7月31日(木)
昨日こんなことがあったよ。
近所の本屋を冷やかして帰ろうとすると、自転車置き場に小学校になったかならずかの子供が
びくびくしながら近寄ってきて、
「あのー。チカちゃんち知りませんか?」というのである。
瞬間的に僕は思った。この子が何らかの解決を見るまで僕はついていってやらなければならぬ。
最近は物騒な事件が多い上に、世田谷区はそういう事件発生ワースト1なのだ。こう無防備に
赤の他人の好意を信じる子供には、何があるか判らない。だいたい、別れた後に僕が心配に
なってしまう。
「チカちゃんち、判らないですね」と僕は答えた。もうそれだけで、子供は半泣き、とまで
いかなくても、四半泣きくらいである。
「鹿児島チカちゃんなんです」
「鹿児島も、ちょっと判りません」と僕は丁寧語で答えて「チカちゃんの電話番号は判りませんか? 
判ったら僕の携帯電話を貸してあげましょう」
「わかんない……」ますますベソッぽくなるのである。
だんだん聞いてみると、チカちゃんちは小学校から見えるのだそうだ。小学校は僕たちがいるビルの
すぐ裏側である。
「ここだと思う」と子供はいう。つまり本屋のあるビルの上のマンション、ということだ。
「じゃ、このビルに入ってみましょう」と僕はいって、うろうろしながらマンションの入り口を
探り当てた。そこからは簡単である。
「郵便ポストに、鹿児島、っていう名前があるかどうか、見てみようか」
「漢字、わかんない」
「僕が判るから、大丈夫」
一回見たときには見当たらず、ちょっと焦ったが、もう一度見ると「鹿児島」というポストが
あった。622号室である。
「六階だ」とぼくはいって、一緒にエレベーターで上がっていった。
622号室はエレベーターから一番遠い部屋だった。しかもドアが半開きである。
「ごめんください」と僕が案内を乞うと、おばあさんが出てきた。子供が
「チカちゃんいますか?」というと、いるという。一件落着である。そこでぼくはいった。
「えーワタクシはここの前でこの子から家を聞かれましてですね、ここまでお連れしましたが、
決して怪しい者ではございません」本当にこの通りにいった。
「それは有難うございました」とおばあさんは丁寧にお辞儀してくれた。
「キミ」僕は子供にいった。「知らない人にむやみに話しかけたりしちゃ、駄目だぞ」
「どうして」
「だって怖い事件が多いからさ。キミみたいなちっちゃい男の子が一人で知らない人に……」
「そうだよ」おばあさんも同意である。
「あたし男の子じゃないよ!」といって、子供はげらげら笑いながら、部屋の中に入っていった。
きょうび、親切にするほうも気を使う。でもまあ、良かった。

7月27日(日)
いやな、恐ろしい話があるんですよ。別に誰かから聞いた話じゃないんですけどね。
通り魔事件が、最近、多いでしょ。
これから、ああいう事件は、もっと起こるかもしれない。
僕がそう思うのには根拠がある。
今年に入って、北朝鮮の船舶を厳しく取り締まるようにしたでしょ。あれのおかげで、現在日本は、
近年まれに見る「覚醒剤不足」だということが、どっかの週刊誌の中吊り広告に書いてあったのである。
よく知らないが、恐らく今、覚醒剤は非常な高値か、もしかしたら在庫が払底しているのかもしれない。
そうなると、禁断症状の人間が大量発生することになる。普段、覚醒剤をやっている人は、
まあ普通に歩いているだろうが、禁断症状が出たら、もうそれは狂人である。日本に中毒者、
常習者が何人いるか知らないが、全国各地に散らばっているだろうし、そのうちの誰が、
刃物を持って町を歩き回るかわからない。
僕は覚醒剤は無論のこと、ドラッグのたぐいはアメリカでもやらなかったから、大きなことは言えないが、
多分、覚醒剤はやらないほうがいいんだと思う。だから北朝鮮の覚醒剤密輸が封じられたとしたら、
それはやはり良いことだと思っている。思っているが、そのために通り魔がまだ出没する可能性が
あるというのは、それはそれで恐ろしい。
もちろん、すべての中毒者が発狂するわけではないだろうし、死ぬまで禁断症状が出続けるわけでも
ないだろう。でもね、この夏は、みんなも気をつけたほうがいいよ。

7月26日(土)
昨日の続き。
民主党と自由党の合併に期待すると書いたけれど、誰があんな党に期待できるかってんだ。
政権交代可能な二大政党制と、菅氏は言うけれど、菅だって小沢だって自民党じゃないか。
どっちも自民党幹部として閣僚になった人間でしょ。しょせん自民党。単なる自民党。
見方によっては、民主党というのは「自民党負け組」に過ぎないのであって、つまり今度の合併も
負け犬の遠吠え。人を馬鹿にしてやがると思わざるを得ない。
それでも僕は民主党に期待する。なんでかというと、他に選択肢がないからである。社民党なんか
話にもならないし、共産党はインテリのおためごかし。ついでにいうけど、本当に社民党は解党する
と思うね。テレビに出たい人の党じゃないか。しかもその出演のしかたが、筆舌に尽くし難い
カッコ悪さ。なんだあの中川智子とかいうアホ人間は。僕が社民党で好きな人は、元沖縄県知事の
大田昌秀氏だけ。福島という幹事長は、かなり一生懸命やっているみたいだから同情するが、土井たかこに
何にも言えないんじゃ駄目だと思う。
共産党も別の意味で嫌いだ。僕は何にも知らないんだけど、どうして共産党の議員て、みんな
同じ口調で喋るの? トレーニングとか受けてるの? あの人を諭すような、上に立った口の利き方を
聞いていると、後ろからこっそりズボンを降ろしてやりたくなる。偉そうに。何にもしないくせに。
だから結局、自民党か民主党しかないのである。で、一度民主党に政権を取らせてみたいのである。
そうなったら、どうなるか。自民党政権に倍する混乱と悪政が展開されるかもしれない。
でも上手くいくかもしれない。いったん政権を取って、そこで下手を打ったらもう再起不能で
あるから、民主党も必死になっていい仕事をするかもしれない。「かもしれない」だらけである。
まあ、ためしにどうなるか見てみたい。そういう意味の「期待」だ。

