6月28日(月)
海の向こうではイラクの暫定政権に政権が委譲され、反対側の向こうではマイケル・ムーアの新作
「華氏911」が大ヒットを飛ばしている。
関係ないね。本日は通算28枚。ほかのことはなーんもやってないよ。

6月26日(土)
小説、三枚から四枚書いたところで、どうしても気に入らなくて破棄。落ち込むなあ。その後二枚書
いて、通算22枚。

6月25日(金)
うまくいかなくても何でも、書き続けなけりゃいかんのだと思いつつ、今日は一枚も前進せず。
石川さんがゲラを持ってきた。「きらら」連載分と「おがたQ」。まだ「おがたQ」に赤を入れるか。
ゲラを読むという仕事をしたのだから、原稿が進まなかったのはいいことにしよう。
毎日毎日、五枚ずつ書くことにしているんですよ。村上春樹が「海辺のカフカ」を書いていたとき、
毎日毎日十枚ずつ書いていた、というのを読んで、びっくりした。そんなことって可能なんだろうか。
だけど今日を除いてこれまでのところ、5枚は書けている。初稿だから何の遠慮もいらない。どんな
にへたくそでも構わない。書いていくことだけが目的、と思っている。村上春樹もそう思っていたん
だろうか。そうかもしれない。

6月24日(木)
小説を書くのに夢中になりすぎて、週に一度の大好きなテレビを見逃したー! それは日本テレビで
夜の十二時近くにやっている「アフリカのツメ」だー!
三十分のドラマ番組、ということに、一応はなっているのだが、随所にコント的、バラエティ的要素
が詰まっていて、出演者も素晴らしい。今田耕司、井川遥、大倉孝二、大島蓉子と、腕も確かなうえ
に人を不快にさせることの決してない人たちが揃っている。
ああー、くやしいなー。DVDにならないかなー。
小説は通算二十枚。ただし気のせいかうまくいかず。

6月23日(水)
藤沢の実家に帰るまえに、映画「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」を観た。地球温暖化のために北
半球が氷河期になってしまう話。ドラマの部分はどうでもいいし、CGも完成度がイマイチだったが、
僕のような火事場見物の好きな人間には楽しめる映画だった。最初から最後まで天変地異がびっしり
詰まってる。地球温暖化に警鐘を鳴らすのは、ちょっとつけたしみたいになっていたのが残念。
あと、最近発売されたペプシコーラの新作「BLUE」を飲んだんだけど、これは僕がこれまで飲ん
だありとあらゆるコーラの中でも最高傑作。カロリーオフなのにサッカリンぽくないし、色もどぎつ
くてソソる。コカコーラ党だった僕だが、これからはこれを飲むことにしよう。
小説は通算十四枚。

6月21日(月)
やはり狛江市長は現職矢野氏が当選したが、百票単位の大接戦だったようだ。やはり共産党は苦戦す
る。なんでもかんでもアカは潰さにゃならんと思っている人は案外多いのである。
来月は参議院選挙がある。妻はこの一年ほど、共産党のいっていることにやや共鳴している。なんで
かというと、共産党だけがはっきりと戦争反対を訴えているからだ。ついでに言えば共産党は確か護
憲である。平和を守り憲法を守ろうと思ったら、いまどきは共産党がいちばんそれに近いというテイ
タラク。自民党も民主党も、何の説得力も持たないまま、ちょっとずつちょっとずつ自衛隊を軍隊に
しようとしている。このことについて僕は気持ちが常に揺れ動いているが、おおまかにいって僕は、
立法府や行政府が平和の中で安閑としているときには自衛隊を軍隊とすべきと考え、自衛隊を軍隊に
しようとしたがる今のような時期はそんなことはいかんと考える傾向にあるようだ。独立国家である
ために軍隊を海外に派遣すべきかどうか、交戦権を持つべきかどうかは、しっかりと考えなければい
けない。今の僕はやはり「戦争をしないという意思を持ちつつ独立国家たることを可能にする外交の
ありかたを考えなければいけない」と思っている。「気に入らない奴に一発パンチというのは人生上
の問題解決手段としては単純すぎる」とジョージ・バーナード・ショーが言っているそうだが、ブッ
シュがイラクにやったのは結局それと同じことであり、今後また別な戦争が起こったとしても、同じ
ことではないだろうか。なんにしても戦争くらいくだらないものはない。人間が持っている最低限の
尊厳も剥ぎ取られてしまう。

本日より新作小説を書き始める。タイトルは未定。手書きで原稿用紙三枚。


6月20日(日)
現職が再選されるに決まっている狛江市長選挙の投票を済ませる。現市長の矢野ゆたか氏は、あの知
る人ぞ知る、韓国でバカラ賭博やって40億円の借金を背負って失踪した前市長(すごすぎる)の後
を受けてこんにちまで一生懸命市長をやってきた共産党の人である。正直な話、僕は日本共産党の人
は話し方が画一的で内部矛盾も抱えているから陰気で好きではないのだが、矢野氏は何だか好感が持
てる。もっと都市計画を何とかにぎやかにしてもらいたいとは思うけれど(だいたい東京の「市」と
呼ばれるほどの区域内で、電車が鈍行しか止まらないっていうのは狛江くらいじゃないかと思わるる)、
街は清潔で暮らしやすい。それに今回は対立候補が夜郎自大の感が否めず応援演説に石原慎太郎なん
ぞ持ってきやがったので入れることはできなかった。
それはそうと、またしても日記をさぼってしまったが、この間僕は新作のために無い知恵を絞りきっ
ていたのである。それにやらなければならない仕事もあって、日記どころではなかったのだ。すいま
せんね。
けれども、何とか仕事も片付け、アイディアもまとまってきたので、いよいよ明日から書き始めよう
と思う。今回は手書きでやる。原稿用紙と万年筆を持ち歩くことになるだろう。

