を染めるようになり、
欠席はしなかったそうだが、イメージはかなり変わったらしい。
また、自殺者と同じマンションの住人もインタビューに答えて、一人暮らしの中年男の部屋から、
若い女性の談笑する声が聞こえたという。また、家を出る前に女性は男性のクレジットカードで
買い物をしている。家族に、渋谷の風俗店でアルバイトをしているとも漏らしたそうだ。
発見された時点で女性は死後一ヶ月以上経過しており、自殺した男はそのとき、女性の写真を
身に付けていた。
報道というのはストーリーを作るものだから、あまり左右されてはいけないが、それにしても
これは、なんという寂しい事件だ。女性の携帯電話の着信記録には、男性からのものだけが
残っていたという。
ここから先は、完全に私の空想だ。二人は渋谷の風俗店で知り合ったのだろう。男性は仕事を失い
生活保護を受けて、五十を過ぎても母親に金を無心する、離婚経験者。女性は中学校で級友から
相手にされなかった自分を帳消しにするかのように、派手になってやろうと身の丈に合わない
ことをし始めた、友達のいない高校一年生。
女性の手帳には複数の男性の名前があったというが、それは仕事柄なのか、男性とおなじくらい
親しかったのかは判らない。しかし二人は男性の家で談笑していたのだから、そんなに嫌な客
ではなかったのかもしれない。高校一年生が客の自宅で媚を売るだけで笑ったりするのは、
つまり同伴出勤とかアフターであろうが、無理ではないとしても難しいだろう。もちろん、
恐ろしい客なので、自己防衛のために無理に明るく振る舞ったということはありうる。女性が
高校一年生である自分の商品価値を自覚していたことは、あると思う。またその商品価値をもって
自己のプライド、乃至はアイデンティティの拠り所としていた可能性だって、空想として成り立つ。
そしてそのプライドを、自分に言い聞かせるだけでなく、外側から保証してくれたのが、男性であった
のかもしれない。
女性の気持ちはどうであれ、男性が女性に好意を、客として以上の好意を抱いていたことは、
疑えないのではないだろうか。自殺したときにも女性の写真を持っていたというし、自殺した
日に発見された遺体が死後一ヶ月以上経過していたということは(遺体の近くに消臭剤が
置かれていたという)、男性は遺体とそれだけの期間、共に過ごしていたということになる。それは、
遺体の処理ができなかったということでもあろうが、遺棄しなかったのは、ひとつの愛情表現
とも思われる。
52歳の男が、16歳の女に風俗店で知り合い、好意を抱き、板橋の古マンションでその女を
絞め殺して、残された遺体とひと月を共に過ごし、写真をポケットに入れて常盤台のホームから
電車に身を投げて死んだ。その間、この二人に関心を持った者は、この広い世界の中で、
女性の両親だけであり、その両親も帰宅を待つよりほかなすすべなかった。二人はどれくらいの
期間、一緒にいたのだろう。どんな話をして、談笑していたのだろう。亡くなってしまったことの
無念さもさることながら、生きていたときの孤独を空想すると、鳥肌の立つ荒涼を感じる。
8月17日(日)
よく降るなあ。こんなに間断なく降り続くのって、八月はもちろんのこと、梅雨時だってめったにない。
どうしても思い出してしまう。ガルシア=マルケス『百年の孤独』を。「雨は四年と十一ヶ月と二日、
降り続いた」……そして忌まわしい、淫らな雨は、マコンドの村を荒廃のきわみに追い込んでいく。
『百年の孤独』は、僕の考えるところでは、20世紀に書かれたありとあらゆる小説の中で、
最も面白い小説だ。偉大な小説や、重要な小説というのだったら、議論の余地はあるだろう。
だけど「面白い」小説といえば、この小説が決定版だと思う。語り口、エピソード、登場人物、
時代背景、すべてがまさに巻措く能わざる面白さである。文庫本にはなっていないが、一冊持っていれば
そこらの小説100冊分くらいは楽しめる。
8月15日(金)
雨はもう四十時間くらい降り続きに降っている。この雨はすでに「秋雨前線」なのだそうだ。
その同じとき、フランスでは猛暑で3000人が亡くなったと報じられている。さらにニューヨーク
では、デトロイトからカナダに至る大規模な停電が、まだ修復されていない。カナダでは
夜陰に乗じて強盗が相次いでいるらしい。
憂鬱な夏である。
今日は終戦記念日だ。
今年の夏(?)は、例年にもまして戦争の記憶に関するテレビ番組が目立つように思われる。
ニュースなどでも盛んに取り上げる。一昨日はNHKで「戦さ世の風景」という、沖縄戦の
番組を見た。田園風景に兵隊が行軍し、海浜では痩せこけた子供が洞穴から掻き出される