7月25日(金)
昨日の続き。
民主党と自由党が合併するそうである。僕はこの合併に期待するよ。もっとも僕は、小泉純一郎氏が
総理大臣になったときにも期待したけどね。
小泉純一郎総理大臣て、なんだったんだろう(過去形だ)。出てきたときは、すっごく良さそうだった。
何かやってくれるんじゃないかと思った。確かにやってくれた。政局を混乱させ、株価を乱高下させ、
自民党をしっちゃかめっちゃかにした功績は、皮肉じゃなく大きい。
だけど駄目だ。もうバイバイだ。理由は二つ。
その1:子分がいなさすぎ。いくら派閥政治の弊害っていったって、小泉純一郎しかいないんじゃ
しょうがないでしょ。内閣の人たちだって、全然味方に見えないし。石原ノブテルとか川口外務大臣
なんて、くたびれきってる感じだし、石破防衛庁長官なんて、単にオツムの足りないトッチャンボーヤ
にしか見えないもんな。福田官房長官は、常に腹にイチモツありそうだし。塩ジイはとぼけてるしさ。
こうしてみると、なんか小泉内閣って、サーカスみたいじゃないか?
その2:言葉がない。政治と文学は常にインテリの問題として提起され続けているが、それはなんでかというと、
政治と文学は似ているからだ。どちらも「言葉で現実に向かっていって、できることなら言葉で現実を
変える、より良くする」ことをめざしている。小泉純一郎は最初のうち、へたくそながら自分の
言葉で語っていた。国会答弁をアドリブでやったりして、新鮮だった。ところがこの人の言葉は、
新鮮さだけが売り物だったんじゃないかと思える。アドリブから鮮度が落ちたら空疎な絶叫だけが
残った。文学もそうだけど、バックに堅固な「自分」がない言葉は空しいだけだね。流行歌と
同じで、ひと月たったら忘れちゃう。忘れて困るようなことも、特に言っていない。
こんなこと、みんなすっかり忘れているけれど、政治は言葉に力がなかったら、何の意味もないんだよ。
そして言葉の力というのは、責任感や説得力や信頼感のことであり、決して声量のことではないのだ。
(民主党の話は、明日に続く)

7月24日(木)
今、日本人は、驚くべき架空的世界に住んでいる。ありとあらゆる場所で、ありうべからざる事態が
次々と起こっている。長崎の事件もそうであり、赤坂の小学生監禁事件もそうだが、昨日の小泉純一郎
内閣総理大臣の党首討論における答弁は、あれは何だ。
「イラクのどこに非戦闘地域があるのか、言えるものなら言ってみなさい」という菅氏の質問に対して、
(ああ、嘘だろう!)小泉氏は次のように答えたのである。
「どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域なのか、いま私に聞かれたって分かるわけがない」
Give me a brake! 菅氏率いる民主党は、政府が提出している「イラク特措法」に猛反対していて、
それはいかなる意味においても理に適った反対だと思うが、それに対してこの答弁は、とても今この瞬間も
日本国の政治的な最高権力を握っている人間の口からでた言葉とは思えない。この種の質問が菅氏から
出るであろう事は、なんぼなんでも予想がついたはずだ。百歩譲ってこの発言が「いますぐどことは
答えられないが、調べればすぐ判る」という意味であったとしても、それは未だ無法状態の戦闘地域に
赴く自衛隊員に向かって、
「私は具体的にどこということは判らないが、当地ではアメリカの指揮下に置かれるのだから、
言うとおりにしていれば非戦闘地域で仕事ができるはずだから、いってらっしゃい」
というのと同じことではないか。
「イラク特措法」に私が反対するのは、これが積極的に人を死なせてしまう法律だと考えるからである。
今のイラクに軍服を着て歩き、アメリカ軍の指揮下で復興支援をすれば、ゲリラやフセイン派の残党、
さらには不満分子や単なる夜盗にさえ殺される可能性は極めて高い。現に政府も犠牲者が出る可能性があることを
国会で認めている。そんな法律に賛成するのは、人殺しに加担するのと同じことだ。
緊急事態における政治では犠牲が出るのも致し方なしというのなら、せめて死に値する大義を示せ。
太平洋戦争において挙国一致という言葉が強い説得力を持っていたのは、本当に自分の親兄弟や女房子供が攻撃を
受けていたからだ。今、日本人は安閑と過ごしている。治安は悪くなったけれど、別に他国の攻撃を
受けているわけではない。
この闇雲なイラク特措法に対する政府の突っ走りの背後には、恐らく北朝鮮の脅威という問題が
あるのだろう。北朝鮮が日本を攻撃する事態が起これば、アメリカ軍の支援を受けないわけには行かない。
だからアメリカを今は助ける必要があるのだと。
北朝鮮が本当に脅威なのかどうか、私には判らない。どっちかというと「事あれかし」と思うタイプの私は、
日本に壊滅的な打撃を与える北朝鮮の攻撃があったら、さぞかしエキサイティングだろうと夢想したりもするが、
そういう場合は自分の家族親族はもちろんのこと、友人知人、好きなタレントから飼い猫に至るまで、
全員無事であることを前提としている。そういう不謹慎な夢想を心の中に持っている私のような人間が、
冷静な状況分析などできるわけがないが、しかし一方で、この凡庸な世界において、カタストロフィのような
目覚しいことは金輪際起こらないという、つまんない現実認識も持っている。北朝鮮が核爆弾を持っている
としても、それを何のために、どう使えるというのか。よく判らないというのが実相ではないだろうか。
だって北朝鮮は、日本や韓国からお金を貰いたいんだから。
はっきりいって北朝鮮脅威論というのは、どこかで誰かが煽っているに違いないと、私は思っている。
それに脅威なら脅威で、対応する外交的手段というものはあるはずだ。たとえば金正日に暗殺団を
派遣するとか、北朝鮮国民にクーデターをそそのかすとか。そういうCIA的手段を講じるほうに、
日本政府は頭を使うべきであって、わけの判らない戦闘地域に親も子もある自衛隊員を派遣して、
アメリカの顔色をうかがう、しかも自衛隊の最高責任者である内閣総理大臣は無責任の極みのままで、
などというのは絶対におかしい。