6月6日(日)
ストーリーをひねくり回そうとするからいけなかったのだ。ストーリーなんてどうでもいいのである。
僕が書くラブ・ストーリーに大切なのは幸福なイメージとギャグであって、ストーリーは二の次三の
次だ。それにキャラクターが揃えばストーリーは勝手に動く。先日あるアイディアを妻に話したら食
いつきが良かった。それでいく。「モッツァレラ」の二番煎じにならないように注意しないといけない。

6月3日(木)
「棒に関する小説」のアイディア棄却。何から何まで1から考え直しますと石川さんにメールを送る。
どうしてもダメだと詰めていた案を放棄したのが火曜日の深夜。ようやっと端緒につきそうだっただ
けに落ち込んでいると、うまい具合に翌日は映画を見る予定だったので、新宿にてティム・バートン
の新作『ビッグ・フィッシュ』を観る。これは今年のベストワンになるかもしれない。ここ数年の最
高作かもしれないくらいだ。
ホラ話ばかりしている父親と、そのために父親が嫌いになった息子の話だが、ストーリーについてこ
れ以上は書かない。とにかく一人でも多くの人に見て欲しい。僕はラストの30分くらい、泣けて泣
けてしょうがなかった。決してお涙頂戴映画ではないはずなのに。映画が終っても泣き続け、クレジ
ットタイトルが終っても立ち上がるのが恥ずかしいくらい泣き、映画館を出て新宿を歩きながらも涙
がこぼれてきて、そのあと同じくらい泣いている妻と喫茶店に入ったが、それでもまだメソメソして
いた。こんなことは珍しい。
悲しい話だから泣いた、というわけではないと思う。それもあるけれど、くわえて映像の美しさに泣
いた。さらにはこの映画のテーマというか精神というか、物語が人生をいろどる、そのいろどりの美
しさに涙が止まらなかった。泣けるからいい映画、なんていうのはとんでもない嘘だが、これは『我
が谷は緑なりき』とか『悲しみは空の彼方に』といった古典的な傑作に肩を並べられる作品だと、日
芸映画学科卒業の専門家として断言する。
ティム・バートンの映画に満足したことはこれまでほとんどなかったが、それはこの映画監督が幼児
的であることを自覚し、かつ商売に利用しているからだった。『ビッグ・フィッシュ』は大人の映画
である。僕も落ち込んでなんかいられない。

5月30日(日)
昨夜卒然とアイディアが浮かぶ。このところ私は孤独だったが、こうなってみると孤独も悪くない。
あれこれノートをつけてみるが、結局は書くのがいちばんのはずだ。まだ書き始めるほどは熟してい
ない。これからの一、二週間は、世間の雑用を片付けてすごそう。
それは棒に関する小説になるはずだ。

5月20日(木)
気がついたら20日ですよ。今日は小学館の新雑誌「きらら」の創刊日だ。さっきまで忘れていた。
そこで下北沢の本屋さんを巡り歩いてみたが、どっこも置いてないの。一万部しか刷っていないらし
いし、無料で配布する雑誌だから、しょうがないかもしれないけど。みなさんもどっかで見つけたら、
チャンスを逃さずゲットしてくださいね。タダですから。

そりゃそうと、イアン・マキューアン『贖罪』(新潮社)再読。前に読んだときは仕事で走り読みし
ただけだから、今回が初読のようなものだ。439頁、原稿用紙にしたら、おそらく800枚を越す
であろう大作である。
この小説はタイトルの通り、罪を償うという大きなテーマを扱っている。小説の前半は、一人の無垢
で知的に早熟な少女が取り返しのつかない過ちを犯した一日について語られ、後半はその後の人々の
行いについて語られる。文章は少女の心理を語るにはやや知的に過ぎるが、実はそれは意図的なもの
であることが、読み進むにつれて判るようになっている。第二次世界大戦前夜のイギリスのブルジョ
ワ家庭が素晴らしい描写によって描かれ、そのことひとつ取っても、堂々たる本格小説の風格を備え
た現代の古典と断じても構わないほどだが、それにくわえてこの小説は、20世紀のヨーロッパ文学
がさまざまに駆使した実験的手法が自家薬籠中のものとなって、物語としての小説にたくみに溶かし
込まれている。つまりこの小説は、エンタテイメントとして小説を楽しむ人にも、文章の味で読む人
にも、知的関心をもって読む人にも、ひとしく楽しめる小説になっている。帯に世界中で150万部
を売り上げたと書かれてあるが、そのくらいの数字は当然だろう。
『アムステルダム』(新潮社)を読んで以来、マキューアンは僕にとって遠く仰ぎ見るアイドルとな
った。その知性、描写力、そして何より、すべての要素が物語に、文学にではなく物語に奉仕するよ
うに書かれるその手法が僕には圧倒的だ。『贖罪』はその集大成といえる。

 一方で、今発売中の「早稲田文学」5月号の巻頭に、柄谷行人の講演「近代文学の終わり」が掲載
されている。日本だけでなく世界中で近代文学は終った。それは文学が政治性を失ったということで、
従って影響力ももはやない。文学は娯楽になったらよかろう。そして世界的商品を作るべきだ、とい
う趣旨のことが書かれている。
 誰が何を考え、何を書こうと自由だ。だから柄谷行人が「資本主義はますますあらゆるところに浸
透している。(中略)それに対して、どうするのか。私は、それを文学で考えろ、などといいません。
その逆です。文学を離れて考えろ、というのです。それだけです。」と言い捨てて文学と決裂するこ
とについてなんとも思わない。むしろそういう人は多くなればなるほどいいと思っている。
 同じ文章の中で柄谷氏は、韓国の文芸批評家で今は文学をやめてしまい、エコロジーの運動をして
いるというキム・ジョンチュル氏の言葉を挙げている。

 「自分が文学をやったのは、文学には政治から個人の問題までありとあらゆるものを含む、そして、
解決できないような矛盾をも含むものだと思ったからで、それがいつの間にか文学がすごく狭いこと
しか扱わなくなった、そういうものなら自分にとって文学ではない、だから、やめたのだ」

