3月29日(月)
連日粛々と「おがたQ」の書き直しが続く。自信もなく、五里霧中で、毎日がへとへとだ。
だけど、最近つくづく思うんだが、いわば「仕事」として小説を書くようになって、僕は初めて、
文芸、というものに本当に向き合ったような気がしている。もちろん読むことじゃなくて、書くも
のとしての文芸に。それは徹頭徹尾、労働である。芸術的なイメージなんか、これっぽっちもあり
はしない。だけど文芸は芸術だと思う。つまり文芸(っていうか多分、創作全般)にとって、芸術
というのはイメージなどではなくて、今やっている労働そのものなのだ。まるっきり即物的な、当
面の課題を、ひとつひとつ片付けていくこと。今書いている登場人物は、窓のところに歩いていく
のか、もう窓のところにいるのか。「である」か「であった」か。次のシーンに移るべきか、もう
少し今のシーンを書き込むべきか。「の」が多すぎないか。真面目すぎないか。そういう風にして
文芸はできていく。それ以外にできる方法はない。
ロダンかミケランジェロか忘れたけれど、真に偉大な彫刻というのは大理石の中に埋まっていて、
彫刻家の仕事はそれを掘り出すことだ、といったとかいわないとかいう話がある。これは芸術とい
うのは人為ではなく自然であるという意味なんだろうけれど、とてもじゃないがそんな境地には行
き着けそうもないね僕は。行き着きたいとも思わない。あっちは削りすぎこっちは削り足らないと
自分自身にブウブウ文句を垂れながら、せめて一日1センチくらいは進みたいと思いつつ、4ミリ
ほど前進するような仕事が、僕の文芸にはふさわしいんじゃないだろうか。
3月25日(木)
小学館の石川和男氏と飲んだ。前にも書いたがこの人は天才的な編集者だと思う。書きあぐね、くた
びれきっている僕に、前進する力を与えてくれる。
筒井康隆に「養豚の実際」という短編がある。その中で作家たちは編集者たちに飼いならされている。
あの作家は泣かせるといいものを書くとか、あいつには次の文学賞をやればいいとか相談している。
その中で作家は、何もかもがあてがい扶持のような気がして、心がどんどんすさんでいく。
石川さんのいいところは、彼の僕に対する要請が、結局は彼自身が求めていることであって、僕に良
かれと思っているわけでは必ずしもない、というところだ。彼は僕が書くものを自分の中ですでに夢
想していて、現実の僕の作品が、そこまでいっていないことが不満なのである。もっとできるはずな
のに、と彼は、そんな直接的なことはいわないけれど、そういう意味のことをいう。でもそれは、俺
のいうとおりにしていればいいんだ、ということではないんだ。そういう悪い意味での自信は彼には
ない。僕は実にしばしば石川さんの予想を裏切る。彼はたまに、こんな話はどうでしょう、といって
アイディアを持ってくるけれど、そのアイディアになびいたことはいっぺんもない。そういうことは
関係ないのである。僕が今の力で精一杯書くことが、石川さんの予断に反しても、それ自体が一定の
値打ちを持っていれば、彼はその値打ちをキャッチしてくれるのである。
そして、ここが彼の天才的なところなのだが、今まで書いてきたようなことの一切を、彼は正真正銘
の無意識でやってしまうのだ。彼が僕に対して何かちょっとでもたくらみを持っていたら、僕はそれ
を察知して、わざとそれを無視したかもしれない。でもそうじゃない。そういうわけで、「おがたQ、
という女」の書き直しは、現在165枚ほど。あと120枚くらい書けば完成だ!
3月21日(日)
「おがたQ、という女」書き直し。実につらい。もうできあがっている小説を書き直すというのは本
当に難しいものだ。
現実逃避の意味も込めて、エミリ・ブロンテ「嵐が丘」(新潮文庫)を読んでいるんだけど、これが
また凄まじい小説。新潮文庫は翻訳を新しくしたってんで読み返しているんだが、キャサリンにして
もヒースクリフにしても、何とかならんのか! どうしてそんなにケンケンケンケン怒鳴ったりわめ
いたり、人を殴ったり犬を木に吊るしたりするんだ。もっと仲良くできないのかバカタレがーっ!
だいたい、キャサリンはヒースクリフなんどいう男の、どこが好きなんだろう。あんなのただのチン
ピラやんけ。あと、人間関係がまぎわらしくてわずらわしい。ヒースクリフの息子の名前がヒースク
リフで、キャサリンの一人娘の名前がキャサリンて、読んでるうちに何がなんだか判らなくなるわい
っ。現実逃避どころか、ますます頭に血が昇る。
3月19日(金)
僕の家では読売新聞を取っている。読売新聞が連日のように自衛隊のイラク派兵に賛成しているのを
見せつけられている。前にも書いたとおり、僕は自衛隊が戦地に赴くことに賛成である。そしてその
賛成によって、僕はサマワの自衛隊に万が一のことが起こったら、責任があると思っている。読売新
聞の記者はそう思っているのだろうか。
一方で憲法改変の動きが自民党にも民主党にもあるそうである。彼らが変えようとしているのは勿論、
というべきか、戦争放棄の条項である。どうして憲法を変えたいかというと、自分たちが作った憲法
ではないからだそうである。
日本国憲法という文章は、GHQによって英語で書かれた文章に基づくものである。それは日本人が
日本人のために作った文章ではない。人類が人類のために作った文章である。しかし憲法というもの
は、人類のためではなく、国家のための文章なのだ。国家が人類のための文章を国家のための文章に
変えてどこが悪い、と、改憲論者たちはいう。
戦争を放棄する国家、というのが人類の理想であることは言を俟たない。実際には日本国憲法制定以
来、世界ではありとあらゆる種類の戦争が行われ続けている。そんな世界で理想を掲げているのは暢
気坊主も同然だ。
それでも僕は、個人にとってだけでなく国家にとっても、理想というのはこれ以上ないというくらい
大切なものだと思う。どこで戦火が広がろうとそっぽを向いて知らん顔をするというのが戦争放棄な
のではない。戦争によらない国家間紛争の解決手段を、知恵を尽くし言葉を尽くし、行いを尽くして
考えるのが、日本国憲法下で政治家となった人間たちの役割ではないのか。もちろんそれは、日本国
憲法下で主権者となった日本人全員の役割でもある。現行憲法が国民にとって承諾しうるものである
かどうかをまず問うべきだろう。目先のことだけを考えて人類の理想を暢気坊主と同然に堕さしめる
改憲論は、人はパンのみにて生きる、といっているのと同じことだ。
3月18日(木)
おとといの夜ニュースを聞いて、僕はすぐに近所のコンビニエンスストアに駆けつけた。いうまでも
なく、今週の「週刊文春」を買うためである。あとで聞くとコンビニや書店は、とうとう回収に応じ
なかったそうだ。しかしキオスクが自主回収を始め、それに呼応して私鉄の売店も引き上げたそうで
ある。回収の義務は出版社にあって販売店にはない、ということがコンビニや書店でいちはやく共通
認識になったにもかかわらず、どうしてキオスクがそんなことをしたのか判らない。