7月22日(火)
相撲が終って、つまらない。名古屋場所は本当に面白かった。贔屓の高見盛関が、相撲内容で
辛口の玄人筋を唸らせたことは一番嬉しかったが、他の関取もそれぞれいい味を出していた。
今度の相撲で、僕は雅山、旭天鵬、千代大海のファンにもなった。
朝青龍について、悪評判が目立った場所でもあった。相手のチョンマゲを掴んで反則負けに
なったこともあったが、それ以外はおおむね、土俵の外の話だったようである。
僕はどういうわけだか、朝青龍という相撲取りが嫌いになれない。乱暴者だという話である。
相撲というのは乱暴な一面を持っているものだ。もちろん、乱暴狼藉に走ればキリがないから、
相撲は品格を重んじるのだろうけれど、品格を重んじれば相撲が上品なものになるとは思わない。
稽古場でのシゴキは、強い奴、先輩の奴が、若輩弱輩を罵倒し、殴り、笑いものにしている。
品格からすれば言語道断のものだが、彼らはそれを隠しもしないし、また勝負のためには必要なことでも
あるのだろう。あまっちょろけな品格論など、勝負の世界には通用しない。
そういうことではないのだと、人は言うかもしれないけれど、15日間休みなく巨体の怪力を
倒し続けなければならない相撲の本場所では、テンションが高まるのも当然であり、細かいことなど気にして
いられなくなるに違いない。野獣のように闘志を剥きだしにし、人の前ではふんぞり返り、弱い奴など
相手にしない勢いを、朝青龍は隠しもしない。そこには確かに眉をひそめたくなるものがある。
けれどもあの闘志を忘れた人間は、やはり駄目人間だと思う。

7月19日(土)
昨日のTBS「ニュース23」に、ゲストでクレイジー・ケン・バンドが出ていた。
クレイジー・ケン・バンドは横浜のバンドで、平均年齢40を越える、もとはといえば横浜で
働く人たちが作ったアマチュアバンドである。リーダーのケンは確か、去年まで横浜税関で
働いていたはず。サングラスをして、鼻の下にヒゲを生やして、ディップで頭を固めて、
白いスーツ。僕がもっともコンプレックスとするタイプだ。
神奈川県で育った人間は、どうやって育つのが理想的だろうか。もちろん、横浜で遊んで、リーゼントで
決めて、シャコ短のアメ車に乗って、山下公園でナンパして、クラブで踊りまくって、ニューグランドで
愛を語るのがもっとも正しく、理想的なのである。ひるがえって僕は何をしていただろう。
関内の喫茶店で本を読んで、桜木町でヨーロッパ映画を見て、紅葉坂で室内楽など聴いていたんである。
そういうことではファッションセンスや倫理観など、はぐくむことはできんのだ。クレイジー・
ケン・バンドを聞くたびに、「ああ、俺にもチャンスがなかったわけではないんだ!」と思うのである。
もちろんそれは、後悔してるとか不幸だとか、そんな意味じゃないけどね。

7月18日(金)
渋谷に遊びに行った小学校六年生4人が赤坂の短期滞在型マンションで監禁されていたのが保護され、
首謀者と思しき男性が自殺しているのが発見された。
この恐ろしい事件に関する報道がかまびすしい。
ところが、まったくどういうわけか、報道の論調が「子供」に焦点を合わせている。これには正直なところ、
不愉快と怒りを感じる。
このような事件が起こるから、渋谷は恐ろしいところだ、子供は無防備すぎる、親とのコミュニケーションは、
といった議論は、実は報道が、重要で明白な問題を見過ごしにしたがっていることを表して
いるのではないだろうか。それはもちろん、「小学生を性的対象にしている成人男性が多数存在する」
ということである。
子供の下着を欲しがったり、小学生とセックスをしたいと思う欲望がきちんと抑圧されていれば、
需要もないわけで、したがって小学生が渋谷に行こうが新宿に行こうが構わないわけである。
それをあたかも、報道の論調が小学生が繁華街に行くから悪いとでもいわんばかりの口調なのは、
どういうわけだろう。
理由は簡単である。報道は大人の集団だからである。しかも大人というのは、実にしばしば、子供を
食い物にして生きている。放送業界などというのは、とりわけ食い物にしているわけだ。
小学生はお金を欲しがったりしちゃいけませんよ、でも「モーニング娘。」のグッズは買ってね、
というのは、矛盾してるじゃないか。
テレビでは渋谷にたむろする子供たちにインタビューして、「パンツ一枚五千円だよね」「ねー」なんて
言わせてる。彼女たちのパンツを五千円で買ってる大人にインタビューするべきじゃないか。
それをしないのは、報道する側が「自分たちは罰せられたくない」という気持ちが無意識に
あるからだと思えてならない。