 実際には、文学はいささかも矮小化していないし、矮小な文学は百年前から間断なく存在し続けて
いたのである。一方で人間の目には、遠くにあるものはふるいにかけられてから見え、若いときに見
たものは輝かしく見え、眼前にあるものは侠雑物でいっぱいに見える。柄谷氏もキム氏も、昔は良か
った、といっているだけではないか。
 純文学雑誌を読めば、そこには驚くべく弛緩しきった純文学の短編が山盛りに掲載されている。し
かしそんなものを相手にする必要は金輪際ない。相手にすべきは「政治から個人の問題までありとあ
らゆるものを含む、そして、解決できないような矛盾をも含む」ような文学であって、『贖罪』はそ
の要請に充分応えている。しかしキム氏も柄谷氏もこれを読まないであろうという確信が僕にはある。
読んでもそれは、かつて読んだあれこれの小説と同程度か、ないしは模倣、反復にしか見えないので
はあるまいか。
 僕は既成の純文学雑誌みたいな「すごく狭いことしか扱わない」小説にも魅力は感じないし、文学
は終ったという意見にもくみしない。資本主義は世界に蔓延し、政治性は希薄になり、影響力は失わ
れたかもしれないが、そんな世界にあっても文学は、『贖罪』のような偉大さを保持することができ
る。そのことに希望と緊張を持っている。

 ……と、書いていたら、「WEBきらら」っていうホームページが、僕の小説を含む「きらら」掲
載の全作品をアクロバットリーダーで読めるようにしてくれたよ。書店で「きらら」をゲットできな
かった人、行ってみて!

5月14日(木)
このところこの日記がやけに長い(まあ、書いた日には、という意味だけど)ことには、自分でも気
がついていた。書き始めると止まらない感じで、いつも勢いに任せて書いてしまう。読みにくいこと
山の如しだ。読んでくれている人、ごめんなさいね。
僕は小説が書きたい。でも今はアイディアがまとまらなくて書けないでいる。それでこの日記が長く
なってしまうのだ。昨日は「おがたQ、という女」のパイロット本が石川さんから届けられた。パイ
ロット本は宣伝用に識者や有力書店の人に読んでもらうために作られた簡易製本の冊子だから、造本
はふにゃふにゃである。それでも嬉しくてたまらない。なんべんも読み返して自作に酔った。でもそ
れは昨日の話。今日は気持ちが落ち着いてしまって、「あれを書いたのは何年前のことだろう?」な
んて思っている。書き始めたのは2001年の冬のことだ。今は2004年でしょ? ずいぶん手間
がかかっているようにも思えるし、放ったらかしにしてしまったとも思える。いずれにしても本にな
って、もう僕の所有物とはいえなくなった。これからは読んでくれる人の所有物になるのである。そ
して僕はといえば、何かを新しく始めなければならない。

5月9日(日)
新しい小説の構想は千々に乱れている。今日はカード・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたち
の朝食』(ハヤカワ文庫)を再読した。魅力的な小説だが、同じ手法を二度使うわけには行かない。
総合力ということ。これが小説にはとても大切だと思う。「すべて」を書くのである。この場合の「す
べて」とは、小説の中で起こっていることをすべて書く、という意味じゃない。この世のありとあら
ゆる事を包括する、という意味だ。大袈裟ないいかたであり、そんなことができた小説は有史以来い
っこもありはしないが、偉大な小説は常にそのつもりで書かれている。『チャンピオンたちの朝食』
はそのひとつだ。
昨日は妻が実家に泊まったので、レンタルビデオも借りて見た。「テープ」という映画だ。ユマ・サ
ーマンとイーサン・ホークとロバート・ショーン・レナードの三人しか出てこなくて、場面も安モー
テルの一室だけ。ステファン・ベルバーなる人の戯曲をもとにしているそうである。これはまったく
どうしようもないシロモノだった。俳優たちはみな素晴らしいのに、肝心の話がどうしようもない。
三人が一時間半にわたってえんえんと過去の傷をほじくりかえし、ののしりあい、イニシアチブを取
ろうとする話である。エドワード・オールビー以来の馬鹿げたインテリ芝居だ。アメリカの劇作家と
いうのは、どうして人を傷つけあうことを舞台の板の上にのせたがるのだろう。それは演劇的ではあ
るかもしれないが、ちっとも人間的ではない。面白くもない。つまり何の役にも立たない。人間関係
の緊張感を提示して、そして提示するだけでは、作家は楽をしているといわなければならない。
作家にとって大切なのは、人間に希望を失わないことである。すべてに絶望している、といいながら
筆を取っている人間がいる。そんな奴のいうことは嘘かごまかし、でなければ中途半端にしか物事を
考えていない結果に過ぎない。
希望を抱き続ける、というと、ノーテンキな楽観主義を思い浮かべる人がいるようだ。それは間違い
である。希望を抱き続けるのは苦役である。日々絶望を克服し続けなければならないのだから。希望
を持つものから見れば、絶望する人間は楽をしている。現実を直視すれば、彼らの仕事はおしまいだ。
希望を持つ者は絶望にとどまってはいられない。ではどうすればいいかと、現実の先を考える。しか
もそのとき、現実に存在しているものの中から物的証拠を提示する必要があるのだ。いつか何とかな
るだとか、「この坂を越えたなら、幸せが待っている」なんてんじゃダメなんである。だから新しい
小説を書くのは大変なのだ。