僕は問題になった、田中真紀子の長女が一年で離婚したという記事が読みたくて「週刊文春」を買っ
たわけではない。例の若村麻由美の結婚相手に関する記事が続いていたから買ったのだが、もしもそ
ういうお目当ての記事がなかったとしても買っただろう。野次馬根性だけで。
この問題の厄介なところは、なんといっても当の記事自体がしょぼすぎるということである。田中真
紀子の長女、そんな奴が離婚しようとどうしようとこっちゃあ知りたくもない。そして書かれた長女
の人はさぞかしかっこ悪い思いをしていることだろう。
僕は週刊誌にあることないこと書かれた人を個人的に知っている。その人はあまりのことにショック
を受けて寝込んでしまった。普段気丈な人なだけに、あれはやはり相当ひどいことなのだろう。その
人の場合、本当に事実無根だったうえに、記事の書き方が伝聞を中心にしたものであったので、これ
以上被害を拡大しないために訴訟はしないという、踏んだり蹴ったり、殴られる一方の結果に終った。
ただ、その人はそれ以後事業を拡大し、いまや国際的に活躍している。直接関係はないが恋人までで
きて、毎日あちこち飛び回っている。週刊誌はもちろんその人に謝罪は愚か挨拶ひとつしてきたわけ
ではないが、そんなことはその人の活躍とは何の関係もなくなっている。
若村麻由美の一件もそうだが、週刊誌に書かれていることを、現実的に捉える人というのは、常識あ
る社会人の中には、実はあまりいないのではないだろうか。もしも僕が週刊誌によほどひどいことを
書かれたとしたら、記者を探してぶん殴るとか、編集長をぺったんこにしてやるとかはするかもしれ
ないが、週刊誌一冊まるまる発売を差し止めるなんてことはしないだろう。司直の手を介在させるこ
とはしないと思う。だって実際問題、あんなことをしなければ、田中真紀子の長女が離婚したなんて
こと、こんなに広まらなかったと思うしね。
3月7日(日)
民主党の佐藤って人が逮捕されたんですってね。最近ニュース見ないから、あんまりよく知らないけ
れど。
このあいだ妹がマイケル・ムーアの「恐るべき真実」っていうテレビ番組を録画したDVDを送って
くれたんだけど、その中に「ザ・チョイス」という短編ドキュメンタリーがあった。上院議員選挙に
ムーアたちが、「ファイカス(Ficus)」を立候補させた記録だ。ファイカスってつまり、いちじくの
観葉植物なんだよ。ムーアたちはそれを大真面目にやる。選挙管理委員会に登録して、選挙事務所を
作って、電話や応援演説など、選挙運動もひととおりやるわけ。
なんでそんなことをやるかっていうと、アメリカの上院議員選挙って、対立候補が出ないところが全
選挙区の4分の1もあるんだってさ。そこでムーアたちはひとつの選挙区を選んで、有権者に選択の
余地を与えるために、観葉植物を候補に立てる。
これがバカウケしちゃって、町を歩けばみんなに応援されるし、調査をすれば支持率88%という圧
倒的優位に立つ。それだけじゃない。ムーア氏はそんなことひとつもいっていないのに、テキサスで
もニューヨークでもウエスト・ヴァージニアでも、ファイカスが候補になってしまう。
なんでこんな「ムーブメント」がアメリカで受けてしまうのか? ムーア氏は「ここには重大な問題
がある」という。「アメリカ人は二大政党制にうんざりしてる。どっちを選んでも大差ないからだ」
そこで僕は日本のことを考える。このあいだの衆議院選挙のことを。民主党はしきりにいってたよね、
二大政党制ってことを。マニフェスト選挙とかいうネーミングも、民主党が主導権を握って作られた
ようなものだった。結果は、二大政党制に近くなくもない、っていう程度のものだった。そして忘れ
ちゃいけない。投票率は史上二番目の低さだった。
僕はあの選挙をくだらなかったといっているわけでも、マスコミが無力だったといっているわけでも
ない。ただあの選挙では、ひとつのパラドックスを「主権者」(それは僕やあなたといった「個人」
ではない)は感じたのではないだろうか。つまり二大政党制を取れば「どっちを選んでも大差ない」
が、複数党が混在する状態を選べば、それは今までと同じことで、要するに自民党の一党独裁という
ことを意味する、というパラドックスだ。結果的に民主党は議席を増やしたけれど、そのホコロビが
ぼろぼろぼろぼろほどけてきている。今、世論調査をしたとしたら、民主党に政権を任せてみようと
思う人は、ほとんどいないんじゃないかと思う。それはしかし、驚くべきことでもなんでもない。こ
うなることを「主権者」は知っていた。だからこそ投票行動それ自体にしらけていたんである。
マイケル・ムーアの作品を見て、日本の現状を見てみると、日本もさまざまにひどいけれど、アメリ
カほどではないと思う。僕が無知なせいもあるだろう。恵まれた環境にいるからでもあるだろう。け
れども少なくとも僕は、日本で拳銃を見たことはなく、貧富の差が激しいと感じたこともなく、国会
議員の選挙で対立候補がいない選挙区も見たことはない。値上がりしたとはいっても、一応国民皆保
険ではあるし、保険衛生面ではやりすぎじゃないかと思えるくらいだ。こういうことはやはり、誇っ
ていいことだと思う。
3月6日(土)
雑用を済ませたので、本日より気合を入れて『おがたQ、という女』書き直し。本を一冊出しただけな
のに、素晴らしく予定が詰まってる。まず今月は『おがたQ』を書き直す。これは後半など書き直しと
いうより「差し替え」になるくらい直す。全然違う話になる予定だ。5月からは小学館の新雑誌「きら
ら」(どうなんでしょうこのタイトル)に『いつか棺桶はやってくる』連載。これはもう完全に完成し
ていて、あんまり手を入れなくてもいい(と思う)。そして6月に『おがたQ』が出て、そのあたりか
ら新作を書き始めることになる。これは前に書いたラブ・ストーリーなんだけど、まだどんな話になる
か全然決まっていない。でそれを年内早めに仕上げて、書下ろしとして年末とか来年はじめに出す。で
来年はいよいよ小学館じゃないところから出していただける予定で、これはタイトル(と内容)が『い
なかのせんきょ』。父親から聞いた話をもとに、一気に書いてこましたろうと思っている。こう書いて
みるといかにも売れっ子って感じ。いまいち実感がわかないけど、恵まれていることだけは確かだ。が
んばってひとつひとつ、いいものにしないといけない。まずは書き直しから。
今日の読書は一橋文哉『宮崎勤事件 塗り潰されたシナリオ』(新潮文庫)。まだ途中だけど、眉唾の
可能性を視野に入れて、ちょっと距離をおいて読むべきかも。あの、僕にとってはとても重要な本、吉
岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋)の切実さには及ぶべくもない。
3月4日(木)
出る出ると思っていたらやっぱり出た。今日発売の「週刊文春」3月11日号巻頭スクープは、「若村
麻由美・渡辺謙夫妻と怪僧・小野兼弘 爛れた四角関係」だ!