7月17日(木)
ついこのあいだチリの海岸沖に打ち上げられた巨大生物が鯨と判明してガッカリしたのも束の間、
やったぜ今度は中国朝鮮国境にて、なんと20頭もの正体不明生物目撃情報である。
吉林省長白山(標高2750メートル!)の山頂にある「天池」(素晴らしいネーミング)で、
林業庁幹部から観光客にいたるさまざまな人たちが同時に、しかも30分以上に亙って、
湖面を浮き沈みする怪物を20頭以上も目撃したそうだ。怪物はキリンのように長い首を持ち、
それでいて水牛のような犬のような、ワニのような熊のような生物だったという。どんなだ、それは。
この長白山というのは朝鮮名白頭山であり、天池は火山口に水がたまった中国最深の湖だそうで、
一説によると怪物は「湖から出て山に登った」などともいわれている。写真も撮ったが不鮮明だそうである。
水牛とキリンとワニの混ざったような巨大生物が、中国の湖からのそのそ山に登っていくなんて、
ああ、何と壮大!

7月15日(火)
「フィクショネス」の階段を下りてすぐのところに、小さなレコード屋さんがある。そこの窓際の棚にある
LPレコードのジャケットに、「SUPER EROTICA」と書いてあって、半裸の女性が白黒写真で写っている。
それが通りかかるたびに見えるのである。
気になって気になってしょうがない。
いっそ買ってしまおうかと思うのだが、僕はレコードプレイヤーを持っていない。そうなると僕は、
「スーパーエロチカ」というLPを、何が聞こえてくるのか全然判らないままに、ただ持っている
ことになってしまう。特にイヤラシクもない半裸のジャケットを眺めながら、「ああ、この中に
スーパーエロチカが入っているのだ」と思いながら暮らすのは、あまりにも切ない。
何年も何年も昔、ビデオデッキが高価であったころ、レンタルビデオ屋のアダルトビデオのジャケットを
見ながら、同じようなことを考えたことが、あったような、なかったような。

7月14日(月)
昨日は最高に幸福な出来事があった。高見盛関が横綱朝青龍を破ったのである。
昨年来の高見盛ファンである私は、この日が来るのを待ちわびていた。
仕事の真っ最中であるからテレビは見られない。携帯ラジオをつけて外に出て聞くのである。
ラジオで相撲を聞くのは、なかなか味があっていい。
凄まじい歓声で実況アナウンサーの声が聞こえない。場内割れんばかりの拍手と叫び声の中で、
ひと言「たかみざかりっ」という声だけが聞こえた。
それだけで、もう泣いてしまった。
今やトーク番組やCMにも出ているから、高見盛関を知らない人はいないと思うが、不器用な、
弱虫な、かっこの悪い関取である。稽古では信じられないくらい弱いそうだ。横綱には、まだいっぺんも
勝ったことがなかった。それが今場所、武蔵丸に勝った。とはいっても今場所の武蔵丸は手負いであり、
四つに組んだとはいい難い。実際横綱は翌日から休場になった。
昨日の取り組みで、横綱が負けると思った人は、ファンの中にもいなかったと思う。今日の
スポーツ新聞を見ると、高見盛のご両親ですら負けると思っていたようだ。いきなり張り手をかまされたが、
そのまま張られた顔を横綱の右脇に埋めこんで、あとは押して押して押し捲った。横綱が甘く見ていたという
下馬評もあるが、やはり高見盛は強くなっている。
人は誰でも、心の中に不器用で弱虫で、愚直なものを持っている。普通ならかっこ悪くて隠してしまう
そんな人間の弱いところを、高見盛は丸出しにして勝っている。人気が出るのも当然だ。これまで人気先行
だったけど、もしかしたら今場所あたり、実力も備えることになりはしないか。

7月13日(日)
昨日書いた、チリの巨大生物。いきなり学者が結論を出してしまった。
マッコウクジラ、ですって。
つまんねーの! 地球はせまいね!

いやいやいや……
これはやっぱり未知の恐るべき生物なのだ。科学者が恐れをなして「マッコウクジラに、しちゃえ!」と
思って、事実を糊塗したのだ。本当は謎の生物、ヌメリバミリボン(命名藤谷)なのだ!
……なんて思うほうが、かえって夢がない感じだね。凡庸というか。
「謎の巨大生物UMA」っていうホームページがあって、ここではネッシーを始めとする謎の巨大生物を、
生物学者が真剣に楽しみながら解説している。
今回の巨大生物についても、もちろん特集を組んでいるけれど、そこにはこうある。

「謎の生物を愛する人々は、今回の様なケースは慣れているということも有り、
次のお話(目撃・漂着・ネタ)へ期待をするのでありました。」

That is the spirits!(そうこなくっちゃ!)

