12月27日(月)
『恋するたなだ君』初稿完成。
腕が疲れて、目は焦点が合わないし、ものをいうのも億劫だ。
途中から書き変えたり、挿入したり削除したりしたので、正確なところは浄書しなければ判らないが、
370枚くらいの長さになった。
と、昨日はここまで書くのがやっとこさだった。今日は28日。ぼけーっと一日過ごしたおかげで、少し回
復してきた。
面白いかどうか、まだ見極められない。読み返してもいない。話の上で矛盾があるかもしれないし、根
本的に駄目なのかもしれない。面白いかもしれない。
八月なかばから書き始めて、それ以前に五十枚破棄、そしてまた五十枚破棄、書き直し始めてから、
さらに一人称にすることに決めて、ようやくここまで来たという感じがする。とにかくエンドマークは出したの
だ。
リアルなものが何もない小説で、モデルもいないし体験に基づいてもいない。まるっきりのフィクションを書
いた。それはまあ、楽しい作業だった。今は「たのしー!」なんて思える状態じゃないけどね。
全体を四つの章に分けて、各章が六つの小さい章に分かれている。それでも書き足りなかったので、エ
ピローグをつけた。
そうそう。今回、もう終わりが近い、という段になって、いきなりへんてこりんな展開になった。こんなの出
てきていいのかな、と思うようなのが出てきた。なにがでてきたかは、読んでのお楽しみ。
なんだか気力がまだ戻っていないみたいだ。ぼーっとしている。でもこうやってぼけーっと年を越せるのは、
悪くない。今夜はゆっくり風呂にでもつかるか。
本日を以って「フィクショネス」もお休みといたします。来年は5日(水)より再開します。来年はなんだか
いい年になりそう。いっぱい仕事もするし。皆様も、どうかよいお年を!

12月19日(日)
『恋するたなだ君』がウルトラスーパー大佳境に入っているので、たいした話題もないんだけれど、今日
の夜テレビでやってた「NHKに言いたい」っていうのは面白かった。いろんな意味で。
後で聞いたら大して視聴率も取っていなかったようだから、見ていない人のために説明すると、これは
NHKが最近俎上にあげられている「一連の不祥事」(ディレクターが番組制作費を使い込んだとかそう
いうこと)に関する特別番組である。スタジオには「つ」の字の形のテーブルがあって、海老沢NHK会長
がいて、経理担当みたいな人がいて、あとは司会を含めた数人の「有識者」がいる。テーブルの後ろに
は視聴者の声を聞く電話番が並んでいて、これがほぼ全員おじさんである。ちょっと離れたところに男性
のアナウンサーが立って、VTRを紹介したり「視聴者の皆様から寄せられた声」を読み上げたりしている。
これが二時間半続く。
この光景から明らかなことは何か。海老沢会長が主役の番組だということだ。そんなことはいわずもがな
であり、誰にでも一目瞭然である。ところがここに世界でただ一人だけそれを理解できない人がいて、そ
れが誰あろう海老沢会長その人だった。
ここが面白い。つまりこのNHKという、テレビ局の一番偉い人である人物は、テレビを知らないのである。
イメージ戦略とか、テレビを制するものが権力を制するといったことは、ニクソン対ケネディの昔からいわれ
ていることで、「NHKに言いたい」という番組にチャンネルを合わせた人は、海老沢会長が何をいいだす
かと固唾を呑んでいたのである。それなのに、ああそれなのに、海老沢会長いわく、「抜本的な改革をし
っかりとやって、去就はそれから自分で決断したい」ですって。
「去就は自分で決断したい」。この言葉、一体テレビで何回聞かされたことでしょう。鈴木宗男もいった。
山崎拓もいった。管直人も土井たか子も武部農林水産大臣もいった。そんな台詞が二時間を超える
番組のハイライトだなんて、そりゃ視聴率も伸びないっての。しかも海老沢会長、この台詞を五回くらい
繰り返したからね。うつむきながら。書いてあるものを読んでるみたいにして。
辞めないなら辞めないで、もっとほかにいいようがあるだろうによ。この番組にも演出家がいただろうから、
その人と相談して、テレビ映りをリハーサルでチェックするとか、ライターに頼んで耳に響きよい台詞を書い
てもらうとか、そういう工夫ができなかったのか。
これは想像だが、海老沢会長はあの番組でのコメントを、自分で考えたんじゃないだろうか。さもなくば
周囲のちょうちん持ちと決めたとか。NHKの番組を作っている現場の人たちはノータッチだったように思え
てしょうがない。ちょっとでもテレビを知っていれば、あれで視聴者が「がんばれエビジョンイル!」などと思う
わけがないことくらい判ったはずだ。
どうもあの人、NHKで孤立しきっているように思える。とすれば辞任しようとしまいとこっちの知ったことじゃ
ない。ただ、偉そうな人が偉そうにするために偉そうな地位にあるのが、なーんとなくしゃくにさわるだけだ。

12月16日(木)
『恋するたなだ君』っていう新しい小説、いよいよ追い込みに入ってきた。火曜日の夜は一気に1章
書き上げてしまい、水曜日も没頭、今日もこの日記を書いたらばりばり書くつもりだ。
小説のためにいろいろ調べる必要があって(今回は医学論文まで調達しなければならない)、新しい
知識がいろいろ入ってくる。中でも特に収穫だったのは、モーリス・ラヴェルの音楽をたくさん聴いたこと
だった。
昨日はラヴェルのオペラ『子供と魔法』を聴いた。台本がコレットで、音楽がラヴェルという、二十世紀
初頭のフランス芸術が馥郁と薫る傑作だ。ただしこれを舞台で見たいとは思わない。決してうまくいか
ないだろうからだ。なんせこのオペラで歌うのは、子供部屋のソファやティーポット、時計や算数の教科
書といった人間ならざるものばかり。おまけに筋らしい筋があるわけじゃなく、徹頭徹尾子供っぽいナン
センスに満ちている。舞台よりもアニメーションでやった方が絶対に面白いと思う。実際、名曲であるに
もかかわらず、舞台でそうしょっちゅうかかる作品でもないらしい。音楽はしびれるようなメロディの連発
で、ロリン・マゼールのCDで聴いたんだが、これは稀代の名盤だそうである。僕もそう思う。マゼールは
面構えに似合わずユーモアのある、軽やかな演奏をする。ベートーヴェンなんかは軽くなってしまうが、
ラヴェルにはもってこいだ。
何とかしてこのオペラの台本を小説に使いたいと思っているんだけど、使えないかもしれない。僕が入
れ込みすぎているから。

12月11日(土)
さーじゃーぼちぼち「文学の教室」でもやっか、と思ってるところへ、よしもとばななさんがまたしてもご来
店。慌てふためく。いらっしゃるたびに嬉しくてどきどきしてしまう。
まだフィクショネスの「よしもとばななコーナー」は出来上がっていないのだが、入荷した単行本と、文庫
本の一部にサインしてくれる。POPも書いてくれる。でかい字で「買って!!」と書かれたので、思わず
笑ってしまう。でも、真面目すぎる解釈かもしれないけど、よしもとさんは本を売ることの厳しさを熟知し
ているんだな、と感動した。よしもとさんの本を全部入荷してやるぞー!と、こっちもハリキル。だけど出
版点数がすごい多いから、いきなりは無理だけど。許してくださいね、よしもとさん。
フィクショネス常連の内野さんがその場にいて、彼女はよしもとさんのウルトラ大ファンなので、感激して
いる。彼女の強い要望もあって、来年最初の「文学の教室」のお題は『アムリタ』(新潮文庫・角川文
庫)に決定。たちまち店内の『アムリタ』完売する。僕も十年ぶりかそれ以上ぶりに、再読開始。最初
の「メランコリア」を読んだだけで、もうなんだか、圧倒される。
自分が小説を書いてみて、初めてわかった小説のよしあし、というものがある。あくまでも自分が小説
でやってることを軸にしているから、あてにもならないものだけれど、よしもとさんの小説って、書いてな
いときには見えていなかったものが、物凄くいっぱいあるのだ。読んでいくほどに「いっぱいあるなあ」と思
えていくので、変な話、これは日本文学ではくくれないのではないかと思えるほどである。
「別冊SIGHT 日本一怖い!ブック・オブ・ザ・イヤー2005」(ロッキング・オン)でよしもとさんをインタ
ビューした渋谷陽一氏は、彼女の作品が「どこか棚上げされ、正面切った評価が避けられている感じ
がある。」と書いているが、避けられているんじゃなくて、無理なのではないだろうか。かくいう僕だって、
皆さんお察しの通り、よしもとさんがご近所になってお店に来てくれて僕の本を褒めてくれたからこそ、
こうして再発見し、驚いている。人からみたらさぞかしゲンキンな奴に見えるだろう。でも僕はきっかけは
どうあれ、よしもとばななを再発見するチャンスができて良かったと思っている。今年は「近代文学の終
わり」っていう言説が、近代文学の中で流行した。そんな中で棚上げされようが避けられようがどーだっ
ていいと思う。だけどそれとは関係なく、彼女をきちんと評価するような新しい何かが、この十年くらいの
あいだにできなきゃ駄目だ。