これは署名記事である。書いたのは藤本という政治ジャーナリスト。小野という人は前にも書いたが森
喜朗と親しいから、その関係でパイプができていたらしい。つまり藤本氏は、小野本人からこの記事の
内容をすっかり聞いていたのである。
読んでみたらあっとびっくり、なんと渡辺謙夫人と小野僧侶は関係があったらしいんですってよ。でも
って夫人は謙と別れて小野と一緒になるために、小野は若村麻由美をワガモノにするために、謙と若村
の不倫関係を公にしようとしていたのであった。もちろん、渡辺夫人は小野が若村を狙っていることは
知らなかったんである。「私がこの男(小野)を許せないのは、人に知られたくない個人のプライバシ
ーを、カネ欲しさと己の欲望を満たすために利用したことだ」と藤本氏は書いている。その藤本氏が書
いているのは個人のプライバシーそのものだが、それはいいの。僕だって誰だって、この話を人間の話
と思って聞いちゃいない。火曜サスペンス劇場と思っている。
面白いのはそれだけじゃないぞ。脇に楽しいエピソードがいっぱいつまってる。たとえば渡辺謙は「肝
炎にかかっているにもかかわらず、浮気を繰り返して」いたそうだ。これは怖いね。肝炎は性交渉でも
感染する病気らしいから。うーん、肝炎にかかった女優にもウォッチングの範囲を広げなければいかん
か。
ところがそもそも、渡辺謙があっちこっちの女優と浮気をしていたという夫人の疑惑そのものが、ちょ
っと怪しいのである。ある女優とニューヨークへロケに行くとき、その女優の旦那さんが怒りまくって
いたとか、別な女優さんから電話がかかってきたとか、その程度のことで渡辺謙の浮気を疑っているの
である。もっともこれは、藤本氏の記事の書き方によるミスリードかもしれない。だけど渡辺謙は若村
とだけは真剣に恋をしていたってんだから、ちょっと記事を書くうえで話が「整理」されてる可能性も
否定できない。でも、これもいいの。面白いほうを選べばよい。そーだ、藤本って人もサスペンス劇場
に入れちゃおうかな。
こういう話を聞いていると、「腹黒い人間」って、本当にいるんだなと思う。もちろん僕は、小野僧侶
のことをいっている。若村麻由美じゃなくたって、ほかにもいい女なんかいくらでもいるだろうに。よ
りにもよって「自分が不倫している女性の旦那の恋人」(ややこしい)と結婚しなくてもいいんじゃな
いの。このあいだ読んだパトリック・クェンティン『わが子は殺人者』には、周囲の人間を自分の支配
下におくために、そいつらをどんどん不幸にしていく人間が出てくる。読んでいて、そんなわざとらし
い悪人がいるのかね、と思っていたが、僕は人間観察が狭かった。いるのである。人のことを支配し、
束縛し、不幸にして、それでよりいっそう支配力を強めていく人間というのは実在するし、考えてみれ
ば、そもそも権力とか支配というのは、そういうメカニズムでできているのだ。人の気持ちを思いやっ
ていたりしたら、権力を手に入れることはできないのである。
2月29日(日)
とんでもない過ちを犯してしまった。大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)を読んだあと
に、石原慎太郎『太陽の季節』(新潮文庫)を読んでしまったのだ。
『サブカルチャー文学論』は文藝春秋の「文学界」に連載していたとき、編集部と大塚氏がケンカして
中断したことで知られる。そしてそのケンカのもとが彼の石原慎太郎論で、石原先生の批判はまかりな
らぬと、文藝春秋がいったとかいわないとか噂になっていた。朝日新聞社で一冊になったのを読むと、
確かに石原慎太郎文学をコテンパンに批判している。「甘えっ子」なんていっている。そりゃそーだろ
ーなーと、軽い気持ちで『太陽の季節』を読み始めたのだが、へこんだね。こりゃ甘えっ子どころの話
じゃない、それ以前の問題。文章としてひどすぎる。大塚英志という人の文章もひどいけれど(講談社
現代新書の本を読んでいたら「あらかじめ予見した」って書いてあったよ)、大塚英志のは評論で、石
原慎太郎のは小説だ。そして僕の考えでは、小説というのは文芸、つまり文章の芸であって、文章がダ
メならダメなのである。なんでかというと、小説における文章のダメさというのは、文意の中から湧い
て出てくるものだからだ。
たとえばあの有名な「障子」、うちの母親も知っている、好きな女の目の前で勃起したちんちんを障子
から突き出すっていう、今から見ると「とほほほほほ」としかいいようのないシーンだけど、あれって
何だか、男らしい立派な青春の自己主張、みたいに思われているでしょ。でも読んでみると、全然違う
んだ。ちんちん突き立てたあと、女性から本を投げつけられて、男は「リングで感じるあのギラギラし
た、抵抗される人間の喜びを味ったのだ」って。つまり男は、勝手に感じてるだけなんである。そして
以後、男は全編を通じて、勝手に感じてるだけ。あっきれかえってモノもいえないたあこのことだ。
そうやって考えてみると、石原慎太郎の小説って、「処刑の部屋」でも「聖餐」でも、「生還」でも「弟」
でも「わが人生の時の時」でも、男が勝手に感じてるだけなんじゃないか、と思えてきて、なんだか憤
懣やるかたない思いに駆られてしまった。まあ、男が小説を書くと、勝手に感じてるだけなのかどうか、
見極めるのは大変なんだけど。
2月27日(金)
僕がアメリカに仕事で行ったのは、1995年の3月からである。行ったり来たりして、以後都合
2年くらいはメリーランド州ロックビルに住んでいた。
いよいよ明日でかける、という日のことは、今でもよく覚えている。アルバイトの女性がなかなか