7月12日(土)
 ニュースの重大性というのは、何が基準なのだろう。
 たとえば今、長崎で起こった幼児殺害事件の犯人が12歳だったということが話題になっている。
そこから発展して、鴻池とかいう大臣が「犯人の親は市中引き回しの上打ち首にしろ」と、あからさまに
低脳なことをいって話題になっている。(ここで名言をひとつ。「悪漢の面にパンチ一発というのは
人生問題の解決策として単純すぎる」ジョージ・バーナード・ショー)
 恐ろしい事件である。でも、あんなにまでテレビや新聞で取り上げるほどではないだろう。
少なくとも、もっと重要な事件があるはずだ。
 では何がもっと重要な事件か、となると、人それぞれに違いない。特に今は、重大事件が
目白押しになっているように思われる。
 たとえば株価の乱高下。こんなのは日本経済こそ最重要課題と思っている人にとってはトップニュースな
わけだよね。あと阪神タイガーズ。これは野球を情熱をもって見ている人すべての重大問題であって、
私の知っているさる巨人ファンは、これがために体調を崩してしまったそうである。それくらい重大。
 アメリカだって看過するわけには行かない。イラクでの戦争は終結したと大統領はいう。でも現地の
アメリカ軍人でそう思っている奴は一人もいないようだ。自衛隊はすでにイラクに向けて出発してしまった。
はっきりいって自衛隊がイラクで一人でも死んだら、イラク特措法の法案を提出した小泉純一郎以下、
可決した国会議員全員殺人罪だと思う。したがってこれもまた重大問題である。
 他にも日本道路公団やt.A.T.uのドタキャン、埼玉県知事の辞職、さらには横綱朝青龍の反則負けに
至るまで、最重要問題と目されるべき事件は多い。
 けれどもこれらのどれひとつとして、僕には本当に重要な問題とは思えない。
 今、一番重要な問題、それはチリの海岸に漂着した巨大生物だと思う。
 6月24日にチリ南部の太平洋沿岸に打ち上げられた全長12メートルの生物の死骸と思しき
ゼラチン質の巨大物質は、写真からの素人判断でタコかイカだろうと思われたが、その後の調査によって
「タコでないことだけは確か」ということになったのだそうである。生物学者の中には「未知の生命体の
可能性もある」と言っている人もいるとか。
 これ以上重大なニュースがあるものか。道路公団だの中学生の殺人だの、そんなものはしょせん
人間のあいだの内輪話に過ぎない。地球はでかい。でかすぎる。

7月6日(日)
 「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」の書き直しが終ったので、「わるいこ(仮)」に集中。
一人称で書き始めたら、全然調子が出なかったので、三人称で書き直したところ、けっこうスラスラ
いくので自分でもビックリ。やっぱり僕は今風の小説は書けないんだな。一人称すらうまくこなせないんじゃ
駄目だ。やりたいようにやるのがいちばん。

7月4日(木)
 昨日の続き。
 本が好き、本という物体の手触りや質感、活字の配列の妙、造本、紙、そういったものが好きという
人にとって、『紙葉の家』はたまらなく魅力的だろう。この本は何をおいても、まずタイポグラフィの
傑作ということができる。文学的な価値に懐疑的な人でも、それだけは認めるはずだ。それくらいこの本は、
複雑怪奇な活字の配列に満ちている。縦になり横になり斜めになり、大きくなり小さくなり、
活字それ自体がひとつの怪物のように、読む者に迫ってくる。これを4600円で出したというのは、ソ
ニーマガジン、出血覚悟だろう。
 小説が好きという人にとってもおすすめだ。外見や帯の文句に関係なく、この本はホラー小説である。
ピンチョンとかエリクソンとかナボコフとか、現代アメリカ文学の名前が引き合いに出されているが、
読んでいるときには、ひたすら本文の化け物屋敷探検の顛末が気になって、僕は三日で読んでしまった。
かといって並みのホラーと同じ味わいともいえない。もしかしたらそれは、全頁に横溢するタイポグラフィ
のために、そんな印象を受けるだけかもしれない。普通のホラー小説だと思われたくなくて、
膨大な注釈をつけたとも思われる。でも、面白いことは面白い。それは間違いない。

 ところで、本日は開店記念日です。これからもどうぞ、御贔屓に。

7月2日(水)
マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(嶋田洋一訳、ソニーマガジンズ)が4600円
というのは安い。安すぎる。
 一回の日記が長いのは読みにくいので、これから2、3日かけてこの本の話をするから、興味が
あったら近所の大きな本屋で実物を見て欲しい。で、買いたくなったらご予約は当店で。
 今日はこの小説が、どういうものなのかを説明します。うまくできるかなあ。
 この小説はマーク・Z・ダニエレブスキーという人が書いた。まずそのことをハッキリさせる
必要がある。というのもこの本には、「書いた」あるいは「編纂した」人、というのが、いっぱい
出てくるからなんだ。
 ジョニー・トルーアントというアメリカのジャンキーがいる。この男の友人と同じアパートに
住んでいたザンパノという老人が死ぬ。トルーアントは老人のアパートから原稿を発見する。
タイトルは「ネイヴィッドソン記録」。トルーアントはこの原稿を整理し、
出版社に送る。出版社はそれに補足を加え、『紙葉の家』と題して出版する。
 『紙葉の家』は、このザンパノが書いた「ネイヴィッドソン記録」全文と、やはりザンパノがつけた
注釈、さらにトルーアントが加えた注釈に、出版社の加えた注釈と、本文に補足される付属文書
(ザンパノについてと、トルーアントについての2種類)、それに索引とクレジットから成っている。
つまりこの本は、全編注釈だらけの本なのである。
 本文の「ネイヴィッドソン記録」というのは、ネイヴィッドソンというフォトジャーナリストが作った、
自宅に関するドキュメンタリー映画(タイトルは同じ「ネイヴィッドソン記録」)の詳細な報告なのだ。
 こう書くと、いかにも退屈そうに思えるかもしれない。ところがどっこい、この小説はホラー小説
なのである。というのも、かんじんなネイヴィッドソンの自宅というのが、お化け屋敷なのだ。
 いやむしろ、「屋敷お化け」というのが正確だ。この家には、ありえない空間が存在するのである。
読む人のためにあまり詳しいことは書かないが、帯に、一昨年評判になった低予算ホラー映画
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が引き合いに出されているのは、かなり正しいと思う。
 ああ、やっぱり長くなっちゃった。今日はここまで。