5月5日(水)水曜日なれど祝日にて営業。
義父が「週刊朝日」5月7・14合併増大号に「7つの疑問で読み解く『世界の中心で愛をさけぶ』
現象」という記事を発見。なんでも著者の片山恭一氏は「この本の取材を受けるのは2003年まで
と決めて」いたそうで、名代として僕の担当編集者でもある石川和男さんが取材に答えている。石川
さんは真面目に答えているが(それどころかこの記事は、石川さんのものの言い方がストレートに出
ていて面白い)、記事を読んでいて暗澹たる気分になった。
記事を書いた人に対して暗澹たる気分になったわけではない。「売れてくると、本を読みもしないで
取材に来る記者が出てくる」と石川さんはこぼしていたが、この記事を書いた人は『世界の中心』は
いうまでもなく、どうやら二十年位前に片山氏が文学界新人賞を取ったときの「気配」という短編ま
で読んでいるようで、記事の総体は良くも悪くもニュートラルである。
僕がいやあな気持ちになったのは、そこに清水良典氏(五十歳)という文芸評論家のコメントが載っ
ていたからである。そこにはこうある。
「トレンディードラマばりの流行みたいなものだし、泣けるとか感動するとか、ストーリー主体の本
には食指が動かない。それに40過ぎには、口にするのも恥ずかしいようなタイトルで、手垢がつい
た感じ。つまらない話にもすぐ感動する若者には新鮮でも、大人の関心はそがれます」「『ノルウェ
イの森』が出たときは、すでに村上春樹の存在が評価されていて、満を持しての話題作でした。ポッ
プなのに挫折感や空虚感を抱えた、時代の空気をうまくとらえていた。年配の人は否定的でも、文学
のコア読者でインテリ層の中心となる全共闘世代の支持があった。ほとんど無名だった作家が、移り
気の激しい若者に支持された『世界の中心で〜』とは、ベストセラーの質が違うのでは」
いっこずつ検討してみよう。前半の「大人の関心は」までは、罵倒ではあるけれど個人の意見だから
尊重しようじゃないか。『ノルウェイの森』以前から村上春樹は評価されていた(事実)。時代の空
気をうまくとらえていた(かもね)。無名作家が若いものに支持された小説とはわけが違う(言い方
は下品だが村上春樹がずばぬけた小説家であることは確か)。つまりこのコメントは、その口の利き
方を等閑視すれば、ひとつの考え方として受け入れられるものだ。
ところがである。この清水という人、なんとビックリ『世界の中心』を読んでいないのだ。読んでい
ないでこんなことをいっているのだ。読んでいない本のことを「ストーリー主体」「大人の関心はそ
がれる」「移り気の激しい若者に支持された」などといっているのだ。僕はこの人の『最後の文芸時
評』という本を持っているけれど、探し出して引き裂いて、肥溜めの中に叩き込んでやる。こんな品
性の人間が書いたものを読んだかと思うと虫唾が走る。
いっとくけど僕は、片山恭一氏に媚を売ろうとしてこんなことをいっているのではないよ。僕は自分
の小説が小学館から出してもらえたのは、『世界の中心』が売れまくったことと無関係ではないと知
っている。だから小学館にも片山氏にも恩義を感じている。でもそれとこれとは別だ。同じ記事では
黒井千次氏のコメントも載っていて、「それほど感心しなかった」「新しい発見に乏しい」といって
いるけれど、さすがカフカをエンターテインしたような短編の名手である黒井千次氏はきちんと小説
を読んでそういっている(さすがも何も当たり前のことだけれど)。黒井氏のコメントに楯突くつも
りは毛頭ない。僕も『世界の中心』という小説が、完全無欠の大傑作だとは思わない。僕はある小説
が「売れた」という理由で、読んでもいない小説に対し、文芸批評家がこんなコメントを出してしま
うということに激怒しているんである。関係ないだろう、売れたか売れないかなんて。売れたという
なら『ノルウェイの森』だけじゃなく、その前に200万部を突破したもう一つの小説、小松左京の
『日本沈没』についても一言くらいいうがいい。片山恭一は確かに村上春樹より格上の小説を、今の
ところは書いていないかもしれないが、村上春樹は今のところ、小松左京の足元にも及ばないでいる
んだ。そして片山恭一や村上春樹はいうに及ばず、小松左京だってまだ健在なんだ。この三人がこれ
からどんな素晴らしい小説を書くかなんてことは、誰にも判らない。そういうことを踏まえていって
いるのかこの清水という人は。
「文学のコア読者でインテリ層の中心となる全共闘世代」……情けなくて悔し涙が出そうだよ俺は。
もちろん記事はこういった「読まず嫌い」に対して、「読書という聖地に迷い込んできた頭の悪い蛮
人を排除しようという情熱」と批判のコメントも載せている。しかし問題は、「文学のコア読者でイ
ンテリ層の中心」というものが、全共闘世代だろうとなんだろうと、恐らくはこれからもずーっと存
在し続けるということだ。そして僕はそういうインテリたちに弾き飛ばされた。小学館で辛うじて逼
塞している。人が誠意を尽くして書いた小説(『世界の中心』の最大の魅力は作者の誠意である)に
対して読みもしない批評家が罵倒の言葉を連ねて恥じないようでは、僕の小説なんぞ金輪際浮かばれ
ないのではないだろうか。暗澹たる気分になるのである。