こなくて、朝から心配していた。すると社長がみんなの働いているところにやってきて、
「おう、営業のやつは出かけるのを後回しにしろ。地下鉄が止まってる」といった。
「事故ですか」と誰かがいうと、社長は不思議そうな顔をして、
「いやそうじゃない。誰かが地下鉄に毒ガスを撒いたっていうんだ」と答えた。
僕は、そんなことあるわけないじゃないか、映画じゃあるまいしと思って、相手にしないでいた。
ところが遅れて出社したアルバイトの女性が、それは本当のことだという。自分も電車が一本か二
本ずれていたら、どうなっていたか判らないと。
会社では全然情報が入らなかった。帰宅してからテレビを見て、とんでもないことになっている地
下鉄霞ヶ関駅の情景を見たのだった。
で、翌日からアメリカである。僕はだから、日本でのどんちゃん騒ぎのようなオウム報道を、まる
で見ていない。父親と電話で喋っていると、ナンムダカンムダーが逮捕されただの、ネッハンダー
がこんなことをいっただのと、ちんぷんかんぷんなことをいっているので、ナンムダカンムダーた
誰のことだとただすと、そりゃお前、あいつのことだよと、それはそれで聞いたこともない名前を
持ち出されるのだった。横山弁護士も、江川ショウコも、「ああいえばジョウユウ」も、判らない
(松本サリン事件や、オウムの立候補などは、僕も日本にいたから判るんである。渋谷では象のお
面を被った白装束のかっこわるい連中を何度も見た)。
麻原ショウコウなる人間の逮捕もその頃のことであるから、僕には充分な実感がない。とりわけ、
あの頃の日本人が感じた集団的恐怖には実感がない。だから僕は「アンダーグラウンド」という、
オウム事件の被害者に村上春樹がインタビューした本には、今でもいくばくかの違和感がある。と
りわけあの本が、どう見ても村上春樹独特の切り口とか視点といったもののない、被害者には申し
訳ないが冗長な本であることには、大きな大きな違和感がある。
今日、麻原教祖は死刑判決を受けた。弁護側は即日控訴したから、今日で何かの決着が付いたわけ
ではないけれど、ニュース番組は上を下への大騒ぎだ。
だから、サリン事件ではなく、オウム真理教、という存在をひとつの事件として見るようなことし
か、僕にはできないわけだが、オウム真理教への激烈な報道と世間の関心は、あれが連続大量殺人
集団だからではないと思う。
殺人集団であることが明らかになる前から、オウムは世間の注目を集めていた。とてつもなく偏執
狂的であり、独善的であり、閉鎖的な存在として、よく知られた迷惑極まりない集団だった。富士
山麓の教団施設に入り込んだまま出てこない息子や娘を取り返そうと、必死になっている親御さん
たちのドキュメンタリーを、僕はサリン事件の前に見たことがある。そのときも僕は違和感を感じ
た。親御さんたちが帰ってきてくれと呼びかけている、時には強制的にでも家に連れ帰そうとして
いる娘たち、息子たちが、成人男女だったからである(勿論その後、彼らが自宅から金品を強奪し
て教団に献金していることが判ったが、それとこれとは別である)。
つまりこの時点でオウム真理教というのは、「子供が行ったきりになったまま帰らず、そこの教え
に身も心も染まってしまって、もう二度と前と同じ人間には戻りそうもない」という人間を作り出
す集団だったわけだ。ところで、これと同じような性質を持つ、もっと巨大な集団が、日本の社会
には存在する。それは東京である。今僕がカギカッコに入れた部分は、まるまる田舎から東京に出
てきた人間にあてはまることだ。
だから、僕はね、オウムに対するマスコミや世間一般の圧倒的な関心と憎悪は、東京に対する地方
の関心と憎悪を、そっくりそのまま反映していると思っている。あるいはまた、東京に対する憎悪
の矛先をそらすための、緩衝材としてマスコミが扱っているとさえ感じてしまうんである。
2月26日(木)
本日より「若村麻由美ウォッチャー」になることを決意。現時点で僕が知っていることを書けば、
その理由はおのずから理解されるはずだ。
若村麻由美は昭和42年1月3日東京生まれだから当年とって37歳。実家は練馬のとんかつ屋さ
んだそうである。仲代達矢の無名塾に入って、以後女優として活躍。目鼻立ちのきりっとした美人
である。今は「白い巨塔」に出演している。
この人が今日、結婚を発表した。相手は宗教法人「釈尊会」の会長、小野兼弘氏で、年齢は51歳、
体重は100キロ、写真も見たが容貌魁偉のツルッパゲである。政財界に知己も多く、5年前の
「釈尊会」20周年記念パーティには森喜朗や坂東八十助が出席したという。
またこの人物はいま「ザ・ラスト・サムライ」でハリウッドの注目を浴びている俳優、渡辺謙の夫人
に4億5000万円を貸した人物でもある。この借金が主な理由として渡辺夫妻は現在、離婚訴訟中
であるが、その裁判の席で夫人側の弁護士から、渡辺謙と若村麻由美の不倫関係を追及され、先週あ
たりの女性週刊誌を騒がした。渡辺謙には以前から金銭問題が取りざたされてもいた。
若村麻由美と「釈尊会」会長は、昨年9月に婚姻届を出していたそうだ。
どうですか、皆さん! とりわけ、アメリカのミステリ小説・映画のファンの皆さん! まるで絵に
描いたようなミステリのお膳立てではないですか。妙齢の女優。大富豪の宗教法人会長。世界的名声
をつかみかけている俳優と、経済感覚のおかしいその妻。離婚訴訟と不倫の疑惑。人のことだから勝
手にいわせてもらうけれど、あとは殺人事件が起こるのを待つばかりだ。こんなに面白いことって、
めったにないね!