12月7日(火)
小説はどんどん進んでいるんだが、それに伴って今まで書いた分に修正を加える必要が出てきた。書き
込んだりメモを挟んだりして凌ぐ。まったく僕は修行が足りないというか、こんなんじゃあ連載なんて依頼
されてもできやしないよな。(ため息)
最近ロバート・ルイス・スティーブンスンを読んでいるんだが、かの『宝島』を書くに当たってこんなことをいっ
ているのを読んだ。小説を書き始めるのに大切なのは、地図だ、というんである。これはどうも『宝島』だ
から、というだけではないらしい。スティーブンスンって実に現代的な小説観の持ち主(そして小説「勘」も)
だったみたい、っていうかスティーブンスンみたいな小説観が「現代的」(「近代的」よりさらに今という意味)
なんだと思う。読んでいて感じる。だってとんでもなく面白いもんな、『宝島』も『ジキル博士とハイド氏』も。
今は『プリンス・オットー』を読んでいるが、これも面白い。全部読みたい。勉強にもなる。省略がすごい。
なんで文章が短くなっているんだ。
スティーブンスンは一週間かそこらで『ジキル博士』を書き上げたそうだ。大切なのはスピードである。僕
もなんとかして年内に書き上げてしまいたい。現在、4分の3にやや欠けるくらいまで行っている。

12月5日(日)
暑い! 12月5日、暑い! 23度だそうだが体感温度は明らかに30度近い。恐ろしすぎる! 外
で笑っている声が聞こえる。笑ってなんかいる場合かと思ってしまう!
僕はこないだの誕生日に妻にリクエストして、『ザ・デイ・アフター・トゥモロー』の2枚組みDVDを貰った
のだ。これはまあ、ローランド・エメリッヒ監督のパニックSF映画で、そういうのって嫌いじゃないからというこ
ともあるんだが、今年の日本の相次ぐ水害、台風被害にまじで怖くなって、本腰いれて観ることにしたの
だ。2枚組みでよかったなと思う。2枚目には地球温暖化に関するドキュメンタリーが収録されているから。
映画に即していうと、温暖化っていうのは地球がどんどんヒートアップしていく、というだけの話ではないの
である。ヒートアップは、とてつもない環境異変の序章に過ぎない。寒帯、温帯、熱帯といった地上の気
象分布の崩壊につながるのである。映画ではもうガンガン天変地異が起こってしまって、3日か4日で北
半球が一気に南極みたいに凍りついてしまうのだが、まさかそんなことは起こらない。それだったらまだ火事
場見物みたいで面白いかもと思うが、実際にはそんなスペクタクルはなく、じわじわじわじわじわじわと、し
かし十数年くらいで大規模な環境の変化が起こるのだ。それは今現在も起こっていることであり、その一
例が今日の「小春日和」である。
うろおぼえで書くのはよくないが、数日前のニュースでアメリカは今後も京都議定書に署名する意思はな
いと、誰かがどこかで発言したらしい。経済に及ぼす打撃があまりに大きいからと。アメリカ人だけじゃない、
人間はどこまで馬鹿なのか。っていうか、この問題を考えると、知的生命としての人間の限界を感じる。
自分が人間だから、ひいきをしてしまうけれど、実際にはただの貪欲な、目先のことしか見えない低レベ
ルの生き物っていうのが、人間の正体なんじゃないだろうか。
映画は最後に大統領がゴメンナサイみたいな演説をして、主人公も片っ端から生き残って、なんだか妙
に爽やかに終わるけれど、実際に南の島の海面が上昇して、林業も農業も漁業も生産が激減して、伝
染病が流行して、大気中の酸素含有量が減っていって、ゴリラも虎も絶滅して、でも人間の数が増えて
増えて、にっちもさっちもいかなくなってからゴメンナサイなんていっても、何の解決にもならないぞ。どうする
んだオイ!!

12月3日(金)
僕の本はあまり売れていない。いや、気持ちを正確に書くと「今のところ」あんまり売れていない、といった
ほうがいい。少なくともある程度は面白い小説だという、ウヌボレというか自信というか、はたまた矜持とい
うべきか、は持っている。でなきゃ賞ももらい損ね、読んだところでやせるわけでも「人生勝ち組」になれる
わけでもない本を、一流の商業出版社が出してくれるはずがない。面白いというほかに取り柄がない、と
いったほうがいいかもしれないけれど。
だから毎日はりきって書いているわけだが、正直、内心では不安がないわけではない。こんなことやってて
俺は本当に大丈夫なのか? と思うことだってある。マァ小説を書くってそういうことだとも思うけれど、暗闇
に向かってボールを放っているような感触が、いまだに抜け切れない。古川日出男さんや木内昇さんが書
いてくれた書評は、過褒であることを弁えていても嬉しく、今でもどれほど励みになっているか判らないくらい
だ。それでも僕の不安は、どこかでくすぶり続けている。
昨夜、よしもとばななさんがフィクショネスを再訪してくれた。『おがたQ』と、よしもとさんの最新刊『なんくる
ない』(新潮社)を持っている。用件は、というと……。
「この本とっても良かったので、サインしてください」
僕がいったのではない。よしもとさんがそういってくれたのだ。「ええーっ!」てなもんである。藤谷治がよしも
とばななにサインするという、巷間流行しているのとはまったく重みが違う意味で「ありえない」出来事が起
こった。震えながら署名する。サイン入りの『なんくるない』もいただいた。ご主人のデジカメで写真も撮って
もらった。ホームページで使っていただけるそうだから、この話が嘘でないこともそのうち明らかになるだろう。
自慢話に聞こえるかもしれない。実際、自慢だ。知り合いに片っ端から言いふらしたい気分である。それ
くらいの権利はある出来事だと思う。とんでもなく嬉しかった。本が売れるとか売れないとか、そんなこと関
係なくなった。書評が出る出ないの問題じゃなかったんだ。小説を書き始めて、これほど大きな安堵と興
奮、それにある種の責任感(この調子で書き続けなきゃいかん、という)を感じたのは、小学館の石川和
男さんが本を出しましょうといってくれたとき以来だ。
そこでさっそく『なんくるない』を今、読んでいるけれど、お世辞でもなんでもなく、魔法のようだ。家族を描
いている。家族って本当になんだろうと思う。それは他人ではなく、ずーっと他人ではない。でも母や父、
夫や姉といった人々は、何を考えているか判らない、どこで何をしているかも把握しきれない存在だ。そう
考えると不安になる。でもその不安から救ってくれるのも家族なのだ。
ところでそんな風に家族を考えることなんか、普段はめったにない。あっても一瞬ぱちっと起こって、たいてい
は意識の表面から消えてしまう。そして意識の底にたぐまって、もやもや、むずむずするのだ。よしもとばな
な(さん)の魔法はここに立ち現れる。何もしなかったらもやもやしていただけの気持ちに言葉を与え、風景
と物語を与えて、登場人物に大きなダメージを負わせて、それをしっかりと救ってくれるのである。
自作を褒めてくれたからといってこんなことを書くのはいやらしいかもしれない。それに誰でもいっていることだ
と思うけど、家族という、人間誰しも持っている存在について、これだけ真剣に、しかも判りやすく、繊細な
言葉で小説を書いた作家が、日本にあと何人いただろうと考えると、ちょっと意外なくらい思い浮かばない
のである。小島信夫氏くらいだ。でも小島信夫氏の家族小説は、読者を立ち直らせてはくれない。そこが
凄い。だけどやっぱり小説には、たとえそれが深刻な主題を扱ったものであっても、読後の爽快感が欲しい。
そういう意味でよしもとさんの小説に、世界中で何万という読者がいるというのは、当たり前のことなのかも
しれない。
(ところでよしもとさんのサインには「私の本、仕入れてね!」と書いてあった。今まで全然なかったわけじゃな
いけど、来週からさっそくフィクショネスには「よしもとばななコーナー」が設けられるから、お楽しみに!)