5月2日(日)
「知りえないことについては沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインがいったとき、
「知りえないこと」とは論理哲学の残余のことだった。しかしこの言葉は私のような頭の悪い人間
にとって、さまざまに応用されて、ことわざのように、あるいは戒めのように聞こえてくる。たと
えばこれは、「知りえないことについて賛成することはできない」と言い換えられるのではないだ
ろうか。内容的にはぐっと通俗化してしまうけれども。
ではこの通俗的な日常の中で「知りえないこと」とは、どんなものだろうか。
先日アメリカのテレビ番組「60ミニッツ」で数葉の写真が公開された。イラク人捕虜を陵辱して
いるアメリカ兵とイギリス兵の写真である。その中でイラク人たちは手足に電極をつけられている。
また全裸で積み重ねられている。あるいはビニール袋を頭にかぶせられ、放尿されている。アメリ
カ兵たちはそれを指差して笑っている。
ブッシュ大統領はこれを受けてこうコメントした。「アメリカ人の人間性(The nature of American
people)を反映したものではない」と。それは彼が「イラクにはもはや拷問はなくなった」とコメ
ントした二分後のことだったそうである。イギリス軍は「彼らに女王陛下の軍服を着る資格はない」
として調査を開始することをマスコミに発表した。
「アメリカ人の人間性を反映したものではない」……悲しい、さびしい言葉だ。これはブッシュ大
統領という人物が、「アメリカ人の人間性」というものの存在を信じて疑わず、しかもそれを完璧
な善として捉えていることを示している。
想像してみよう。悪い奴が支配する国がある。そこで人々は苦しめられている。どうすればいいか。
悪い奴をやっつけて、人々に善をもたらせばよい。悪い奴は抵抗するだろう。しかしその抵抗には
攻撃を与え、殺してしまうのもいたし方がない。いや、殺してしまったほうが判りやすくてよりよ
い方策といえる。攻撃しよう。そして人々を解放し、善と自由と民主主義を与えよう。悪を打ち倒
すことによって人々は感謝するだろう。そして両手を広げて善と自由と民主主義を受け入れるだろう。
どんなに考えてもこれは現実的な想像とはいえない。そしてこれは今現在行われていることである。
今現在行われていることの背景にある思想である。その背後にあるさまざまなものごと、石油の利
権だとか人の死といったものは、すべて夾雑物にすぎないとして看過される。
今回の虐待写真は、その思想を木っ端微塵に粉砕した。非現実的で輝かしいアメリカ政府の理想は
ついえたのである。今に始まったことではない。南北戦争以来、第二次世界大戦やベトナム戦争や
湾岸戦争にいたる、すべての戦争においてアメリカは同じ理想を抱き、同じように自国の兵士によ
ってその理想を踏みにじられている。
またこれはアメリカ一国のことではない。自国防衛のため、悪の排撃のために国家が戦争を起こす
と、戦争の現場にいる人間は善悪などとは無縁に、ひたすら残虐に振る舞ってしまうのだ。あの写
真に写っていた兵士たちが、家庭では良き父、良き母、良き人間であることを僕は疑わない。僕が
あのイラク人収容所にいたら、間違いなくイラク人たちを陵辱して笑っている。あなただってそう
だ。自分は例外だ、などとは、たとえそれが真実であっても思わないほうがいい。自分は戦時にあ
っても残虐性など持ち合わせていないと考えるのは、あの写真に写ったアメリカ人兵士たちのこと
を、異例で特殊で「アメリカ人の人間性を反映していない」存在として視野から排除するのと同じ
ことだ。
あれが戦争である。あの写真が戦争というものなのだ。僕はあのアメリカ人兵士たちのことを考え
る。彼らは恐らくあの写真を見て、とてもそれが自分だとは信じられないのではないだろうか。少
なくともあの写真によって自分たちの人間性を推し量られてはたまらないと思うことだろう。しか
しあれは彼らなのである。そして同時に、戦時における僕であり、あなたなのだ。
けれども、こう書いていながらも、僕は自分の中にあれほどの残虐性があるとわきまえているわけ
ではない。僕には僕の人間性が判っていない。「知りえないことについては沈黙しなければならな
い」。「知りえないこと」とは、人間性のことだろうか。それとも戦争のことだろうか。

5月1日(土)
こう見えても僕は、毎日毎日次の小説のアイディアを練っているのである。今夜は句会のあと帰宅
してテレビをつけると、小倉優子が出ていた。芸能人の精神分析をする番組だ。小倉優子は自分が
「こりん星の王女様」であるといっているんだそうである。こりん星は地球の裏側にあり、人間以
外はすべてお菓子でできていて、そこでは小倉優子の家族や友人、仲のいい人たちなどが千人ほど、
平和で楽しい生活を送っている。精神分析医はこの星と現実世界の乖離が小倉優子の中で始まって
いると指摘した。なぜかというと現実世界はどんどん進んでいくのに、こりん星では時間が止まっ
ているからなんだと。
その番組が終って僕は妻から借りたビデオを見た。「オルランド」という映画で、原作はヴァージ
ニア・ウルフ。そんなもの僕は食わず嫌いなんだが、なぜか妻が強く推すのである。始まってみる
と、何とも退屈な歴史ドラマに最初は思えた。十六世紀の貴族オルランドは女王エリザベス一世の
寵愛を受けて屋敷を譲り受ける。女王の死後ロシア大使の娘と恋に落ちるが、当時の偏見と女の気
まぐれによってあえなく失恋。こんな具合に美貌の貴公子オルランドの生涯がえんえん続いちゃた
まらないな、と思っていたんだけれど、まあ何という無知蒙昧だったことだろう。「オルランド」
はそんな話ではなかったのである。そこから先オルランドは十七世紀も十八世紀も生き続け、トル
コの英国大使として活躍している最中に七日間の昏睡の後、女性に変身、十九世紀に恋をして、二
十世紀に子供を生む。今こうして僕が日記を書いているあいだも、レディ・オルランドはイギリス
のどこかで娘と楽しく暮らしているのである。
見終わって僕は妻に向かって叫んだ。「まあなんて勝手放題なんだろう、文豪っていうやつは!」
映画だけで原作は知らないが、その面影は映画の中に確かにあった。
「まったく、やりたい放題だ!」
そして考えてみれば、まったくその通りなのである。ウルフに限らない。ヨーロッパの偉大な文学
をいくつか挙げてみよう。まず「ドン・キホーテ」に「神曲」でしょ、イギリス文学の「リア王」
「ガリヴァー旅行記」「トリストラム・シャンディ」「嵐が丘」「不思議の国のアリス」「フィネ
ガンズ・ウエイク」、フランス文学の「ガルガンチュア物語」「ブヴァールとペキュシェ」「失わ
れたときを求めて」、ロシア文学ではドストエフスキーがいるし、カフカやナボコフやミラン・ク
ンデラのことを考えてもいい。そしてもちろん、「オルランド」のヴァージニア・ウルフと、ガブ
リエル・ガルシア=マルケスがいる。
こういった作家、作品には、「書いている奴がやりたい放題に書いている」という共通点があるの
だ。彼らは世評なんかまるで気にしていないし、同時代の文学の風潮にも顧慮していない。ただも
う書きたいように書いている。書きたいように書くためにだけ、全精力を傾注している。
僕は新しい小説をどうするか、腹が決まった。簡単な仕事じゃないけれど、やってみたい。人がど
う思うかなんて知ったことか。
だから今度の作品は、小倉優子とヴァージニア・ウルフと我が妻の、三人の女性に捧げられる。