2月23日(月)
パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』(創元推理文庫)読了。面白いねー。面白いよー。
息の詰まるような「起」から始まって、どう考えても「わが子は殺人者」の事件発生の「承」、そ
して「転」では主人公の全人生を真っ向から否定するほどの状況を白日の下に曝しながら、数頁ほ
どの「結」でそれを救済するという、単なる職人芸とはいえないような離れ業をやってのけている。
しかもその起承転結がすべて、流れがスムースで自然なんだよね。そして読み終わってみると、事
件そのものが実は破局ではなく再生の始まりだったという、人生の苦味を伴うカタルシスがある。
うまいっ。うますぎるっ。俺にはできんっ。
昼からは神保町に行ったので、ついでに石川和男さんと昼食。次回作、そして次々回作について一
人で勝手に喋る。お店に帰って『おがたQ、という女』をプリントアウト。ちらちら読んでみたけ
れど、これは突っ走りすぎじゃないのかね。突っ走る勢いを保持すべく、大幅書き直し決定。
2月21日(土)
次の小説を、なんにしよーかなーと考える。こういうときが一番楽しいね。
父親から教えてもらった話は、書くことが決定していて、いつ書き始めるかも決まっている。でも
それは次の次。今考えてるのは、次のやつ。
こんなことを自分でいうのはナンだが、日記だからいいだろう。『いつか棺桶はやってくる』は、
しんどい、交響曲みたいな仕事だった。今度はセレナーデみたいな、軽やかなものを書きたい。
実は石川さんと話して、次回作はラブ・ストーリーということになったのだ。世界の中心で愛を
叫ぶことは、多分彼も期待していないでしょう。僕は期待するけどね。160万部突破。本屋の
はしくれとしてあえていうが、売れる本は良い本である。売れない本にも良い本はあるが、小説
で売れずに良い本となると、これはもう幸田露伴レベルでないといけない。それに幸田露伴だって、
売れっ子の時代はちゃんとあったのだ。
それはさておき、ラブ・ストーリー。
恋愛小説って、いくつか定番があるよね。まず「初恋」。ツルゲーネフですよ。初恋はいいね。切
ないし、ゼッタイうまくいかない。青春の爽やかな思い出が涙を誘う。あと「悲恋」。これもいい。
椿姫。女が死ぬ。これですよ。女が死んで泣かないやつはいない。「貞操」。これが意外とね、今も
うけるんだ。逆もうける。「不倫」ね。あ、あとあれ忘れちゃいけないでしょ、「禁断」を。禁断は
不倫とは違うんだよね。同性。近親者。幼女。聖職者、なんていうのもある。こういうのでいいもの
を書くと、素晴らしい文学作品になる。『モーリス』とか『ロリータ』は、現代文学の金字塔だ。
僕が好きになれない恋愛小説の定番は「幻滅」だ。情事の終わり。サマセット・モーム。どうも恋愛
小説に神を介在させると、エロと幻滅になってしまうみたいだな。よし決めた。今まで小説の脇役に
必ずキリスト教を入れてきた僕だが、今度は神様なしにする。できるかなー。意外と支えてくれるん
だよね、神様問題って。でもやってみよう。
こういう要素を組み合わせて、恋愛小説は出来ているように見える。たとえば……
初恋+悲恋=野菊の墓。世界の中心。ある少女の死まで。
貞操+不倫=真珠夫人。
貞操+禁断=美徳の不幸。
不倫+悲恋=ジョルジュ大尉の手帳。
悲恋+貞操=嵐が丘。
こんな感じ。
どうしてさっきっから、こんなことをやっているかというに、私は自分が書くからには、なんとかユ
ニークなものを書きたいと思っているからなんである。定番を外して書くことは難しい。定番がいけ
ないということもない。だけどせめて、定番というものがあるんだぞ、ということは、常に頭のどこ
かでおさえておきたいのだ。そんじょそこらにすっころがってるような恋愛小説を書くのだけは、い
やだからね。
2月20日(金)
新作『いつか棺桶はやってくる』の書き直し、完了。「ここをこうしたらどうでしょう」みたいな
内容のメールが小学館の石川さんから来たのが2月の始め。直した分量は全部で十枚足らず。なん
でこんなに時間がかかってしまったのかな。初稿を渡したときに石川さんから「傑作です」などと
いわれたのがプレッシャーになっていたんだろうか。前回の日記で人の作品の悪口を書いたのも悪
かったのかもしれん。でも、とにかく、書き終えた。雑文書きの内職もあるし、次の書き直しも待
っているんだけど、今日はとにかく、脱力です。
2月13日(金)
「文藝春秋」掲載の芥川賞受賞二作読了。
人には、「嫉妬に目が眩んで読めなかった」といっているが、ここでは正直に書く。これはどっち
もひどい作品だ。文章は拙劣、物語は退屈、風俗は狭く、しかも「私」の一人語り。子供が小説を
書くとなれば一人称になるのはしょうがないのかもしれないが、そんなものにつきあっている暇は
ないと思った。
一体文学とは何かというに、それは一夜の無聊を慰めるために存在する読み物だと私は確信している。
要するにひまつぶしである。口に入って消化されるだけの食料に、味の優劣があるように、ひまつぶ
しにも優劣がある。ひとつの味しかしないより、いろんな味がするほうが良い。その意味でやはり
『罪と罰』とか『三四郎』といった文学は、『小田急江ノ島線殺人事件』みたいな文学よりも高級な
のである。
しかし少なくともミステリやポルノ、週刊誌の連載小説といった文学は、自分のことなんかどうでも
いいから読んでいる人を楽しませてあげたいという、娯楽の自己犠牲的な精神を持っている。しかる
にこの芥川賞受賞作はなんなんだ。そもそも味というものがない。頁をめくってもめくっても、ちー
とも面白くない話がダラダラと続き、挙句の果てには、この世に生きるってけだるいのね、みたいな
へっぽこ感が残るだけ。そんなこと、てめえにいわれたくねえや。こっちは仕事もせにゃならん、支
払いもせにゃならん、風呂の掃除もせにゃならん身の上なんだ。みんなだってそうだろ?