12月2日(水)
内緒にしておこうと思ったが、本人がホームページで触れてくれているから解禁。
ニ、三日前のこと、ベビーカーを赤ちゃんごと持ち上げてお店に来てくれた夫婦連れがいた。そのとき店内
には常連の女子大生が一人いたのだが、その夫婦連れを見て驚いた顔をしている。そして僕に耳打ち
をする。夫婦連れは赤ちゃんだけでなくコーヒーの入った紙コップも二つ持っていた。
「それ、レジんとこ置いてもいいですよ」というと、だんなさんは嬉しそうに、
「いやー、これ熱くって」といって、コーヒーから開放された手をぶらぶらさせた。
しばらく店内を見渡してから、奥さんは猫の絵本と、僕の小説をふたつとも買ってくれた。僕は照れくさか
ったけど、思い切って話しかけた。
「あのー、よしもとさんですよね」
「そうです」
なんとびっくり、よしもとばななさんがご来店、のみならず、僕の本を買ってくれた。「大変光栄でございます」
と、馬鹿丁寧な挨拶をしてしまう。隣に立っている女子大生は嬉しくて悲鳴をあげそうな顔をしている。
よしもとばななさんと僕は日本大学芸術学部のほとんど同期である。この「ほとんど同期」っていうのが微妙
でねェ。よしもとさんの方が一年先に入学したのに、年齢は僕がひとつ上なんだよナァ、二浪しているからサァ。
それによしもとさんは文芸学科で僕は映画だったから接点はなかった。でも在学当時から、つまり作家にな
る前から彼女のことは風の噂で聞いていた。吉本隆明の娘がいるらしいってことで。このことは『おがたQ』
に一行書いたと思っていたんだけど、さっき読み返したらなかったみたい。書き直しのときに削除したかも。
あの頃の日芸って、今から見ると面白かった。吉本隆明の娘だけじゃなく、先輩には手塚治虫の息子も
いた。演劇には三谷幸喜もいたはずだし、映画学科の校舎の溜まり場には、「爆笑問題」の田中さん
がソファに寝転がっていた(という話を聞いたけど、僕は覚えていない)。放送学科には、あの人なんてい
ったっけ、ヤクルトの古田と結婚したアナウンサー、あの人もジーンズのツナギを着て歩いていた。
こういう、後年「有名人」になったような人との交友はまったくない。まさかこんなに名を成す人たちが揃う
とは思ってもいなかった。また名を成すであろうと目星をつけていた人が案外あっさりと市井の人として平
和な人生を送ったりもした。今でも付き合いのある日芸時代の友人は、数は少ないが人間としてこれ以
上望めないくらい強い絆で結ばれていると信じている。でも僕みたいに卒業してもサラリーマンになっても
三十を過ぎ四十を過ぎてもまだがりがりブンガクとかいって机に齧りついているような馬鹿は意外と少な
い。それがなんか、さみしい気がする。日芸ってそういう大学だと思うんだけど。
僕が日芸を三流大学とか、大学のうちに入らないとか自嘲すると、妻は「日芸に入りたくても入れない人
はいっぱいいる」と反論してくれる。でも僕は知っている。日芸に入りたくても入れない、というのは、「そりゃ、
何でも完璧に自由だったら入りたいよ。でも就職もあるわけだし、そこまで自由になれないよな」っていう
意味なのだ。そういう正道を踏み外した大学に入ったからには、やっぱ踏み外しを貫こうと、僕は思ったの
かもしれない。まあそこまで出身校に囚われていたわけもないが、僕にとって日芸は決して小さな存在じゃ
ない。今でも。
話がすっかり飛んでしまったけど、よしもとばばなさんのホームページによると、僕の小説を楽しんでもらえたよ
うである。ありがとうございます。

11月28日(日)
昨日の予告どおり椎名林檎を褒めようと思って、妻から「無罪モラトリアム」なるCDを借りたのだが、聴
くことができなかった。ゆえに椎名林檎は明日以降に書きます。
どうしてCDを聴けなかったかというと、小説が進んでいるからである。今日は比較的疲れていたにもかか
わらずガンガン書いて午前4時までガリガリやっていた。寝ようと思ってテレビをつけたら北海道で地震が
起こっていた。
結局原稿用紙210枚に至ったが、必ずしも喜ばしい事態ではない。というのもこのところ、登場人物た
ちが勝手に行動しているのである。それは小説の人物たちが動くということだから、本来なら決して悪いこ
とではないはずだが、作者の僕があずかりしらないところで人物が動いている。今夜はいきなり主人公たち
がレストランで話をすることになり、作者が急遽レストランの名前を考え出さなければならなかった。自分の
書いている原稿の上で人物たちが勝手に相談しているようで気持ちが悪い。
会話ばっかりしているので、そろそろアクションを起こす必要があるのだが、それがどんなアクションなのか、見
えていない。だが人物たち、少なくとも中の一人か二人は、これから何が起こるか知っているようなのだ。そ
してそれは、主人公のたなだ君ではない。
今回の小説は、個人的なチャレンジの要素がある。第一に一人称で書いている。第二にキリスト教を出さ
ない。第三に歌を歌わない。これらはいずれも、今まで書いてきたみっつの小説「モッツァレラ」「おがたQ」、
そして現在連載中の「いつか棺桶はやってくる」に必ずといっていいほど登場してきた要素だが、今回その
いずれも禁じ手とした。コメディだから歌は歌いたいんだが、そういうもんに頼らず書けるかどうかを、自分で
見てみたい。
この日記を書いていても、頭の中で小説がちらちら、ちらちらしている。まだ書くのか。どうなることか。

11月27日(土)
深夜のテレビ番組「カウントダウンTV」にて、椎名林檎(バンド名は「東京事変」)を聞いた。生れて初
めてだ。
椎名林檎が、現在とても影響力の強いシンガーソングライターであることは知っていた。単に人気と実力
を兼ね備えているというだけでなく、後続の女性歌手の中に、エピゴーネンがてんこもりに出ていることも
知っていた。現代詩人のねじめ正一氏が詩人として評価しているのを、NHK教育テレビで見たこともあ
る。それでも今日まで聴いたことがなかったのは、ひとえにチャンスが無かったからにほかならない。
テレビで歌われたのは「群青日和」という、CMではしょっちゅうサビの部分だけ聞かされている曲だ。念の
ためにビデオを録ってじっくり聴いた。
それは、見ていてあっけにとられるくらい、ひどい曲だった。
歌はいい。歌唱力があるとも思えなかったが、味のある歌い方だ。ふてくされたような、一生懸命のような
顔は、なんだか懐かしい感じがする。
音楽は凡庸だと思った。とりわけアレンジが「努力賞」という感じでわびしい。アヴァンギャルドな音を商業
ベースに乗せるとああなることが多いが、「群青日和」の場合はそのアヴァンギャルドが上滑りをしている。
できないことはやらないほうがいいという見本みたいな音だった。
そして歌詞。この歌詞は、こんなこといいたくないけれど、最悪である。いいたくなければいわなきゃいいじゃ
ないかと僕だって思うが、影響力の強い、つまりあれを「いい歌詞」と思っている人間が少なくないことは、
音楽や文芸にとっても良くないことだと思うから、あえてひどいことをいう。椎名林檎作詞の「群青日和」の
歌詞は最悪だ。
「新宿は豪雨 あなた何処へやら/今日が青く冷えてゆく東京/戦略は皆無 わたし何処へやら/脳
が水滴を奪って乾く」と始まるのだが、二行目以下の品のない言葉の羅列はなんだ。「青く冷える」「戦略
は皆無」「水滴を奪って乾く」。こういうのが才能とかなんとか持ち上げられるから、ポエトリーリーディングみた
いな場所で愚劣な詩がはびこる事態を招いてしまうのである。
CMでやっているサビの部分は「演技をしているんだ/あなただってきっとそうさ」と歌っていて、この歌の中
ではここと、「突き刺す十二月と/伊勢丹の息が合わさる衝突地点」という部分だけがいいと思う。「演技
をしているんだ/あなただってきっとそうさ」という言葉は正直だ。そして文芸においては、正直であることは
もっとも強く、もっとも感動的な美徳なのである。「今日が青く冷えてゆく東京」という言葉は、奇抜な装飾
句を持ってくることで字を埋めているだけだ。この歌にはそういう、字を連ねているだけの装飾句がとても多い。
中でかろうじて「伊勢丹」の部分だけがうまくいっていると思うのは、これがシャレているからである。装飾とい
うのはなんでもそうだが、シャレていないければただの贅肉でしかない。十二月と伊勢丹という、意表をつく
取り合わせは魅力的だ。もちろん新宿伊勢丹を知っている人と知らない人では感じ方が違うから、これは
イナカモノの作った詩ではある(新宿伊勢丹を知らない人がイナカモノ、などといっているわけではない。まるっ
きり逆だ。そんなローカルなものに詩情を託す椎名林檎がイナカモノなのである。念のため)。けれどもイナカ
モノであることは、これまた文芸における、特に詩歌における、万葉集以来の伝統的な武器だ。
しかし「演技をしているんだ」に続く歌詞はどういうことだろう。「演技をしているんだ/あなただってきっとそう
さ/当事者を回避している/興味が湧いたって/据え膳の完成を待って/何とも思わない振りで笑う」
詩を書く人、文芸で世に出たいと思っている人の中には、こういうのをいいと思っている人がたくさんいる。だ
けどこれは、当たり前の人間が読んだらヘソで茶を沸かすようなものだ。こんな歌詞を作るのは難しくないの
である。字引をでたらめに引いて出てきた言葉をくっつけてしまえば出来上がる。嘘だと思うならやってみな。
今日からあなたも椎名林檎。
どうしてさっきっから、僕がこの歌詞に怒っているかというと、ここには腹から出てきた言葉がないからである。
「演技をしているんだ/あなただってきっとそうさ」というわずかに二行だけが、作者の腹から出てきている。そ
してこのことは、文芸というのは言葉を飾って作るデコレーションケーキみたいなものだという、文芸やりたての
若い書き手たち(史上最年少芥川賞受賞者二名を含む)にありがちな心得違いを端的に表しているだけ
でなく、これが市場に出回って持て囃されていることで、結果的にそういうデコレーションケーキ文芸を称揚
する文芸ジャーナリズムを作り上げていることにつながっているのである。
「群青日和」の歌詞は、言葉に嘘をついている。言葉「で」嘘をつく、というなら文芸という芸に含まれるが、
言葉「に」嘘をつくのは文芸におけるもっとも軽蔑すべき態度だ。
(明日の日記では椎名林檎を褒めます)