4月22日(木)
高橋源一郎が今月19日の朝日新聞夕刊に、「どこかの国の人質問題」という記事を書いている。
架空の人生相談への回答、という形で。
「あなたの国では、どんなにいいことをするより、他人に(あるいは『お上』に)迷惑をかけない
ことの方が大事なのでしょう。家に閉じこもって、テレビを見ながら『戦争か、たいへんだなあ』
と鼻毛でも抜いている人がいちばん立派なのでしょう。」「実は、わたしの国でもイラクでボラン
ティア活動をしている人やジャーナリストが誘拐され、人質にされました。そして、やっと解放さ
れた。よかったよかった。そしたら、その後、政府のエラい人が『「寝食を忘れて」救出活動をし
た人』のことを考えろとか文句をいいだしたんですよ。わけがわかんないとは、このことですよね。
だって『国民の保護』は、彼らがいちばん先にやらなきゃならない仕事なんですから。やって当た
り前。」「それから『迷惑をかけた』と怒っている人もいました。ヘンですね。その人はいったい
どんな迷惑をかけられたんでしょう。わからない。少なくともわたしはぜんぜん迷惑をかけられて
いません。」「人質の人たちは、いいことをしようと思って個人で海外へ行ったんです。そしたら、
彼らの力を超えたものに拉致された。あのね、そういう時のために、わたしたちは政府とか役人と
かを雇っているわけです。」
これらの文章を、最も尊敬する作家が書いたとされた私の不愉快は、何とも名状し難いものがある。
政府は義務を果たすべきという正論。私は迷惑をかけられていないという正論。ボランティアの人
たちは「いいこと」をしにイラクに行ったという正論。ここにあるのは最初から最後まで「正論」
だけだ。
正論とはなんだろう。それはユートピアである。無菌で、まっとうで、自由で、豊かな桃源郷であ
る。「いいこと」だけでできている世界である。そんなものは存在しない。存在しない場所から、
この記事は送られてきている。
私が住んでいる場所はユートピアではない。そしてここがユートピアでない理由は、社会にではな
く、私にある。私は人を憎む。自由な人を憎み、全体の和を乱す人を憎み、「いいこと」をした人
を憎む。会ったこともない人の身を案じ、その人から迷惑をかけられたと感じる。私は「家に閉じ
こもって、テレビを見ながら『戦争か、たいへんだなあ』と鼻毛でも抜いている人」であり、そう
いう自分を「立派」だと思う。そういう私の姿は、ごく控えめにいっても、かなり不愉快である。
「正論」に勝るとも劣らないほど不愉快だ。
プラトンは自分の理想国家から詩人を駆逐した。ユートピアに文学は存在しないからである。文学
は正論からは生まれない。それは不愉快から生まれると私は思う。

4月18日(日)
イラクで人質が解放されるたんびに出てくる、クバイシ師という宗教指導者が話題になってる。僕
はあの人がイラクで一番えらい人になればいいと思う。
日本政府は複雑な表情だそうだ。クバイシ師はスンニ派の指導者であり、反米的なんだそうで、そ
んな人に日本人を助けてもらって、今後借りでもできたらどうしようと思っているらしい。
もしこれが本当なら、日本政府はアホじゃないだろうか。
ファルージャでの陰惨極まりない戦闘を見ても明らかな通り、今やイラクはアメリカとそのコバン
ザメさえいなければ、ひとつにまとまってやっていける。ついこのあいだもスンニ派とシーア派の
合同集会が行われたというじゃないか。これでもまだイラクに軍事介入するつもりなら、それはも
う宗教戦争というよりほかにない。特にあのモスクを攻撃したことは、イスラムとは何の関係もな
い僕にとっても大きなショックだった。イラクの敵は明らかにアメリカ一本に絞られており、共通
の敵がいることによって団結する、というのは、アメリカを始めとして多くの国が団結する良いき
っかけになる。それがなんでいけない? アメリカ軍は今すぐにでも撤退し、自衛隊はやるべきこ
とをやったら民間団体をどんどん入れるようにして、とっととこの目を覆わしめる状況を打開する
よりほかにない。クバイシ師に借りができたらどうしよう、だと? もうとっくに借りはできてい
る。日本政府はクバイシ師をはじめとするイスラムの宗教指導者たちがイラクをまとめていくこと
に、全力をあげて努力するべきだと思う。
もしたとえば、クバイシ師が実はCIAと手を結んでいたり、逆にムジャヒディンと呼ばれるイラ
クの犯罪者を扇動していたりしたとしても、構わない。彼は日本人を助けてくれた。日本人が何も
できないでいたときに、ムジャヒディンたちと連絡を取り、説得し、指導し、解放に導いてくれた。
困惑するどころか、積極的にこの命の恩人を助け、力になってあげるのが、人の道というものだろ
う。