選評で石原慎太郎氏は、決して二作を誉めてはいないが、こんなことを書いている。「青春に在る者
として、まして物を書こうとする若い人間にとって、『青春』こそが絶好の、そして唯一本質的な主
題であるに違いない。」そりゃそうかもしれん。けど、だからこそ「青春」しかないような人間の書
くものを、珍重したりしてはいけないのである。青春なんてものは三浦雅士が去年かおととしオシマ
イにしたんだバカヤロウ。もう本当に日本文学は青春から卒業して大人になれ。夏目漱石や幸田露伴
が、草葉の陰で泣いてるぞ!
2月10日(月)
「文藝春秋」3月号を買った。もちろん芥川賞受賞作を読むためである。でもまだ読んでいな
い。もっと興味深い記事があったからだ。
「自衛隊派遣 私はこう考える」というアンケート記事である。著名人37人の回答を掲載
している。
読みながら、自分の回答を考えてみた。
私は自衛隊のイラク派遣に賛成である。
理由は、反対できないからである。
すでに決定し、サマワに赴いて活動を始めている状態で、自衛隊派遣に反対するというのはどう
いうことだろう。それは「自分の意見を述べる」ということだ。さらにいうと、「実質的な戦地
であるイラクに派遣されているわけではないが、自分の意見を述べる」ということである。一方
で現実は、何が起こるか判らない、もしかしたら死者が出るかも知れず、それは自衛隊員が殺さ
れることも、自衛隊員が殺すこともありえる、という状態であり、そういう現実に、今置かれて
いる人間がいる。一方で賛成だ、反対だ、と自分の意見をいう人間は、サマワからもイラクから
も遠い。
サマワの自衛隊員にとって、また自衛隊員の家族や親しい人にとって、そんな人間の「自分の意
見」が、なんの役に立つというのか。私はこんな状況で「自分の意見」をいうことはできないと
思う。もしもこれが、日本における危機であったり、自分が当事者である事柄であれば、何とか
して自分の意見をいうことは、必要でもあり、義務でもあり、いくばくかの力を持つだろう。し
かしサマワは遠く、私に自衛隊員の知り合いはいない。
自分の意見をいうことが無益であるなら、賛成するのだって無益だろうといわれるかもしれない
が、それは自衛隊員にとってはそうである。けれども私にとってはそうではない。とりわけ、こ
の派遣によって犠牲が生じた場合のことを、私は考えている。
万が一犠牲が出て、今の時点で私が派遣に反対していたとする。すると私は、その犠牲に対して
責任を回避できる。だからいわないこっちゃないとか何とかいうことができる。しかしそれは嘘
である。自衛隊イラク派遣によって犠牲者が出た場合、私には責任がある。それは私が賛成だろ
うと反対だろうと同じことだ。憲法にも自衛隊法にも反する自衛隊派遣が現実に行われたことに、
私は日本の国民として無関係でないとは決していえない。関係がある。関係があるということは、
責任があるということだ。しかもそれはただ「ある」だけで、自衛隊員が死んでもイラク人が自
衛隊員に殺されても、私はそれについてどうすることもできないし、何も変わることがない。た
だ私に責任があるということが、未来永劫ついて回るというだけのことだ。
この問題に反対ができないというのはそういう意味である。イラク復興支援を行っているのは、
私が自衛隊を働かせているのと同じであり、自衛隊員が犠牲になれば、それは私が殺したのと同然
である。私は先遣隊到着以来、毎日ニュースを見ながら、今日も無事だった、今日も無事だったと、
毎日びくびくしている。これは覚悟のようなもの、また宿命のようなものだ。
しかし「文藝春秋」を読んだ限りでは、反対論者はいうまでもなく賛成論者にも、今いったような
馬鹿なことをいっている人は、ただの一人もいなかった。
2月1日(日)
昨日のWOWOWは一日中マイケル・ムーアの作品を放送し続けていた。テレビ番組まで放送
したので、最後まで付き合うことはできなかったが、それでもかなりの作品を見ることができた。
マイケル・ムーアは徹底的なリベラル派のドキュメンタリー映画作家で、問題提起をユーモアに
よってする。昨年「ボウリング・フォー・コロンバイン」がアカデミー賞を受賞しただけでなく、
興行的にも成功し、著書「アホでマヌケなアメリカ白人」もベストセラーになったので、知って
いる人も多いと思う。
きしくも今日、旭川の自衛隊駐屯地では、イラクに赴く自衛隊員の壮行式が行われた。自衛隊の
人たちは、一体あそこに何しに行くんだ。国際貢献だと小泉純一郎日本国内閣総理大臣はいう。
そりゃ防衛庁じゃなくて、外務省の仕事だろう。どうも聞いた話では、今の外務省ではアメリカ
の意向に沿わないでいると、出世に響いたりするんだとか。出世に響くんなら、そらもうどう
しようもないわな。自衛隊の人に軍服着てライフル持っていってもらわないと。日本には軍隊が
ないから、一番軍隊っぽい自衛隊が行かされることになったわけである。ところで旭川の自衛隊が
イラクに行っているあいだに、旭川で大地震が起こったらどうなる? テポドンが落ちてきたら?