11月25日(木)
旅から帰って脳みそに綺麗な空気が送り込まれたところで出勤、気分も新たに電車の中で中島敦を
読み続けていると、突然ある文章が目に留まり、全身がグワッとなった。そこに今書いている小説『恋す
るたなだ君』(仮題)の大きな大きなヒントがあった。
あっ、これで小説が向かっていく先が判ったと思った。でもそれは恋について書かれていたわけでもなんで
もない。それは孫悟空について書かれた文章だった。漢学の教養に裏打ちされた中島敦の若々しい文
語的小説と、なんだか知らないが馬鹿みたいなことばっかり書き続けられている僕の三文小説では、へだ
たりがありすぎる。でもそういうもんだと思う。僕はもう何ヶ月ものあいだ、小説の行く末を暗中模索してい
た。それは同時に、どんなものでも僕の糞詰まりになった想像力の栓抜きになりうる状態だったということ
だ。だからそれはヒントがあったというより、それをヒントとして僕がキャッチしたんだと思う。やっぱり大切なの
は集中力だね。
これだこれだと思って興奮して、かえって小説の目先が手につかない。ゴールが見えると、一足飛びにゴー
ルまで行きたくなってしまうのだ。ちょっと冷静になってから書き出そう。

11月23・24日
なーんにも考えないで妻と小淵沢に一泊。最初にあったのは、おいしい蕎麦屋があるらしい、ということ
だけだった。清春白樺美術館という、白樺派の美術館があって、まずそこへ出かける。敷地は大きいが
美術館はちいちゃくて、ヴォリュームという点ではイマイチだったが、ルオーの宗教画などをしみじみと堪能
した。ルオーの礼拝堂、なる建物もあって、なかなか面白かった。
それから唯一の目的地である蕎麦屋さんに行ったのだが、これはもう超大正解の素晴らしいところだった。
靴を脱いであがる高級料理店で最初はどぎまぎしたうえに、「お蕎麦だけ、というのはないんです」とご主
人に言われ、財布の中身を心配したけれど、意外と手ごろなお値段で最高にうまい茸の天麩羅、岩魚
の塩焼き、それに新蕎麦を食べさせてもらった。囲炉裏の部屋に僕たちだけ、外は南アルプスの雄大にし
て幽玄な風景が広がっている。ああ贅沢。こういう旅はいいねー、と思って腰を上げたら、なんとご主人が
小淵沢まで送ってくれるといってくれた。ベンツに乗って秋の甲斐路を行くなんて、お金じゃ買えない心地
よさ。しかもご主人、かつては下北沢でも遊んでいたようで、シモキタ話に花が咲いた。人との出会いが旅
では一番うれしいよ。帰宅したらお手紙を出すことに決定してお別れした。
小淵沢の駅前で宿を探す。妻がお土産屋さんから仕入れた情報で温泉のあるところを発見。シーズンオ
フのことゆえ、大きなお部屋に入れてくれた。温泉は快適、部屋はゆったり、そして階上の中華レストラン
のシェフはかつて「料理の鉄人」二回出場とのことで、夜はそこでラーメンを食べたがこれまた絶品でありま
した。夜は酒飲んで酔っ払う。
明けてどこに行こうかパンフレットなど見てみるけれど、植物園は花が咲いてないので閉館、スキーには早
すぎる、山を登るほどの気力も準備もないということで、近所をぶらぶら歩いてみた。するとそこは乗馬の
訓練場になっていて、広くて舗装していない道に馬糞の香りがする。林の中に差し込む朝日がまぶしい。
坂を上がるとずーっと上まで牧場で、あっちこっちで馬が休んでいたり、軽く走っていたりした。ここでも地元
の画家の絵を飾る小さな美術館で休憩。で駅前に戻ってまた蕎麦。そういう旅。「行楽の秋」を地で行っ
た感じだった。何よりかにより、頭が休まったのが嬉しい。

11月22日(月)
そして明日が僕の誕生日。ちょっとどっかへ出かけようと思う。行き先はまだ決めていない。だから火曜日
と水曜日はお店をお休みします。じゃーねー。

11月19日(金)
父の誕生日。昭和十二年生まれだから、六十七か。
僕の父親にはちょっと不思議な力があると思っている。不幸を徹底的に排斥することができるのである。
人間誰しもそうだろうと思えるけれどもそうではない。かつて何かの折に父が「お父さんはねえ、楽しいこと
が好き。楽しくないことは嫌い」といったのを、当人は覚えていないだろうが僕は忘れられない。以後ひそ
かに藤谷家の家訓と肝に銘じているくらいだ。
父もまた一人の人間であるから、不幸に見舞われないなどということはありえない。小さな会社を営んで
いるから、人に言えない苦労もあるだろう。しかし父の人生において不幸や苦労が、幸福や楽しみに勝っ
たことは一度もないと思う。何事か窮地に追い込まれると、まこと科学の力では解明できない摩訶不思
議なる救いの手が差し伸べられて、ピンチを脱するのである。
けれどもそれを僕は、運の強さだとは思わない。強靭な、ときとして我儘とも自己中心的とも取れるほど
強靭な精神力のたまものだと思う。不幸というのは一種の誘惑的な側面を持っていて、場合によって人
は率先して不幸を求めてしまうことがある。幸福を求めて努力するより、不幸に淫したほうがよほど楽な
ことがあるのだ。父にその誘惑がなかったはずはないが、これまでの人生を脇で見ている限り、最終的に
は不幸に身を投げ出すより幸福をめざして駆け出すことを選んでいる。
こうして書くと父親にゴマをすっているように思えるかもしれないが、これらが必ずしも善や美徳とは限らな
いところが、人間の興味尽きせぬ奥深さというものだ。少なくとも父のことを徳高き大人と思っている人は
いないだろう。幸福な人だと思っている人がほとんどではないかと思う。今気がついたが、さっきっから僕は
何を書いているかというと、自分のことなのかもしれない。父親の上記のごとき性質は、ことごとく僕に遺伝
しているのである。

11月14日(日)
紀宮様婚約内定のニュースがテレビで流れると、妻は化粧の手を止めて画面にかぶりついた。どうも僕
らの世代の結婚していない女性たちの中には、紀宮様が未婚であることを以って親を納得させていた人
が少なくないらしいのである。その人たちはいよいよ追い詰められたのかどうか知らないが、いずれにして
も明るい、何となく心なごむ話題だ。
今上天皇とそのご家族には、僕はごく自然な敬意を感じている。週刊誌レベルの報道しか知らないせ
いか、宮内庁という役所には不快を感じることもあるけれど、それも主として天皇家の人々が窮屈な思
いをされているのではないか、役人が天皇家の意図を汲まずに格式ばったことを押し付けているのでは
ないかと思うからであって、天皇家そのものに対してはいささかの反感もない。それどころか戦後日本人
の意識にとって、天皇家のありかたは僕らが自覚している以上の影響を及ぼしているんじゃないかと思
う。また僕らの意識が天皇家に影響を及ぼしていることもあるだろう。とりわけ僕は皇太子と大して年齢
も変わらず、雅子様とは同い年のはずなので、深甚の興味を持って報道を見ているけれども、皇室の新
しいありかたを模索する(とりわけ外交)二人の苦労や、子供に対する接し方、特にお互いに対する愛
情を隠しもせず、時には公の場で宮内庁に対する抵抗を隠しもしないところなど、自分があの立場だっ
たらとてもああ立派にはできないと感嘆することばっかりである。しかもあの二人には、どこか育ちの良さと
いうだけではない、強靭な明るさとでもいうべきものがある。
今秋の園遊会で今上天皇が、東京都教育委員会の一人として出席した米長邦雄永世棋聖の「日
本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのがわたしの仕事でございます」といったのに対して、「や
はり強制になるという考え方でないことが望ましいですね」と発言されたのは最近の象徴的な出来事で
あると思う。これに関して記者の質問を受けた石原慎太郎東京都知事は「イヤ強制ということではなく
法律に従ったまでであってネ……はい次の質問!」と狼狽し、国歌斉唱に反対して教職を追われた教
師が「あれは強制そのものです」とコメントした。日本の誇りを護持すべくがんばっている都知事が目を泳
がせて自分の主張と天皇の考えをなんとか折り合わせようと冷や汗をかき、反皇室のイデオロギーのため
にがんばっている共産党系の教師が天皇を援護射撃に利用するという、とっちらかった事態を招来せし
めたのである。これを滑稽と笑うのはまだしも好意的な見方であって、右翼も左翼も現実に即応できず、
単に頑迷な動脈硬化の老人と成り果てたことを、天皇のご発言は図らずも浮き彫りにしたと僕は見て
いる。
ある種の人々にとってこれは絶望的な事実のようだが、天皇はイデオロギーではない。きわめて特殊な
厳しい立場に置かれた一人の人間なのである。それをわきまえていないと天皇と闘うことになる。天皇と
闘って勝った人間はいない。二二六事件の将校たちも負けた、三島由紀夫も負けた。僕は彼らを駄目
だとか間違っているとか、決して思わない。男子の一生を貶めるのは許されたことではない。けれどもやは
り痛ましいと感じないではいられない。二二六事件には当時の貧困層の問題など切羽詰った事情があ
って、いちがいにイデオロギーとはいえないけれども、あの滔々たる文才の持ち主であった三島由紀夫が
天皇に向かって「などてすめろぎは人となりたまいし」と呪うがごとき言葉を吐いて割腹したのは、どう考え
ても痛ましい。それに対して天皇家は小ゆるぎもせず健在である。一方で世間の思う「左翼」に類する
人々は、マーはっきりいって歴史に残るような闘いをちょっと思い出せないような有様だ。大逆事件とか
プロレタリア運動とかはあったけれども、それらが天皇に届いていたとは思えない。届く間もなく官憲に虐待
されたのだろう。現代への影響力となるとなおのこと微小である。
なんだか紀宮様の話からずいぶん遠ざかってしまったから話を戻す。こんなこといったら失礼かもしれないけ
れど、紀宮様は近年とても美しいと思う。今年三十五歳だそうだが、それこそ現代の三十代の男女と同じ
く若々しい。十年二十年前に比べて顔が引き締まってきているのに、引き締まったことによってかえって可愛
らしさが増したように見える。今年の日本は本当にひどい目にあった。報道を見ているだけで疲れてしまう
ような出来事ばかりだった。そんな昨今、この婚約内定は、思い起こすだけで何ともいえずいい感じになれ
る話である、と、無理やりまとめる。