7月1日(火)
 頭の中に、大きな大きな風呂敷が広げられている。この風呂敷に包めるものが、僕にできるんだろうか。
 本日より新作「わるいこ」(仮題)執筆開始。

6月30日(月)
t.A.T.u.とかいう、ロシア人の18歳二人組が、テレビ朝日「ミュージックステーション」を
生放送中にボイコット、ファンの集いもビデオ撮影もキャンセルして、ことによると今日あたり、
もう帰国するとかいうことが起こったね。
 若いって、なんか気の毒。
 妻が「ミュージックステーション」を見ていて、あっけに取られていた。彼女は半分、
同性愛みたいなものであるから、ああいう女の子は大好きで、CDも買っている。今度の騒ぎで、
一気に熱が冷めたようだ。
 ボイコットについて、記者会見では「自分たちだけのショーにしたかった。欧米でも自分たちは
別枠で撮るのに、日本の歌手と一緒にされて、疎外感を味わった」とかぬかしたんだと。
図々しさが自己主張と同義。でもって誰も相手にしないと、「自己主張」が通ったと思い込む。それがヤング。
かんべんしてくれ。来年からどうするつもりなんだ。
 t.A.T.u.のプロデューサーは、もと児童心理学者なんだとか。どうも今回の一件で、僕は俄然
あの二人に興味が出てきたね。ただし今の二人じゃなくて、十年後の。

6月28日(土)
 レイモンド・チャンドラー「高い窓」再読。10回目くらい。
 まだ読んでいない人のためにいうと、チャンドラーの「高い窓」と「湖中の女」は、
ハヤカワ文庫で読まないほうがいいと思うよ。ちょっと高くて、大きな本屋にしか
ないけれど、長細い「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」で読んだほうがいい。
田中小実昌の名訳だから。文庫の清水俊二訳は、問題があるといわれているし、
特にこの2作は、あんまり感じが出ない。ただし僕は清水訳の「さらば愛しき女よ」と
「長いお別れ」は、そんなに嫌いじゃない。
 チャンドラーは「高い窓」を、あまり良い出来だと思っていなかったらしい。僕もそんなに
好きじゃなかった。陰気なのだ。チャンドラーは、陰気になろうと思ったら果てしなく陰気になれる。
 しかし今度読み直してみて、やっぱり面白かった。陰気なのは確かだが、僕が思っていたようには
陰気ではなかったのだ。
 この小説では、ある女性がとんでもなくひどい目に会わされる。それをフィリップ・マーロウが
救出するのだが、実際には、それは全体の中の1エピソードに過ぎない。丁寧に書いてあるが、
おどろおどろしくはない。でも読んでいると、その女性のことを考えて、ぞっとするし、頭にくる。
 読後に作品のイメージが増幅されて、実際に書かれている以上におぞましい印象を残す、
というのは、筆力があればこそ可能なことだ。

6月27日(金)
昨日は北野武監督「DOLLS」を見た。しかし先週の「海辺のカフカ」といい、遅れてるね俺も。
感想は……。最初ダメで、中間よくて、ラストがとってもダメ。俳優は、菅野美穂が素晴らしい。
あと、深田恭子の相手役も素晴らしい。
愛の話である。冒頭、文楽で心中ものが演じられることからも明らかなように、様式美的な愛の物語を、
北野監督はやりたかったんだろうと思う。
愛は死によって完成=完結する、という、三島由紀夫的な世界があって、そこに、「死んだって
どうってことないんだ」という北野武の世界を加えようとしたんじゃないかと思うんだが、
「三島プラス北野」になっていない。と思った。
だけど、にもかかわらず、この映画は魅力的だった。愛の妄執とか、愛の狂気、といった、
歯の浮くような図式性の中には、やはり人の心を打つものがある。
それを端的に見せているのが、深田恭子がアイドル歌手を演じているエピソードだ。(劇中歌も
深田恭子の曲)。彼女に熱狂的なファンがいる。道路工事の交通整理をしている時以外は、
いっつも彼女をおっかけてる。深田恭子が自動車事故で顔面に負傷し、芸能界を引退する。すると
このおっかけ男は、自分の目を潰してしまうのである(そのシーンは暗示にとどまっていたので、
怖がりのボクは一安心)。人を介して引退した深田恭子に、その気の小さいおっかけ君が、おずおずと言う。
「見えないほうがいいかなっ、と思って……」
この男のやったことは凄まじいことである。愛するアイドル歌手の変わり果てた姿を見まいとして、
カッターナイフで自ら失明したのだ。にも拘らずこの弱気な口調。全編を通じて最も記憶に残った
台詞だった。

6月26日(木)
 大きな仕事がひとつ終って、ほっとひと息。ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(角川文庫)を
読み始めるが、僕、こういうの、苦手なんだよね。「意識の流れ」とか、そういう文学。
 文学と小説って、どう違うのかな。文学には詩とか評論も入るけど……とか、そういうことじゃなくて。
よくいうじゃない、「大江文学」とか「自然主義文学」とか。ああいうとき「自然主義の小説」とは、なかなかいわないよね。
 やっぱり「小説」という言葉には、何か俗なものがあるんだな。軽いというか、安っぽいというか。
「文学」という言葉は、立派だもんな。大学の学部名にもなれるし。
 でも、「小説」でしょう。どっち取るっていったら。「文学」なんて、堅苦しくて、つまんなそう。
もしも作家が「私の小説は文学だ」なんて思ってるとしたら、それはつまんなくて堅苦しいものを、
みずから選んでることになりゃしないか?
 つまんないこと、堅苦しいことをリスクとして背負いながら、それに見合った何か別な長所というか、
効用というか、そういうものが「文学」の中にあるのかもしれないね。
それがどういうものなのか、僕は知らないけど。