ま、全員が行くわけじゃないらしいし、何とかなるんだろう。
マイケル・ムーアのウエブサイトによると、イラクの米軍兵士のうち、正規軍には(もちろん)
武器も防弾チョッキも与えられているけれど、予備兵にはそれらが支給されていないそうである。
なんでかというと、予算が削られているからだ。つまりアメリカの予備兵は、ぼくらが今着ている
のと大差ない服装(ファッションとか柄とか、細かいところは違うと思うが)で、テロリストに
狙われているということになる。はっきりいってそんなふうに自国民を遇する国家と結んだ同盟
なんか、そんなに大切にしなきゃいけないんだろうか。
僕は9・11以後の世界で最も深刻なのは、テロリストでもなければブッシュでもないと思って
いる。それよりも問題なのは、国民と政府の乖離という現象だ。この乖離は少なくとも西側諸国
では、かなり顕著に見られるようになっている。アメリカではマイケル・ムーアの本がベスト
セラーになった。けれども政府はアフガニスタンを攻撃し、イラクを爆破している。イギリスでは
百万人規模のデモ行進があった。にもかかわらずアメリカ政府と結託して同じ国を爆破している。
オーストラリアでは国民の80パーセントが反対したというのに派兵した。ヨーロッパでもアメリカ
の権益を拡大するために協力した国家の国民は、自国軍を戦地に赴かせることに反対している。
日本でも同じだ(今は違うみたいだけれど)。
国民と政府との乖離なんていうのは、その以前からあった。慢性的にあるともいえる。でも、
これほどまでに双方がお互いを無視し、どちらもが聞く耳を持たず、何かをいっても届かないと
いうことが露骨な状態は、かなり重要視していいことじゃないかと僕は思っている。どうして
これを重視するかというと、ここには実は、もうひとつの乖離が隠されているからだ。それは……
長くなってしまった。この先は次の(このあいだ書き終わった)小説に書く。
1月30日(金)
昨日は一仕事終ったということで店を早仕舞いし、和泉多摩川の沖縄料理店「うりずん」にて
ジョニー宜野湾のライブを見る。
あなたはジョニー宜野湾をご存知でしょうか。私は昨日まで知らなくて人生を損した気分。楽しかっ
たなー。びっくりした。
どんな人なのか、ホームページを見てもよく判らない。1982年にバンドデビューして、1998年
にソロデビュー。1958年生まれだそうだから、遅咲きである。僕と同じだ。以後沖縄中心に活動
しているらしい。でもこういうのって、「どんな人か」っていうのとは違うでしょ。
僕の見たところ、この人は沖縄の遊び人である。多分妻も子もあって、でも完璧に自由人で、好き放題
なことをやっている、沖縄の楽しい有名人なんだろう。そういうことは、全部昨日のライブに出ていた。
まず何よりも客の心をつかむのがうまい。ステージに上がるのを楽しみ、笑っていい加減なことをいって、
いつのまにかこっちも笑ってしまっている。そしてそういうことが可能なのは、この人がいい声をして
いて、ギターもサンシンもうまく、曲がいいからである。僕はナケナシの財布をちびらせてCDを一枚
買った。全部欲しいと思っている。ロックよし、ブルースよし、沖縄調のメロディよしで、こっちは
ウチナーグチなどひとつも知らないのだが、大笑いしながらしみじみと聞いてしまった。曲名はふざけた
ものが多い。昨日聞いた中でとりわけ良かったのは「PHSアイラブユー」「ビーチ・パーリー」
(Beach Partyのことだ)「かつどん」「前を向いて歩こう」「そばの唄」……そそらないですか?
聴いてみたら判る。ジョニー宜野湾最高。ハイリー・レコメンデッド!
1月29日(木)
小説を、ある程度長い小説を書く、というのは、トンネルを掘っているようなものだ。山の向こう
にむかって、暗闇の中をこつこつ進んでいく。堀り終えたら、そこはあっという間に通り抜けられる
ようになる。でもそれまでは、目の前にあるのは真っ暗な岩盤だけだ。掘り進む先に出口があるのか
どうかも判らない。ただ、山というものの性質からいって、掘っていけばいつかはどこかにたどり
着く可能性のほうが高い。
新しい小説は原稿用紙換算488枚にて完成。いかなる意味でも満足感はないし、タイトルすら仮の
もので、恐らく変更されるだろう。これから先の書き直しも大変だと思う。でもとにかく、小説は
出口までいった。今の気分は、あなたも一人でトンネルを掘ってみれば判る。
1月24日(土)
昨日は青山ブックセンターの高頭さんに誘われて、参加してもいないメーリングリストのメンバー
の飲み会に顔を出した。なんだか図々しかったな。
書店で働く人や取次ぎの人、出版社の営業や編集の人が混在している、面白い会だった。本にサイン
など頼まれたりなんかしちゃったりして、作家先生ヅラしないように気を使った(つもりだ)。
当たり前の話かもしれないが、出版社で働いている人より、書店の人のほうが、新刊には目配りが
利いている。僕も知らない作家や作品が大きな期待や話題になっている。勉強不足を痛感。自己紹介
のときに、今年期待する作家や作品を挙げろといわれて、まるで思い浮かばず、先日読み終わった
ばかりのロス・マクドナルド「ウィチャリー家の女」(早川文庫)のことなんかいったのは、かっこ
悪かった。
あと今日の時点で明記しておくが、小学館以外の出版社の編集者(あそこに出席していた人に限る
けれど)は、小説を書いている人間としての僕にはまるっきり興味なし、という感触を得た。
くぬやろー、がんばっちゃうぞー。
小学館の人もたくさん来ていた。中で僕の作品を高く評価してくれているスガワラさんとは初対面
(でもお店にいらっしゃったことがあるんですって。ゴメンナサイ)。この人は凄かった。中上健次や
石川淳を語って倦むことを知らず、みずからパイオニアたらんとして熱い。こういう人に愛されるのは、
プレッシャーよりも精神の充実のほうが大きい。石川さんもそうだけど、お身体だけは大切にしてください。
1月18日(日)
小説ラストの計画、頓挫しそう。というよりもまったく自信ない。最後に大きな会話のシーンを
持ってこようと思ったんだが、考えてみれば会話で終る小説なんてちーともカタルシスがない。
今書いているところから一回舞台が移って、そこからもう一歩踏み込む必要がある。もしくは
二歩。やっぱり500枚になりそうだ。目算では460枚から70枚くらいかと思っているけれど。
会話の特徴。それは結論が出ないことだ。結論なんて、何をどう書いても出ないかもしれない
けれど、会話で事件が決着したり、完全に謎が解けたりすることはありえない(ただし僕はミス
テリーの話をしているのではありませんよ)。会話で問題が解決したら、その解決が有効であった
という物的証拠のシーンを持ってこないといけない。
それとはまた別な話。主人公はズダボロになり、今持ち直しているのだが、持ち直さないほうが
いいんだろうか。つまり傷ついたままのほうがいいんだろうか。僕が傷ついたままの主人公を好まない
のは、それが紋切り型だからだ。最後になる前に主人公は元気一杯、どんな問題にも真正面
から立ち向かっていくことになる。そのくらいでないとダメなんだ。けど、それを読者は受け入れて
くれるだろうか。っていうより、この小説全体を。自信喪失は小説を書いているときの常だが、
自信がないことに慣れる、ということは、これからもなさそうである(ため息)。
1月15日(木)
史上最年少の芥川賞作家、ですって。
読売新聞では一面に写真がでかでかと。NHKにも出ていたみたいだし、書店から注文が殺到して、
急遽五万部増刷とか。
いいなー。うらやましー。ボクもテレビ出たーい。
いや、まじでそう思うんである。だけどこれは、オレも唐沢寿明みたいないい男になりたいとか、
あたしもモーニング娘に入りたいとかいうのと、気分としてまったく同じだ。文学? 僕は綿矢りさ
の「(題名忘れた。デビュー作)」は読んだけれど、もう一人の方は読んでない。綿矢りさの作品も
印象は薄かった。
しかし十九はたちで芥川賞を受賞したのだから、やはり素晴らしい文学的才能の持ち主なのだろう。
芥川賞というのは、将来を嘱望される純文学の作家に贈られるものである。たとえ最初の印象が薄く
とも、これから先どんな傑作を書くかもしれない。その資質は充分にあるはずだ。ところであなた、
前回の芥川賞、誰が取ったか覚えてる? そう、吉村萬壱「ハリガネムシ」で正解。じゃ、その前は?