11月9日(火)
この日記を読んでいる人の中で、誰か昨夜TBS系列でやっていた、小田和正とムッシュかまやつ、こと
かまやつひろしが出ていた番組を録画した人はおられませんでしょうか。もしいらっしゃったら藤谷にダビ
ングさせていただきたいっ。こういうことを頼むのは違法だと聞いたことがあるが知ったことか。どうかよろしく
お願いします。
番組のタイトルも何も知らない。ただ、音楽をしっかりじっくり聞かせるというので評判の番組らしい。昨
夜もなんとなくチャンネルを回して、打ちのめされてしまった。二人でスパイダーズ時代の曲やフォークソ
ングをぼそぼそ歌っていた。ちょっと震えが来るくらい、良かった。
僕にとってフォークソングは「ビートルズ以前」である。祖父さんに買って貰ったトランジスタ・ラジオをつける
と、何かにつけてフォークがかかっていた。テレビにフォーク歌手は出なかった。小田和正とか井上陽水と
か吉田拓郎がテレビに出るようになったのは、つい最近のことである。こんな余計なことを書いてしまう老
婆心ひとつとっても、僕が若くないことが判る。だって僕の奥さんは「ムッシュかまやつ」が「かまやつひろし」
だってことを知らなかったんだもの。ショックだったよね。
それはいいとして、その頃はフォークソングなんて頭から馬鹿にしていた。クラシック音楽の教育を受けて
いたせいもあって、クラシックじゃない音楽などは音楽のうちに入らず、ましてやそれが「日本の」音楽とあ
っては、もう存在自体が二流、と決めてかかっていた。我ながら素晴らしい少年だったと思う。すべからく
童貞はこうでなきゃいけない。
それが今になってみると、心にしみじみと染み入るのである。「今夜の夜汽車で、旅立つ俺だよ。あてなど
ないけど、どうにかなるさ」……いいなァ。チャイコフスキーなんかアホである。
もちろんフォークなら何でも素晴らしいというわけにはいかない。僕は中でも、かまやつひろしとなぎらけん
いちが好きだ。吉田拓郎はメロディを作る才能に欠け、井上陽水はこじゃれてる(でも一時は本当に夢
中になってコンサートも行った)。かまやつひろしの微妙な垢抜けなさがいい。メロディを作るのがうまいと思
うし、歌にも味があるんだが、ちょっとだけ、いい方向に抜けている。日本の男の感じがある。
あーあ、もう本当にビデオ録っておけば良かったなーと思って、明けて今日、CDを買ってしまった。かまや
つひろしが自分で自作をカバーしているやつだ。大好きだったのに忘れていた曲がいくつもあるんで驚い
た。最後にCDタイトルを見たら、「クラシックス」ですって。

11月5日(土)
『電車男』読了。普通に面白かった。
僕は今、いっしょうけんめい恋愛小説を書いている。『電車男』は実話の上に、インターネットの掲示板
の書き込みを編集したものなので、書き手が複数いる。こういうのを真似しようったって無理である。恋
愛小説を脅かすようなものでもないと思うが、売り上げ的には凄いことになっているらしい。まーなー。い
まどきっぽいからなー。インターネットの掲示板に比べたら、小説なんて存在自体が古臭いのかもしれな
い。けど『電車男』って、実はとっても典型的な恋愛小説の骨子を踏襲しているから受けているんだと思
うけどね。小説はもっと、勝手にならないといけない。
でその小説だけど、まあ難しいもんだ。今月はわき目も振らずに書いている。目下驀進中である。ときお
り、この世のすべてがノイズに感じるほどだ。でも難しい。一日座って二行しか書けないとか、そんなのざ
らである。しかもその二行も翌日にはホワイトで消したりして。じゃー全然進んでねーんじゃねーかと言わ
れるかもしれないが、さにあらず。書くというのは不思議なもので、消しても消しても何かちょっとだけ残る。
うーん、こんなこと書いていたら小説が書きたくなってきたので、今日はこのへんで。

11月3日(水)
結果はまだ出ていない。しかしブッシュは勝つだろう。アメリカの大統領選挙が直接選挙なら勝ってい
る。万が一ケリーが勝ったとしても、アメリカ人のほとんど6000万人がブッシュを大統領にしようと投票
したという事実に変わりはない。
僕はこの結果が、予想していたよりもはるかに自分にとって大きな衝撃であったことを告白しなければ
ならない。確かに僕はブッシュ再選の可能性があると思っていた。でもそれは口先だけでいっていたよう
だ。またそんなことはどうでもいいことだったのである。今、僕はまことに恥ずかしいことながら、しみじみと
傷ついている。自分が多少なりとも理解していると思っていたことが、ひとつならずふたつまでも、理解し
ていなかったことに気づかされたからだ。
二年間アメリカで過ごしたということから、僕はアメリカという国、アメリカという国民を少しは判っていると
思っていた。何という浅薄な認識だったことだろう。彼らの大半はブッシュを支持した。彼らの大半はブ
ッシュがテロとの戦争をしているのではなく、「テロとの戦争」という戦争を作り上げたのだ、とは思わなか
った。ブッシュを善と見做した。彼のやったことを支持し、未来の指導者に選んだ。2001年の秋からこ
のかた、ブッシュのアメリカ政府はイラク人やアフガニスタン人を殺し、国際外交を軽視し、イスラム圏で
の戦いを「善と悪との戦い」と信じ、プライバシーよりも治安を重んじる「愛国者法」の法案を提出し、外
国人の出入国を厳しくしている。これらについてアメリカ国民の大半が無関心か、よしとしているのだ。な
ぜか。彼らにはアメリカの外側がどうなろうと関係ない。自分に責任があるとも思っていない。自分の国
が立派で善で、世界中の悪をぶち殺してくれればそれでいいと思っている。テレビではニューヨークで「ア
メリカ人」に取材しているが馬鹿じゃないか。ニューヨークにアメリカ人なんていない(だから外国人は気
楽に過ごせる)。アメリカ人に話を聞きたきゃモンタナやニューメキシコやオレゴンに行け。パスポートなん
て見たこともない、田舎者の郷へ。
これに関連して僕はまた、自分が「キリスト教」というものをまったく理解していなかったことに気がついて
愕然としている。いやキリスト教というのはひとくくりにはできないものだ、アメリカのキリスト教すらひとくくり
にはできないと、訳知り顔の人はいうだろう。そしてそれは正しいだろう。けれども僕は馬鹿だから、キリ
スト教徒っていったら「日曜日に教会に行く人」「聖書はもちろん、神父さんや牧師さんの話をよく聞く
人」「科学的客観性よりも『レビ記』や『コロサイ人への手紙』のほうが正しいと思う人」のことだとしか思
わない。現代においてそんな人種は大していない、いても影響力なんか持たないと思っていた。いや、
そうじゃない。僕は「現代のキリスト教徒」って、そんな人たちのことじゃないと思っていたのだ。もっと寛容
で、世界の多様性に応じている人たちのことだと思っていた。でも違うんだ。同性愛者を不道徳と罵り、
妊娠中絶を非合法化しようと画策しているのはキリスト教徒であり、ブッシュもまたその一人である。彼
らは異教徒であるイスラム教徒を、人間のうちに数えていない。あるいは、殺してもいい人間だと思って
いる。それは神の意思に沿うものであると思っている。彼らの多くは善人である。その善人たちがホモセ
クシュアルは地獄に落ち、父親に強姦された娘も妊娠すれば子供を生むべきだと考えている。
僕は逆上しているのだろうか。そうかもしれない。大統領選挙の結果が僕の意に沿わなかったので、だ
だっこみたいなことをいっているのかもしれない。誰か賢い人がこれを読んだら、きっと失笑するだろう。僕
にはアメリカという国が未知の国に見える。あの二年間過ごした、日本語の通じない国は一体どこにあ
ったのだろう、今どこにあるのだろうと感じている。吐きそうだ。
(これを書いているうちに、ケリーが敗北宣言をしたそうである)