6月23日(月)
昨日、また横浜ベイスターズは負けたそうだ。「そうだ」というのは、見てないから。見ちゃいられないよ。
今日現在、18勝47敗である。七月になるまえに20勝する可能性は低い。五月には、
もう自力優勝がなくなった。そんな球団が、あってたまるものか!
 じゃあファンをやめればいいじゃないかと、人はいうかもしれないけれど、やめない。
負けると確かに悔しいが、勝って嬉しい、強くなきゃいけない、ということはない。
野球だけじゃなく、みんなそうでしょ。

6月22日(日)
 いったん関心を持つと、その分野を集中して読む。昨日は加藤典洋「村上春樹 イエローページ」を読んだ。
 なんだかちょっと、牽強付会。まるで村上春樹の作品が、加藤氏の思い通りに ならなきゃいけないと
いってるような気がした。でもこれは多分、読んで いるこっちのコンディションのせいだろう。
どの文芸評論もそんなふうに 読めるに違いない。
 今、新しい小説のことを考えているんだけど、それがどうも「ねじまき鳥クロ ニクル」の設定と
かぶるっぽい(←若々しい表現)。でも、わざとかぶら せちゃおうかな。敬意と反発をこめて。
 その小説ではこういうことを考えている。「不快なものから目を背けることに よって、見えてくる
ものがあるんじゃないか」それが何かは、僕にもまだ 判っていないけれど。

6月21日(土)
昨日の続き。
「海辺のカフカ」が傑作であることは間違いない。だけど、やっぱりちょっと、 違うかな? と思うこともある。
 これはもう「羊をめぐる冒険」のころから思っていたことなんだけれど、村上 春樹氏は、どうも「悪」というものが実在する、
と思っているんじゃない かしら。悪の実在、というのは、つまり人間ひとりひとりの心とは別なところに
「悪」というものがあって、それが人の心の弱さや疲れに取り憑くと、悪 いことが起こる、悪いことを起こす、
ということ。「海辺のカフカ」のク ライマックスも、悪魔退治みたいなシーンなんだよな。
それって、どうなんだろう。
悪というのはふたつに別れる。現象と意思。現象というのは、人を傷つけたり、 殺したりすることだ。
意思というのは「傷つけたい」「殺したい」と思う ことだ。
ふたつがいっぺんにあることもある。どっちかひとつしかないこともある。そし て意思だけあって現象がなければ、
その悪は世の中に現れない。意思がな くて現象があるのは、悪ではなく悲劇だろう。だから問題は意思なんだ。
たとえば保険金殺人というものがある。保険金を取るために人を殺すのは、強固 な悪への意志がなければできないことだ。
もう昔の話になっちゃったけ ど、看護婦が四人か五人で共謀して保険金連続殺人をした事件があった。
あれには首謀者がいて、ほかの看護婦を巻き込んでいったと報道されている。と すれば、ほかの看護婦には
意思がなかったのだろうか。首謀者が恐ろしく て、人殺しをするほかないところに追い詰められたのだろうか。
もし、村上春樹の小説に出てくる「悪」を退治できたなら、そういうことは起こ らないのだろうか。
でも僕は村上春樹のそういう「悪」の提示のしかたを非難しない。その悪魔退治 のシーンを、
僕はいいシーンだと思った。それは悪魔退治の「悪魔」じゃ なくて、「退治」のほうに軸足がかかっているからだ。
退治する。つまり 何事かを成し遂げる、それは外見的にはたいしたことじゃないんだが、
読 んでいるととんでもなく偉大なことをしているとしか思えない。それは何かの役 に立っている。
でも役に立ったということはそんなに重要じゃなくて、そ れを完遂した、ということが大事なのである。
そういうシーンを創った村 上春樹を僕は尊敬する。だけど、その前段階としてある「悪の実在」
に は、抵抗を感じちゃうんだよ。悪って、そんな切り離し可能なものじゃないで しょ。だからヤッカイなわけでね。