タイトルは確か、「しょっぱいドライブ」とかいったけど、誰が書いたんでしたっけ。吉田修一?
いや、吉田修一は「パーク・ライフ」だ。どっちが先だったっけ。その前なんて聞かないでくれよな。
「猛スピードで母は」は長島有。あと、あれなんだっけ。「たおやかな湾に背負い込まれた船」じゃ
なくて、なんだっけ。まじで。あれは芥川賞じゃないか。今になって思い出したが、綿矢りさのデビュー
作は「インストール」だ。違う「カストラート」だ。「ダウンロード」だ。じゃなくて、なんだったっけ
かなー。すっかり物覚えが悪くなってる。
小説を書く人間にとって大切なのは、読者の記憶に残る作品を書くことだ。それに比べれば、芥川賞なんて
ある意味、気の毒なものである。読んでもいない人たちにもてはやされて。
今日は同時に直木賞も発表になった。江國香織と京極夏彦である。これはまったく逆の意味でビックリ。
まだ取っていなかったの、という意味で。二人ともすでに読者の記憶に残る、読んで良かったとしみじみ
思わせる作品をすでにいくつも書いている。まあ直木賞ってそういう賞なんだけどね。
今、インターネットで芥川賞受賞一覧を見た。ざっくりと数えて受賞者は百四十人ばかりいるが、
僕が読んだことのある作家は五十四人。安部公房や大江健三郎、それに宇能鴻一郎(1961年に
「鯨神」で受賞)を含めてである。受賞作を読んでいない作家も少なくないが、それでもヒット率は
高いといえる。マスコミにもてはやされるというだけで僕はこれまで芥川賞をバカにしていたが、
やっぱり大した賞なのだった。直木賞はもっとすごい。百人くらい読んでるかもしれない。しかし
受賞者の中に僕の尊敬する作家の何人か、たとえば筒井康隆、小松左京、星新一、小林信彦、高橋
源一郎、中原昌也といった人は含まれていない。僕は個人的には、そのうち筒井、小松、高橋の三人が
日本現代文学に与えた衝撃力は、芥川賞と直木賞受賞作家を全部足しても足りないくらい大きかったと
思う(唯一の例外は安部公房だけ)のだが、それにしても今日の日記は、どうしてこんなにたくさん
書いてあるのだろう。やっぱり僕って、欲しいんだな、賞が。
1月12日(月)
結末に向かっていくことができそうだと昨日書いた。それはそうだが、だからといってスラスラ
書き進むことができるわけではなかった。昨日今日は毎日原稿用紙に換算しても一枚か、せいぜい
二枚くらいしか進んでいない。ここは大切なところだからだ。少なくとも、そう思いたい。僕は
そもそも「描写」というものがうまくない。しかしここでしっかりと描写するのはとても重要だ。
このあと抽象的な会話の場面になる。そのときにその会話が宙に浮いたような感じにならないために、
誰が、どんなところにいるのか、どんな状態でいるのか、きちんと書いておく必要がある。もちろん
それが、これから書くことの成功を保証するわけでもなんでもないんだけれど。
1月11日(日)
今朝八時、突如として小説の展開が見えてきた。今から取り掛かります。では。
1月10日(土)
原稿用紙換算374枚にて物語中の土曜日終了。日曜日のシーンで小説は完了するはずだ。書き終わった
ばかりで只今へとへとなり。
1月9日(金)
小説を出して嬉しかったことはたくさんある。中でもこのあいだ里帰りをして、久しぶりに甥や
姪と会ったときのことは忘れられない。僕には六人の甥と姪がいるが、中でも最年長の小学六年生、
Sちゃんが、僕の作品を読んでくれたという。それだけではない。なんとあの本にある「ひみつ
のアッコちゃん」の替え歌を、学校で歌ってくれたそうである。
それは、
朝から晩まで 猿回し
人まね上手 それは、だあれ?
それはサラミ、サラミの中かーら、ブン、ブンブン
防衛庁長官が 現れたー
サラマンダー
それは だーあれー?
それは 三十路、三十路、三十路、三十路、
三十路の由果、ちゃん!
という、もうどーしよーもない歌で、Sちゃんは二番までカンペキに覚えていた。こんなに
ありがたいことはない。今書いている作品は、多分Sちゃんにはウケないだろうが、また近い
うちにモッツァレラな小説を書いてみたいと思った。
2004年1月8日(木)
「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」発売以来、申し訳ないくらいに大忙しである。売れ行きも、
無名で無冠の新人にしては悪くないらしい。ありがとうございます。
けれども今の僕は、目先のことで精一杯だ。それはもちろん、新作のこと。今度の作品は原稿用紙に
すると500枚くらいになる予定で、昨年末に初稿完成のはずだったんだけど、今日まででまだ370枚。
話は木曜日の夜から始まって、まだ土曜日が終っていない。今月中に書き上げると、編集の人(僕の本の
最後の頁に書いてあるから名前を出すが、石川さんという天才的な人である)には断言してしまった。
でもできると思う。クライマックスだし、難しいながらも筆は進んでいる。今夜で多分、土曜日のシーンは
終るだろう。そして話自体も、日曜日のあいだに終るはずだ。タイトルがまだ決まってないんだよね。この
日記でこんなふうに、途中経過を書いていくつもり。では、とってつけたようですが、今年もよろしく
お願いします。
Copyright (C) 2004 ficciones. All rights reserved.