11月1日(月)
こないだ脇役で出たNHKのBSハイビジョンの番組でやっていたヘミングウェイ『武器よさらば』(新潮文
庫)読了。20年ぶりくらいの再読。
1929年刊行の小説である。29年ていったら昭和4年ですよ。調べてみたら、同じ年に島崎藤村の
『夜明け前』と小林多喜二『蟹工船』が出ていた。自分の国の小説より、海の向こうの小説のほうが
新しく、っていうかもうブッチャケ、身近にさえ感じるのはなんでなんだろう。そういうのって「近代文学の
終わり」的観点から見ると良くないらしいんですよね。新潮文庫が出たのが昭和30年で、それより前
に翻訳されたものだと思うけれど、それだって三島由紀夫の『潮騒』(昭和29年)と大差ない。なんで
そんな古臭い(はずの)ものがこんなに新鮮に感じるんだろう。
主人公は兵隊で、戦地で恋に落ちる。戦場のシーンと恋愛のシーンが分裂しているという批判がある
そうだが、その分裂がリアルだと僕は思った。戦場でだって主人公は別段英雄的なことをするわけじゃ
ない。ただ戦場のシーンは定評あるとおり、驚くべき迫真の描写だ。
この小説はハードボイルドの始祖みたいにいわれることがある。確かに徹底して簡潔な言葉を選び、
形容詞を排し、非人情な文体を作ろうと心がけているのが翻訳でも一目瞭然だ。でもだからって、こ
れを書いたのがタフでハードボイルドな世界観や人生観を持っていたとは思わない。それどころかそう
やってクールな文体をつらぬこうとしていること自体が、その背後に癒しがたいセンチメンタリズムを感じ
させる。だいたい話がセンチメンタルだ。戦場を一人抜け出して愛する人と湖を横断してスイスに逃げ
込み、幸福な数ヶ月を過ごした挙句、美しい妻は産褥に倒れる。つまりロマンチックな二人きりの世界
をめいっぱい楽しんで、「愛する人」が「息子の母親」になってしまうことなく死んでしまい、しかもそのあい
だ金の心配は全然ないというんだから、考えようでは実に都合のいい話である。この話のもとになった
経験が若き日のヘミングウェイにあったらしいが、現実の恋人は死んだりしなかったようだ。願望充足と
いわれても文句はいえないだろう。いい小説には変わりないですけどね。

10月31日(日)
このところ大きな事件が続いているが、台風と地震のほかには、あまり関心がない。今朝はイラクで囚
われた日本人の遺体がバグダッドで発見されたという痛ましいニュースで起こされた。御家族が気の毒
である。日本人の海外渡航が当たり前になって、それに伴う危険も増した。オーストリアで事故死した
人もいたし、アメリカで銃殺された人もいた。今回のようにテロリストに殺されるのも、前例がある。紛争
地帯には、できるだけ近寄らないほうがいい。
島田紳介という芸人が同じ事務所の女性マネージャーを殴打して訴訟に至ろうとしている。インターネ
ットで謝罪会見を見た。疲弊しているせいかもしれないが、締りのない顔に見えた。また会見の内容も
わざとらしさを感じてしまい、正直見るに耐えなかった。じゃあ殴られた女性マネージャーに同情できるか
というと、できない。下北沢で商売をしていると、たまには芸能界で働く人とも知り合いになったりする。僕
の知っている人たちは皆、付き合いやすい人ばかりだが、そういうところから類推する限りでは、やはり芸
能関係者の中には、常識に欠けるというだけではない、不愉快きわまる人間がいるようだ。まあ、そんな
のはどんな社会にもいるといえばいるけれど。いずれにしても不愉快な人間とは付き合わないのがいちば
ん。それだけ。
そういう中で今の僕が多大の関心をもって見物しているのが、アメリカ合衆国大統領選挙だ。これは面
白いよ。シャレにならない結果になるかもしれないという点でも面白い。つまりブッシュが勝つかもしれな
い。そうなったらイラクの紛争はだらだらだらだら続き、散発的に人も殺され、アメリカ国内の人心はゆる
ゆると荒れていき、国際政治は協調しにくくなり、経済は地すべり的に悪くなっていくと僕は思う。
でも僕が面白がっているのは選挙の結果ではなく、選挙そのものだ。投票日にはどーゆーことがあんのか
なーと、今から楽しみにしている。僕はついこのあいだまで知らなかったのだが、2000年の選挙のとき、
フロリダでは黒人の投票をはばむために、なんと黒人居住区の道路を封鎖したというではないか。ま、
まじっすか!? フロリダの黒人は今でも怒っているそうだがそりゃ怒るだろう。今回、フロリダには国連の
選挙監視委員会が乗り込むのである。国連の選挙監視団って、アフリカや南米の独裁国家に乗り込
むもんだろ? フロリダの知事は怒っているそうだがそりゃ怒るだろう。でも怒ったって駄目。道路封鎖は
あんまりだもん。
今回の選挙でも面白い話を聞いた。マイケル・ムーアってドキュメンタリー監督がいるよね。あの人が今、
「ナマケモノに投票させるキャンペーン」っていうのをやって、全米を回っている。ミシガン州で彼は集会者
の中から、これまで選挙に行ったことのないナマケモノに挙手してもらった。そしてその中から今回の選挙
では必ず投票すると皆の前で誓ってくれた人に、男性にはパンツ三枚(ナマケモノはパンツを取り替えな
いから)、女性にはカップヌードル(ナマケモノの好物)をプレゼントした。
これを聞いたミシガンの共和党は、なんとビックリ、ムーア氏に逮捕状を出すよう要請したのである。逮捕
ですよ逮捕。ムーア氏はミシガン州のお尋ね者になった。これは本当の話だ。どこの世界にパンツ三枚あ
げて逮捕されるクニがあるんだと思ったら、アメリカにあったんだね。ムーア氏は「捕まらないよ、ミシガン州
には二度と行けないかもしれないけど」といっている。ちょっと可哀想だ。ミシガン州フリントは彼の故郷だ
から。
これをもって僕は凡百の反米主義者のように「だからアメリカは馬鹿なんだ」なんてことはいわない。アメリ
カには頭脳明晰な人間が何万人もいるし、ごく大雑把にいって「いい人」が多いと経験的に感じる。そう
いった人たちは黒人をロックアウトしたり、ムーア氏に逮捕状を出したりすることを馬鹿げたこと、愚かしい
ことと思っている。思うだけじゃなく糾弾する人もいる。問題はアメリカという国じゃない。人間の文明だ。
文明というのは頭脳明晰な人が何百万人かいてもどうしようもないのである。また「いい人」というのが、
実は一番恐ろしかったりもするもの、それが人間の文明なのだ。

10月28日(水)
緊急避難袋、というものを、買ってしまった。新潟の地震が恐ろしかったからである。いかにも付け焼刃、
という感じでやや恥ずかしく、またこの避難袋というのは、ただの袋だけで中身はなく、それだけで3000
円近くしたんだが、それでも買った。備えあっても憂いはあるが、備えがないときの憂いよりはましだろう。
問題は中身だが、調べてみるとけっこう厄介だ。たとえば水なんか、一日あたり3リットル必要、とか書い
てある。しかも3日分くらい確保と書いてある。ってことはアンタ、僕と女房で6リットル掛ける3日で18リッ
トル、ってそんなの避難袋に入るわけないだろう。でもペットボトルの水って2年やそこらはもつんだって。だ
から2リットルひとつ入れておくことにしよう。それからラジオと懐中電灯。ラジオは絶対必要だよ。混乱して
いるときに人の噂を真に受けるほど恐ろしいことはないから。今回の新潟の地震でも、暗闇と情報不足
が不安を増幅したようだ。
あと僕は70リットルの大きなゴミ袋と軍手を用意した。ゴミ袋は雨ガッパの代わりになるというし、何にせ
よ応用の利くものを最小限にしておいたほうがいい。カンパン、あんなもの食えたもんじゃない。クッキーか
チョコレートを用意しよう。自分の原稿?そりゃもちろん、メモリスティックにばっちり保管しておく。
それから、もちろん、本。これを忘れちゃいけない。文庫本で、深刻なものでなく、何度も繰り返し読むに
耐えるものがいい。室生犀星か里見トンがいいだろうな。生きてるだけじゃ、やっぱりいけない。本でなくて
も、将棋盤でもゲームボーイでもいい、人間らしい何かがなければ駄目だ。