ように出てきて、至る所に無残な遺骸が倒れていた。
戦争について、それが国家のプライドに関わる問題だと論ずる人がいる。私は戦争や交戦権によって
維持されるプライドなど信じない。戦争とは、国家が人間に銃口を向けるということであり、
それ以外の何者でもない。そして国家が銃口を向ける人間には、他国自国の区別はない。沖縄の
地上戦は、究極的に軍隊は自国民を守らないということを、取り返しのつかない切実さで
教えてくれる。
8月11日(月)
とんでもないことになった。
人前で自作を朗読することになってしまったのだ。成り行きで。
今月はお盆があるから、「詩の教室」はお休みにしたい、とカワグチタケシ氏から言われたのが
そもそものキッカケである。確かにお盆では人の集まりも悪かろうと思って了解したのだが、
カレンダーを見てみると、今月は土曜日が5回あるんだよね。それを見たらもったいなくなっちゃった。
「お盆は無理でも、『夏休み特別企画』がやりたいなあ」
と、このあいだの「文学の教室」で言ったら、ずるずると僕が自作を朗読することになってしまったのだ。
しかも新作。ていうか、冗談半分で書いている短編小説(?)があるんですよ。それをね。
もちろん、それじゃあ持たないので、旧作とか、今度出る作品の宣伝なんかもするつもり。つもりだけど、
ま、恥ずかしいことは恥ずかしいわな。人の前に立つと、トッチラカッチャウんだよ僕は。
だから、そういうトッチラカッタ僕を見たい人は、ぜひ。
8月10日(日)
5日の日記の続き。
戦後文学に価値がなくなったとはいえない。それは当たり前のことである。大きな戦争があった
ということ、それが終ったということ、敗戦後の日本のインテリが、何をどのように考えていたか
という記録として、戦後文学はそれだけで値打ちを持つ。
また文学としての面白さを持つ作品、つまり書かれたのはある特定の一時期だけれども、それを
読むことは時代に拘束されず、常に人の心を打つ、そんな作品だって、戦後文学には少なくない。
読んだ限りで言えば、たとえば大岡昇平の作品など、戦争を扱って普遍的な人間の心を捉えることに
成功していると思う。しかもそれは、決してインテリチックなもんじゃない。
ただ、前回名前を挙げた、野間宏や埴谷雄高、椎名麟三といった作家の作品は、どうなんだろう。
恥ずかしながら、よく知らないといわざるを得ない。いや、本当のことを言えば、よく知らなくても
特に恥ずかしく思わないというのが実情だ。これは多分、今の日本でとりわけ鈍感な感性ではないと思う。
日本の感性が、とりわけ教養に関して鈍感になった、ということはあるかもしれない。
でもそれは、見方を変えれば、昔は教養であったものが、今はそうではなくなった、ということでも
あるんじゃないだろうか。失礼な言い方になるが、ある種の教養や文学の、賞味期限が切れたことを
示してはいないか。文学に淘汰はつきものである。
何がある種の文学、あるいは文学的感性を淘汰させたか。それは村上春樹である。
村上春樹の文学を、ちゃらちゃらした、内向的なナルシシズムの文学と、未だに思っている人は、
古い。古いのは決して悪いことではない。でも古い。
僕だって別に村上春樹の文学にイカレてるわけじゃないが、今の日本文学、日本の文学的感性が、
村上春樹によって変貌を遂げた後の状態であることは、誰にも否定できないと思う。
村上春樹とは何か。それは大雑把に言えば、既存の文学的伝統を気にかけない文学的感性のことである。
それは自由で、独りよがりで、気取っていて、バタ臭く、同時にけっこう根性が据わっていて、
間口が広く、風通しが良い。村上春樹が「風の歌を聞け」と小さく呟いて、人のことなどお構いなし、
僕には自分の悲しみだけが大事なんだといったとき、日本で文学を読んでいる当時の若い世代は、
その鼻につく爽やかさを他人事とは思えなかったのだ。
村上春樹なんてものは軟弱だから早晩潰れる、と思っていた人も多かった。でもその予想は外れた。
その後の20年、村上春樹は歴史と他人を自己の文学に導入して、質量共にどんどん大きく
なっている。軟弱ではなかったのだった。
風通しが良くて、しかも歴史や他人を取り込んでいけば、風通しが良くない文学は「つまらない」と
見なされてしまう。はっきりいって野間宏や椎名麟三の文学は、真面目であることに広がりがないのだ。
8月7日(木)
文学の話は一回休み。
昨日の深夜二時ごろ、日本テレビをつけた人はいる? いやービックリしちゃったよ。画面が
完全に静止していて、いつまでたっても音ひとつしないんだからね。その画面は、どこかの部屋で
洗濯物が畳んである風景だった。手前にセーターが四着ほどと、そのうしろにタオルが十数枚、