6月20日(金)
村上春樹「海辺のカフカ」は、かなり思い切った、大胆な試みの小説だと思う。
村上春樹の偉いところは、なんといっても、常に前作を乗り越えるようにして新 作を書いていること。
そういう作家って、いそうでいない。
「海辺のカフカ」は、「ねじまき鳥クロニクル」のあとに続く作品、ということ は、あの長大で野心的な
「ねじまき鳥」を乗り越えようとした作品になっ ている。それはすごいことだね。
僕は「ねじまき鳥」は、あんまり乗らなかった。上手い小説だと思う。あんなに がんばった小説も
めったにないと思う。でも心に響いてこなかった。他人 の災難をえんえんと聞かされているような気持ちに
なってしまったのだ。 それはもちろん、作品のせいじゃない。だけど、小説というのが常に他人のこと について
書かれているということを考えると、読んで「他人事だ」と思わ せてしまうのは、やはり作品としての
弱点なのかもしれない。ずいぶんレ ベルの高い弱点だけれども。上手い、ということ前提の欠点だから。
「海辺のカフカ」にそんなことはない。そこがまず凄い。これまでの村上春樹作 品は、判らない人は
判らなくてもしょうがない、みたいなところがあっ た。今回は違う。と思う。
それはどうしてかというと、ひとつには登場人物が多彩だからだ。15歳の少年 から、70近い老人まで、
登場人物の年代がばらけている。性格も出自も さまざまだ。しかも読者は、そのどの人物に重心を置いて
読んでもいいよ うになっている。自分に近い年代の人間に感情移入する必要はない。僕は「星野 さん」という、
ピアスをつけたトラックの運転手に思い入れが強かった。 「星野さん」みたいなキャラクターは、
今までの村上春樹作品には出てこ なかったのではないだろうか。
もうひとつ。この小説は、小説として実に大胆なことをやってのけている。
ストーリー展開として、ある登場人物が、ある石を見つけなければならないのだ が、その見つかりかたが
強引なのである。ヒントがあって、謎を解いて、 艱難辛苦のあげくに見つかるのではないのだ。読んでいない人のために
ネ タバラシはしないが、「はいこれ」みたいな感じで、とってつけたように見つ かってしまう。普通だったら
そんなの、ルール違反だと思うんだけど、そ ういうルール違反があるということ自体が、
作品全体の雰囲気(というの も語弊があるけれど、「テーマ」といいたくない)と関係があるのである。
僕はその部分に、物語の神話的構造と、小説というものの現代性と、作家 の自由とが、同時に現れるのを感じる。
天才バカボンのパパみたいに、 「これでいいのだ!」と思ってしまう。

6月12日(木)
昨日の続き。昨日の日記は、あれじゃまるでプロの作家みたいだ。
実は去年、新潮新人賞の最終候補に僕の小説が残った。でも落ちた。
「候補に残りました」という留守電を聞いてから落選決定までのあいだに、心こ こにあらずって
感じになってしまったので、小説を書いていた。
その小説は、落選と同時に書くのをやめた。
今年に入って、お店にネクタイをしめた人が現れ、棚を見ながら「いい小説を書 く人はいませんかね」と聞いてきた。
「自費出版は詩集が多いんですよ」と、気のない受け答えをしたら、その人は
「店長さんも書いてらっしゃるらしいじゃないですか」といってきた。
どこかで新人賞の話を仕入れてきたんだろう、と思って、最初は
「いやもう、それはいいんですよ」とか何とかいっていたが、その人が出した名 刺が、大手出版社の
ものだったから、こっちは手のひらをグヮラリと返し て
「ここにコピーがあるんですよぉ!」といって、候補作を渡した。
後日、その人からかなり好意的な感想を聞かされたので、僕はヒラヒラヒラヒラ ……と舞い上がってしまい、
中断していた作品を一気に仕上げて、読んで もらった。
今、書き直しているのは、その小説なのである。タイトルは「アンダンテ・モッ ツァレラ・チーズ」

6月11日(水)
小説を書き直している。
書き直しというのは実に厳しい作業だ。
そもそも、最初に自分で何度も書き直して、「これなら大丈夫!」と思えるもの
を編集者に渡しているんだから、それを直さなければならないというのは、感情
的に納得いかないものがある。(じつに幼稚な感情だけどね)
それでも書き直すのは、最初のうちは、「気に入られたい」という、情けない気
持ちからだった。
しかし、実際に自分なりに直してみると、明らかに前よりも良くなっている。
自分の書いたものをどのくらい客観的に見られるかは疑問だが。
すると、さらに編集者に書き直しを提案される。(「命じられる」のではない。
命令だったら、おそらく決裂していたと思う)
「コノヤロウ!」と思って、直す。
今の書き直しは、実に六度目。部分的なものではあるけれど。厳しく感じるのも
無理はないと、我ながら思う。
ところが、そんな風にやってみると、気がつくことがある。
今度の小説は原稿用紙で310枚ほどで、ぎりぎり長編に入る程度の長さだが、
当然ながら登場人物もさまざまに出てくるし、事件やエピソードもある。
それら登場人物や部分的なエピソードには自分でも気がつかなかった、発展性
や、秘められた可能性がある。それは単純に、「もっと面白くなる」ということだ。
書き直しは、そういった部分をふくらませて、可能性を実現するためのものなのだ。
それは必ずしも、当初の自分が「書きたかった」ことではないかもしれない。
しかしそれは、単にそこまで自分が自分の小説について考え尽くしていなかったと
いうだけのことで、小説自体には、最初からその可能性があった、ということに
なる。実に口幅ったいことを書いているけれども。
そのことに思い至ってから、書き直しは厳しい作業ではあっても、必須であると
思うようになった。


2003年6月10日(火)
「読書日記」なんて、毎日書けやしない。でも、単なる「日記」なら、できるか も。
そういうわけで、ゆるゆると、身辺雑記を書いてみます。
今までの、濃い日記を期待していた人、ごめんなさい。

最近、非常に考え込んでしまうこと。それは「万景峰号」。
といっても、外交問題とか、北朝鮮問題とかのことじゃない。
言えないのである。「万景峰号」って。
「マンギョンボンゴウ」と、字で書くのは無論できる。でも発音できないのだ。
マンキョンビョンギョーとか、マンジョンボンギョーとか、あられもないことを
口走ってしまうのである。
「ばんけいほうごう」と、日本語読みにしてしまう奥の手はある。でも今や、韓 国語や
朝鮮語を日本語読みにするのは、いかにも爺臭い。でも言えない。悔し い。
だからもう、僕が「バンジョンジョンジョー」といったら、
それはバンジョン ビョンボウのことだと思ってくれ。

Copyright (C) 2004 ficciones. All rights reserved.