10月24日(日)
実は前から話があって、今日はテレビの収録に行った。テレビったってNHKのBSの、それもハイビジョンだか
ら、僕自身も家では見られない。ビデオを貰うことになってる。
「名作平積みプロジェクト」とかいう、パイロット番組(=レギュラー番組にする前の実験的な番組)だった。
ハイビジョンをマイナーだと思うのは時代遅れなんだろうか。出演者はけっこう、すごいメンツだった。
「新刊や話題作じゃない本を、本屋さんに平積みにしてもらおう」というのがメイン・テーマで、今回は(った
ってこれっきりで終わってしまう可能性も高いわけだが)『世界の中心で、愛をさけぶ』に感動した人に読ん
でもらいたい名作、が取り上げられた。プレゼンテーターが二人いて、おのおのがセカチューに関連付けて古
典的名作をプレゼンテーションする。でそれを聞いているセカチューファンが50人いて、彼らの反応を見てい
る本屋さんが三人いる、という趣向だ。
メンツがすごいというのは、プレゼンテーターが高橋源一郎と松尾貴史さん、セカチューファン50人のうち代
表が乾貴美子さんと乙葉さんだったんである。本屋はというと「ときわ書房」の茶木さんに「ブックファースト
渋谷店」の林さん、「本屋さんその3」って感じで僕。脇の脇だから気が楽だった。
二十年来の熱狂的ファンであった高橋源一郎に直接お会いできるっていうんだから、もっと感動してもよか
ったはずなのに、なんだか本当にフツーの気分だった。楽しいショーを隅っこで見ている感じ。高橋氏は「野
菊の墓」を、松尾氏は『武器よさらば』を紹介していた。内容は高橋氏の方が興味深く、話芸は松尾氏が
本当にうまかった。高橋氏の「野菊の墓=セカチュー・エピソード1説」はハイビジョンでしか放送しないのは
もったいない。松尾氏の声の良さ、朗読のうまさ、品のいい笑いの取りかたはテレビで見るとおりだった。あと
印象的だったのは、乙葉さんがちっちゃかったこと。かわゆらしー。
収録が終わって控え室にみんなが集まったところで、蛮勇を奮って高橋氏に自作を渡す。「読ませていただ
きます」っていわれた瞬間冷や汗が出た。でも渡さないよりはよかった。テレビに出たことより、そっちのほうが
収穫。
放送は11月16日の午後11時20分から0時5分まで。見られる人は、ぜひ。

10月22日(金)
このあいだ、『小説の終焉』っていう本について、そうおいそれと小説が終焉してたまるものかと書いたけれ
ど、そういう気持ちに力強い味方が登場した。
大塚英志『物語消滅論』(角川書店)は、タイトルだけ見ると『小説の終焉』と似たり寄ったりだが、中身
はもう、180度違う。ここで論じられていることは、僕の理解ではこういうことだ。
1980年代の後半あたりから、日本人の消費の中に「物語」という要素が加わってきた。たとえば「ビックリ
マンチョコレート」のシールは、裏にストーリーの断片が書いてあって、それは背後に壮大な物語を予想させ
るがゆえに、子供たちの間で大ヒットしたのである。また「ドラゴンクエスト」のように、ゲームをやる人間があた
かもストーリーを作っていくようなゲームも登場したし、ドラマの断片を連続して見せていく形式のCMなんか
も出てきた。それらは単なる物語であるというよりも、ひとつの「偽史(にせの歴史)」であり、それらは作り手
たちが現実の歴史の代わりに作り上げたものだった。村上春樹や「ガンダム」の作者たちは、みな60年代
に政治的な歴史像を失った世代である。そして今、「歴史の終焉」や「文学の終焉」が論じられ、マルクス
主義のような現実世界を動かす大きなイデオロギーが影響力を失い、それに代わって登場したのが「物語」
だ。ブッシュが「テロとの戦争」というとき、そこにあるのは善と悪との戦いという、ハリウッド式の物語であって、
それ以上の歴史的な、もしくはイデオロギー的な、複雑で難しい問題はとっぱらわれてしまっている。そして
その単純で図式的な物語によって、世界が動いている。
一方で現実社会に対する現実感は、少しずつ失われている、ないしは実感するのが難しく感じられてきた
ように見える。インターネットの普及は、そういった現実からの乖離感を典型的に表している。しかしだからと
いってネット的な仮想現実が現実のすべてになるかというと、そんなことはなくて、たとえば佐世保の女子中
学生は、ネットの掲示板で友人と仮想現実的にいさかいをしたあげく、現実社会に存在している友人を殺
してしまっている。インターネットが発達しようと、仮想現実の比重が大きくなろうと、昔ながらの「自我の確立」
「『私』という存在」はいささかも変わらない。
ここまでは、いってみれば現状の分析であり、これまでの大塚英志の著作から、そんなに違ったことをいって
いるわけではない。大事なのはこの先、「ではどうすればいいのか」というところにある。大塚英志は「今は
『近代的言説』の立て直しが不可避です」という。

「それを柄谷行人のように『近代文学は終わった』で済ましてしまうわけにもいかないのです。現代思想とし
てはそれでいいのかもしれませんが、文学が機能しなくなった時に、そこに代わりにはまりこんだのが『バトル・
ロワイヤル』的なものやスニーカー文庫的なものだった。そのように文学をサブカルチャーが代行することはリス
キーだとぼくはずっと言ってきているわけです。(中略)
 『近代文学は終わった』と言うことは簡単なのですが、本当に終わって文学を誰も必要としていないのな
ら佐世保の女の子たちは、ただお互いにキャラクターとしての自分を傷つけ合って、お互いのホームページを
荒らして、アバター(=ネット上のキャラクター)同士で罵りあってそれで済んだのです。どちらかのホームペー
ジを消去すれば仮想化された人格は消せたはずです。リセットもできたはずです。
 ところが敵意がアバターではなく現実の生身の身体に向かったところに旧現実が否応なく出てきてしまって
いる。世界は残念ながら映画の『マトリックス』のようにはできていないということがやはりはっきりしてしまいます。
その時に、『近代の言説』の復興の次にくる局面として現実の世界の側の『私』が具体的にこういった環境
に適応するのにどう変化していかなくてはいけないのか、という新しい哲学なり文学なりが結局はこちら側に
必要になってくるのではないかという気がします。」

大塚英志が文学の復興をとなえる、という、びっくり仰天の結論がここに現れているのである。もちろんここに
いう文学は、文芸雑誌的な文学ではない。むしろ彼は、そういう旧来の文学にはやる気がないと見ている。
何しろ自分で自分が「終わった」っていってるくらいだから。
大塚氏は雑誌「ファウスト」など、サブカルチャー系の小説雑誌に書いている作家に「『文学』をやれ」といって
いる。猛烈に図々しいかもしれないが、僕はこの本を読みながら、自分がこれからやろうとしていることに自信
と責任感を持った。

10月16日(土)
今日は「詩の教室」だった。講師のカワグチタケシとの付き合いも五年ほどになる。彼が選んだ現代詩人
の作品を読んだあと、参加者の作品をみんなで講評しあう。
さる編集者と話したことだが、かつては、詩の才能がないものが短編小説を書き、短編の才能がないもの
が長編小説を書いていた。今は逆のように見える。長編を書くだけの根気がないものが短編を書き、短編
も書けない人間が詩を書いている。それはもはや「才能」ではなく、分量の問題なのだ。けれども文学とい
うのはどこまでいっても分量の問題ではないから、結果的によい詩、よい詩人がなかなか生れない。
よい詩人とはよい詩を書く詩人のことだ。ではよい詩とは何か、というと、僕の考えでは、ひとつの基準に達
しうるものだと思う。その基準とは、詩の場合、昔から決まっている。「暗誦」だ。詩というのは人から丸暗記
されるに足るものであるかどうかで、値打ちが決まるのである。「山のあなたの空遠く、『幸い』住むと人は言う」
とか、「ふるさとは、遠くにありて思うもの、そして悲しくうたうもの」「国敗れて山河あり、城春にして草木深し」
「さんま、さんま、さんま辛いかしょっぱいか」「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む」など、今はどうか知
らないが、かつてこれらは「詩」なんていうのもおもはゆいほど、人口に膾炙した言葉だった。口から口へ伝わ
っていく言葉だから、オリジナルではどういう漢字を使っているか、改行はどうなっているか、そんなことは判らな
い。判らなくていいのである。大切なのは、詩人たちがこれらの言葉を書いた、ということだ。それが詩人本来
の役割である。
だから、読者もまた役割を持っている。好きな詩を暗誦するという役割だ。僕はそう信じている。だから詩を好
きになると、暗誦するように何度も読む。実は最近、とても好きな詩を見つけてしまって、今一生懸命覚えよ
うとしているところなのだ。それをここに書き写しておく。
「岩蔭」という詩だ。