きれいに畳んで置いてある。左側には古い旅行鞄があって、背後には毛糸玉を積み上げた籠がひとつ。
壁にはコルクの板が掛かって、その板にポスターが張ってあるという、静物画にしても整いすぎた
配列の、かなりシュールな画面だった。
日本テレビはこのところ、よく放送事故を起こすから、またかと思っていたんだけど、その静止画像が
また、30分も40分も続いたんだよね。しまいには本当に電話かけようかと思ったくらい。
でもしばらく放っておいたら、後になって説明のテロップが付け加わった。地上デジタル通信の
設置のために、放送を中止していたんだってさ。ならもっと早くいってくれっての。そのうちに
他の放送局も、NHKも全部、エッフェル塔とか花を持った女性とかの静止画像になった。
退屈だけど、ちょっと壮観だったねあれは。どこにチャンネル回しても、うんともすんとも
いわないんだから。
今日の同じ時間にも、やっぱり同じ理由で全局静止画像になったけど、もう昨日みたいにドキドキしなかった。
8月5日(火)
昨日の続き。
いまどき野間宏の「青年の環」を読破したいと思う人はいないだろう。あ、「青年の環」だったら、
いるかもしれないな。内容とは関係なく。なんてったって原稿用紙8000枚のウルトラ超大作だもん。
それだけでチャレンジしたくなるかもしれない。でも「真空地帯」は、どうだろう。ついこのあいだ
文庫化された埴谷雄高の「死霊」はともかく、椎名麟三の「永遠なる序章」は? 「死の影の下に」とか
「悲の器」なんてタイトルだけ言われて、作者を答えられる人は、現役の文学青年や文学部の学生に
だって、あんまりいないと思う。
日本の戦後文学は今、忘れられている。
歴史的に見て、こういうことはよくあることだ。ほんの4、50年前まで読まれ、重要視されていた
作品が読まれなくなる、ということは。それだからといって、その作家なり作品なりが永遠に
忘却されるとは限らない。たとえば彼ら戦後文学にとって、夏目漱石というのは重要な作家ではなかった。
森鴎外のほうがずっと重要だった。今の風潮は逆だ。
だから、今、井上光晴や野間宏が読まれていないからといって、彼らが一時的に評価されただけの
作家ということにはならない。
それに、自分の読んだ限りでいえば、彼らの作品は決して面白おかしく読めるものではないけれど、
読んで損したということはない。少なくとも歴史的な意義と価値は確かにあると思う。
だけど、やっぱり、戦後作家たちが歴史的価値というものを越えて、広く一般に読み継がれると
いうことは、なさそうに思う。
理由は簡単である。たったひと言でいえる。「村上春樹」と。(明日に続く)
8月4日(月)
仕事で「伝説の編集者 坂本一亀とその時代」(田邊園子 作品社)を読んだ。坂本一亀は坂本龍一の
お父さんで、この本も龍一氏から以来を受けてかつての部下が書いたものである。戦後日本文学の
一翼を担ったといえる坂本一亀の、軍隊的な命令口調や、人を人とも思わぬ熱狂的な仕事ぶりなど、
興味のつきない一冊である。
ただ、それとは関係のないことを、僕は考えてしまったよ。
目次には戦後文学の大きな名前がたくさん出ている。それをちょっと列挙してみよう。
野間宏。椎名麟三。三島由紀夫。中村真一郎。埴谷雄高。武田泰淳。梅崎春生。船山馨。
水上勉。小田実。高橋和巳。真継伸彦。山崎正和。井上光晴。黒井千次。丸谷才一。平野謙。
いいだもも。辻邦生。島尾敏雄。
名の知られた作家ばかりである。ところで、名前は知っているとして、このうち何人、今でも
読まれてる? この中で僕が読んだことのある作家は11人。11人て、多いほうだと思う。
しかもそのうち、小説を読んだことのある作家は6人だけだ。ここに挙げた作家全員の作品を、
ちらりとなりとも読んだことのある人って、出版業界に勤めている(いた)人だけかもしれない。
立派な名前ばっかりなのに。しかもだ、読んでいないから恥ずかしいとか、いずれ読むつもりだとか、
そういうふうにも思えないんだよね。ちょっとそういうことは、真剣に考える必要があると思う。
だから明日に続く。
8月2日(土)
暑い! 二階の三畳間を締め切ってすき焼きを食べながら、相撲取りが女子プロレスラーを
口説いているみたいに暑い。ヤフーのニュースを見たら、女優の仲間由紀恵さんはエアコンを
つけないで暮らしているそうだ。彼女は痩せているし、沖縄出身だからそれでもいいだろう。
こちとら自慢じゃないが百貫デブの冬生まれ。夏の暑いのには年々弱くなっていく一方である。
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