4月17日(土)
ついにやってしまった。やることは判っていたんだ。
映画監督の今関あきよし氏(44歳だそうである。もっといってるかと思ってた)が中学一年生を
買春して逮捕された。バカヤロウ!
今関あきよしは森田芳光、長崎俊一、黒沢清、手塚真らと同様、80年代前半の「ぴあフィルムフ
ェスティバル」が輩出したスター監督の一人である。メジャーデビュー作品は確か「アイコ16歳」
じゃないかと思う。その後も「りぼん Re-born」「グリーンレクイエム」「十六歳のマリンブルー」
「ルーズ・ソックス」、それにモーニング娘の出た「モーニング刑事」も監督した。
以上のタイトルを見ただけでもお察しの通り、少女の繊細で清純な世界を描くことにかけては右に
出るもののいない監督であった、いやもうハッキリ書こう。映画はどれもこれもロリコン丸出しの
作品で、そっちのケだけはまったくない僕にとっては、いやになっちまうシロモノであった。
そういうことを踏まえたうえで書くけれど、今関あきよしの作品というのは今の映像作家に少なく
ない影響を与えていると思う。その影響力は過小評価されていると思われるほどだ。今どきの「ろ
りっぽい」映像というのは、エロビデオから美少女ゲームに至るまで、今関作品に端を発している
のではないだろうか。
そんな「立派な」人がどうしてこれほど無名であるかというと、誠に遺憾ながら今関作品そのもの
に力がないからである。今関あきよしくらいの映像は、ちょっと気の利いた映像作家なら誰でも作
り上げることができる。今関本人の映像美は、氾濫するロリータ映像に埋没してしまったのである。
それでも美少女映像の第一人者であることは変わりなく、だからこそモーニング娘だの「あやや」
だのの映像を監督することができたわけだが、果たしてあれらの映像が今関あきよしでなければで
きなかったかどうかは疑問だ。
病硬膏にいたる、というのは通常冗談でいわれることわざだけれども、この事件は実に後味が悪い
ね。「出会い系サイトの掲示板に『芸能人と知り合いたい人、メールください』などと書き込」ん
だそうだ。第一線の映画監督がそんなことやるか?
先日の鷺沢萠と今関あきよしは、共に80年代の「新人類」である。なんだか最近、あの時「新人
類」と呼ばれていた人たちが、ぽつりぽつりと姿を消していくような気がしてならない。昨年の辻
元清美しかり、田代まさししかり。あの頃持ち上げられ、今は名前を聞かない人たちは、どうして
いるだろう。甲田益也子氏は元気だろうか。川西蘭氏は。泉麻人氏は。僕が知らないだけなんだと
は思うけれど。
大塚英志「『おたく』の精神史」(講談社現代新書)によると、新人類としてもてはやされた人た
ちは「先着順」であり、彼らは努力を怠ったためにその前の世代(ビートたけしとか野田秀樹とか
糸井重里とかいっぱい)に負けたんだそうである。まったくその通りではなかったろうかと、僕は
新人類の一人として思う。その図式でいうなら、先着できなかった僕みたいな人間にとって、90
年代は努力の時期だった。おかげでこれからなんとか頑張れそうだけど、そのかわりすっかり年を
取っちゃったよ。

4月16日(金)
昨日、小学館の石川和男さんが『おがたQ、という女』のゲラを持ってきてくれた。ゲラを見ると
「ああ、本ができるんだな」と思う。文字など目に入らず、ひらすら持ち上げて、その重みを感じ
る。嬉しい。
その後二人で「新雪園」に行って呑んだが、二人とも放心状態である。石川さんは「きらら」創刊
に向けて超多忙ということもある。僕は一年間で小説を三つ書いたことの疲労感。二人で猥談など
してぼけーっと酒を呑む。こういうのもいいね。

僕はこの二、三日、まるでだらしがない。昨日は呑んでいるあいだにイラクで囚われた日本人が解
放されたが、囚われている間はけっこう関心を持っていたのに、解放されたら何も感想が浮かんで
こない。現在も行方不明になっている二人については、申し訳ないけど関心が湧いてこない。人間、
好き放題に行きたいところに行ったらいいと思う(ようになった)。しかしこの一週間、政府も支
援者の人たちも家族も、寝ないで救出への方途を探り続けていた。当人たちだけの問題じゃなくな
ってしまうから厄介である。行きたいところに行けというのは僕が他人だからいえることであって、
彼らにはとてもそんなことはいえないだろう。
人質が囚われ、殺されるかもしれなかったとき、妻が「もし自分の子供がイラクに行きたいってい
ったらどうする」といった。僕や妻がやきもきするだけで話が終ればまだいいけど、今回の大騒ぎ
を見ているとそうはいかないことがよーく判る。小泉純一郎氏ははっきりと迷惑顔だった。もっと
もである。オペラ鑑賞がキャンセルになったかもしれないし。
今回、人質の家族に対するいやがらせがとても多かったそうである。どうしてそんなことが起こる
か。人質の三人がいずれも、イラクに自分の意思で行ったからである。一人は写真を撮りに行き、
一人はイラクの人を助けに行き、もう一人は劣化ウラン弾の恐ろしさを絵本にするために行った。
この三人の意思に共通しているのは、イラクでなくても良かったのに、イラクに行ったということ
である。戦争被害者は世界中にいる。写真はウガンダで撮影しても良かったし、助けを求めている
人はチェチェンにもいるだろうし、劣化ウラン弾はアフガニスタンでも使われた。なぜイラクなの
か。そこにマスコミの注目度と功名心とナルシシズムがまったくなかったと証明することはとても
難しいと思う。
人は新聞の一面に写真が載る人を憎む。その嫉妬心は醜い。僕も史上最年少芥川賞にそういう醜い
気持ちを持った。被害者の家族にいやがらせをするような奴は芋虫の糞にも劣る。そしてそういう
卑劣な連中の下等な憎しみには、一抹の説得力があるのだ。私がアメリカ政府のやり口を不愉快に
思い、戦争被害者に罪の意識を感じるのは、私がそこに行くことができず、行くつもりもないまま
生きているからである。果敢にイラクへ向かい、可哀想な人たちを助け、戦争の悲惨を目で見て来
なければ気が治まらない騎士道精神溢るる人には、こんな気持ちは判るまい。

4月15日(木)
1987年の秋のこと、日大芸術学部映画学科シナリオコースにいながら、文学にもなみなみなら
ぬ関心を抱いていた勉強熱心な若者であったわたくしは、当時高校三年生で「文学界」新人賞を受
賞して話題になっていた鷺沢萠の「川べりの道」を読んだ。今で言うと金原ひとみより綿谷りさに
近い。いかにも文学っぽい話だった。
この小説の、今は覚えていないあらすじについて、同級生(大学生で「同級生」っていうのかどう
か知らないが、当時のシナリオコースはいかにもそんな感じだった)のSさんと話した。場所は江
古田の喫茶店「蘭豆」(らんず)で、当時僕たちはこの今はもうない喫茶店に、何かと言うと入り
浸っていた。
Sさんは「川べりの道」は読んでいなかったが、僕があらすじを話すと、「それって『河よりも長
くゆるやかに』と同じじゃない」と言い始めた。ずっと後になってこの類似は、同時発生的に至る
所で指摘されていたことが判明したが、そのときはショックだった。高校三年生の書いた小説が、
吉田秋生の漫画「河よりも長くゆるやかに」のストーリーを流用しているというのは、いかにもあ
りそうな話である。後でSさんから漫画を借りて読んだが、確かにそっくりだった。以後私はこの
作家に対する興味を失った。
興味を失ったにも拘らず、そしてそれ以後作品をひとつも読んでいないにも拘らず、鷺沢萠の話は
耳の端っこに入ってきた。祖母が韓国人であったことの判明と、それに関する小説の発表。映画作
家との結婚、そして離婚。麻雀への惑溺。そして今日、死亡の記事を読み、お昼のニュースでは縊
死であるとの報道が入ってきた。享年三十五歳。ホームページで書いている日記は、今月9日まで
書かれている。人の名前には難しい読み方をするものがあるといった、呑気な内容だ。風邪を引い
ていたそうである。
かつてある芸能人が自殺したとき、こんな話を聞いた。その芸能人は酒に酔うと自殺の真似をする
癖があったそうである。ドアノブにタオルを引っ掛けて、それに自分の首をかける。通常ならそん
な風にして自殺することはできないが、泥酔していると死んでしまうそうだ。噂によると鷺沢氏も
トイレのドアノブに紐かタオルを引っ掛けたもので首を吊っていたといわれているが、もしこれが
本当なら、自殺というよりも事故である。
Sさんは今日、メールをくれた。「人の運命なんて判らないものですね」と書かれてあった。


4月10日(土)
終ったよ、「おがたQ、という女」。257枚。
これは新潮新人賞落選作品だったのを、大幅に仕立て直した。後半の100枚くらいはまるっきり
新しい話になった。ネガティブ・シンデレラ・ストーリーとでもいうような物語で、おがたQはあ
れよあれよという間に上昇し、そして一気に奈落の底に落ちていく。
書き終わってみると、図らずも新潮新人賞の選評で書かれた欠点を修復した(修復しようとした)
結果になった。誰も信じてくれないと思うけど、選評では皆さん、好意的に書いてくれたのである。
まあ取りようによっては「落とすけど誉めるから恨むなよ」ということなのかもしれないけど。で
も欠点の指摘は、「読んでくれたんだなあ」と思わせる、書いたほうも納得できるものばかりだった。
川上弘美さんからは「作者の焦点が定まっていない」といわれた。これは本当にそうだった。書き
直してみて、ああー、俺はこういう小説を書いていたんだな、と初めて判った。当たり前の話だが、
小説というのは書ければそれでいいってもんじゃないのだった。今度は焦点が少しは合ったと思い
ます。
沼野充義さんからは、「プロットの展開がやや安易で、人物造形にもステレオタイプ的なところが
ある」と書かれた。これは判らない。直っていないかもしれない。できる限りのことはやったとい
うよりほかにない。ステレオタイプでない人物造形……難しい。
福田和也さんからは「筆がちぢんで紋切り型に落ちてしまう」「風俗なり環境が書き込まれていな
い、もしくはその関連を感じさせないのも致命的」と書かれた。この小説は女の一生なので、天皇
崩御を始めとしてさまざまな時代背景を書き込んだんだが、そういうのは今回、斬って捨てた。僕
はまだ何かの時代について書くことができないのではないかと思う。「筆がちぢんだ」というのは
恥ずかしいことだが認めざるをえなかった。今回は思い切りやった。デタラメ度は高くなったと思う。
保坂和志さんの選評は一番僕の作品に好感を持ってくれていた。ところが一番キツイというか「?
??」と思わざるをえなかったのもこの選評だった。「受賞作の顔をしていない」というんである。
えーっ。それってどんな顔をすればいいの? と思ったこと、ある意味では今でも思っていること
は正直に書いておく。この気持ちは後に金原ひとみが芥川賞を受賞したとき、俺もゴシックロリー
タにしようかな、と思ったことと関係がある、はずだ。
町田康さんは(しかし凄いメンバーでしょ。本当にラッキーだったと思ってる)、一番具体的に作
品の中に入り込んで選評を書いてくれた。だから僕以外の人には、何の話をしているのか判らなか
っただろう。そういうリスクを犯して即物的な指摘をしてくれたことは有り難かった。「文章よく、
前半の訳が分からぬところまではよかったが、後半、大学生活の話になって以降訳が分かるように
なってからは、ただよくある話になった。主人公が恰も人形のようであることが、前半は一定の効
果があったが後半では効果がなくなった」と書いていただいたが、まったくその通りだった。ので
今回は後半も「訳の分からぬ」感じを出して気を抜かずに突っ走った。また主人公のキャラクター
も、もっと有効活用できるような環境に置いてみた。町田氏からはもっとエピソードや登場人物に
関する突っ込んだ選評をいただいたけれど、指摘された欠点は後半をまるっきり別の話にすること
で、それらの欠点はある程度克服されたと思う。
結果は人からどう思われるか判らないけれど、僕は今回もすっげえ頑張りました。頑張って書きま
した。6月後半に出るから、是非読んでくださいませ。


過去の日記
(2003年10月〜2004年3月)
(2003年8月〜9月)

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