岩蔭

岩蔭に ひとりわたしは 来たことが ありはしないか……
ふと思う 思い出す その 遠い日を なぜ今の日に
記憶には はかなくうつる 切れ切れの ことどもばかり
たしかには ただ一つだけ 考えられること もうそこに

〈岩蔭〉はない もう今は ありえない 行くことすらも……
鳴り続けやまぬ 夜通し 〈岩蔭〉の 音の 切れ切れ
それももう 終わる もうすぐ うつろにも 静かにもわが
風遠く 遺跡のように 何をした 何があったか……

〈岩蔭〉の奥に ぽっかり 見えている 支窟に向けて
目をこらし 岩叩く手は 無意識の 動作であった……
しずくする 〈岩蔭〉づたい 白っぽく 浮かんだ輝線

また輝線 その奥に浮く 〈岩蔭〉の 遠い幻
ピロピロピロ 岩が悲しく すすりなくように 音して
……それだけのことだ それだけ 何も起こらず

(藤井貞和『大切なものを収める家』より)

10月12日(火)
僕は「トンデモ本の世界」シリーズが大好きだ。今日も電車の中で読む本がたまたまなかったので、一
番新しい「トンデモ本の世界・S」と「T」(太田出版)を読んだ。
知ってる人は知っているが、このシリーズは世にはびこるエセ科学やオカルト関連の本を発見して面白
がろうというものである。もう何冊出ているんだろう、最近は傾向が定まらないように工夫している跡
がうかがえる。短歌の本まで探してきているのは偉い。
何年何月に地球が滅びる。アインシュタインの相対性理論は間違っている。人類は月に行っていない。
この手の強迫観念といおうか、それとも願望というべきなのか、そういうものを持っている人は世に少
なくない。そんなものを持っていたって別にこっちは痛くも痒くもないのだが、「真実はこれこれなの
だ、それを知っているのは自分だけなのだ」という言説には、何ともいえない不愉快なものがある。僕
はその原因を、長い間「知っているのは自分だけ」という高慢な態度にあると思っていたけれど、考え
てみると、そうじゃないのかもしれない。不愉快なのは「真実はこれこれなのだ」のほうなんじゃない
だろうか。
アポロは月に到着していない、アインシュタインは間違っている、そういう言説の背後には、いってい
る人間のうつろなあがきが透けて見える。それが不愉快なのだ。なんに対するあがきかというと、「つ
まらない人生」に対するあがきである。彼らは、意識しているといないとにかかわらず、アポロが月へ
行き、相対性理論が正しいような、そんな人生はつまらないと思っている。そのつまらなさを認めたく
ないのだ。人類滅亡も同じだ。彼らは人生にスペクタクルを求めているのである。
しかし実際には、相対性理論を実証する実験結果は今も繰り返されているし、アポロはどんなにがんば
っても月に行っている。そして人類の滅亡なんかない。僕やあなたが死ぬだけである。
そういう人生はつまらない。つまり人生はつまらない。「つまらない」ということを限界と感じたとき、
トンデモ理論というあがきが生れる。あがきはあがきでしかない。人生はつまらない、ということから、
何事かちょっとでも輝く工夫を考えなければ駄目だ。

10月10日(日)
川西政明『小説の終焉』(岩波新書)を、読んだんだけどね。
「近代の歴史と同行し、戦い、超越する作品を生み出しつづけてきた小説の歴史はその役割を終えたら
しい」というのが基本線で、目次を見ると「私の終焉」「家の終焉」「性の終焉」「神の終焉」「芥川
龍之介の終焉」「志賀直哉の終焉」「大江健三郎の終焉」「村上春樹の終焉」「戦争の終焉」「革命の
終焉」「存在の終焉」といった具合に終焉づくし。芥川や志賀はともかく、まだ生きている人にまで終
焉を迎えさせなくたってよかないか。
ここでいう終焉というのは、あるテーマについて描ききったものが現れてしまった、というほどの意味
らしい。たとえば「性の終焉」なら、田村俊子や永井荷風から始まった日本近代文学における性の探求
は、山田詠美『ベッドタイム・アイズ』や村上龍『トパーズ』によって描ききられた、というわけだ。
そこには言外に、以後誰が何を書いても屋上屋を重ねるに等しい、という含みがある。同様にして志賀
直哉の問題は島尾敏雄が終わらせ、存在の問題は埴谷雄高が終わらせ、神の問題は武田泰淳が終わらせ
たんだと。
なるほどね。それならそれでいいや。
「文学はもうおしまい」という論が、今、流行っているみたいである。「早稲田文学」五月号に掲載さ
れた柄谷行人のエッセイ「近代文学の終り」は、ちーちゃいサークルで評判になっているようだ。そこ
にも「『文学』が倫理的・知的な課題を背負うがゆえに影響力をもつというような時代は基本的に終わ
っています。その残影があるだけです」と書いてあって、暗に「いまさら文学をやってる奴なんて可哀
想」といわんばかりだ。
こういった言説は、ふたつのことを意味していると思う。ひとつは、優等な知能の持ち主にとって文学
は流行おくれ、ということである。もうひとつは、文学をやってる人たちが老いて、今の風俗を罵るよ
うになりはてた、ということだ。さっき僕が「それならそれでいい」といったのはそういう意味である。
かつて若かった人間もいずれは年老いる。老いれば分別もつくが、動脈硬化も起こって、昔と今とを比
べて「昔は良かった」といいはじめる。これは世間一般で何千年も繰り返されたことにすぎず、文学の
問題でもなんでもない。
ここで僕は、「近代文学は終わったかどうか」を論じない。それは近代文学の話であって文学の話では
ないからである。文学の話じゃないのなら、それは閑文字に過ぎない。カラーフィルムが出来たから白
黒映画は終わったといっているのと大差ない。影響力? 影響力ってのはどこで測るのだ? 「文壇」
が測るのか? それとも東京大学? 多分そうなんだろう。僕にはそのどっちも縁がない。ありがたい
ことである。

「山路を登りながら、かう考へた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生
れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人であ
る。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許り
だ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくからう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の
間でも住みよくせねければならぬ。ここに詩人といふ天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。
あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

誰でも知ってる夏目漱石『草枕』の冒頭。頭のいい人たちがどういうか知らないが、僕はこれが芸術と
いうものであり、文学というものであると思う。人の世をのどかにし、人の心を豊かにする。そんな尊
いものがオイソレと終焉してたまるものかい。

10月6日(水)
あんまりいろんなことが重なると、かえって日記が書けなくなる。まず昨日は雨の中、靖国神社へ行っ
た。わが祖父、藤谷久松の法事、じゃないや、あれなんていうんだっけ、とにかく十月五日が祖父の命
日なのである。このところ毎年行っている。雨のせいもあって靖国神社は人が少なく、穏やかだった。
両親そろって顔を合わせるのも久しぶりだった。
そして今日は、新聞販売員がタダでくれたチケットを手に、妻と上野近代美術館で「マティス展」へ。
マティスの作品に特別な思い入れもない僕だが、やはり展覧会でまとまった絵を見るというのは特別な
体験で、出てきたときには感銘を受けていた。この展覧会はマティスが絵を作り上げるプロセスに焦点
を当てていて、それが興味深かったこともある。マティスは自分の絵ができるまでを写真に撮らせてい
たそうだ。出来上がってみると途中経過からは予想もつかない作品になっていたりする。ああ、天才じ
ゃなかったんだな、と思う。そこが感動的だった。
ついでに、という感じで常設展示も見たのだが、こっちは何年か前に見たことがあったはずだ。ところ
がまあ、ついでにどころの話ではなかったんですよ。中世の宗教画から現代に至るまで、西洋絵画史早
分かりといった感じで、次から次へと圧倒的な作品が並んでいる。とりわけ十四世紀の宗教絵画は素晴
らしかった。ああいう古い、無記名の傑作を見ると、ルネッサンス以降の署名のある絵は、なんだかミ
ステリーに欠けるというか、妙にいやらしく感じる。名前なんかなくたっていいじゃないかと思ってし
まう。
この日はそのうえ、ちょいと休憩したあとで鈴本演芸場に行ってしまった。しかも前座からトリまでま
るまる四時間見てしまった。妻は生まれて初めて寄席というところに行くんで大喜びだった。
トリは柳家小三治で「天災」をやった。貫禄がついたんでびっくり。もっともこの人は昔から、噺家に
なるために生まれてきたような人だった。いまや明らかに師匠を超えていると思う。人情話もできる人
だから、これからはもっと通おう。
最近の寄席は、みんなこんな感じなんだろうか、色物がほとんどなく、その色物もツナギといった感じ
で、あっというまに終わってしまう。漫談だとか紙切りだとかが、もっとあってほしかった。落語ばか
りじゃ飽きが来る。
けれども固めて今の噺家を見られたのは良かった。特に今回ひろいものだったのは、三遊亭歌武蔵(う
たむさし)という人。がたいがでかい。調べてみると以前は武蔵川部屋にいたそうだ。それで歌武蔵か。
でかい人が勢いよく滑稽話をするのは楽しい。話の運びがスピーディで、うまい。やった話は、ほらあ
の、演題わすれちゃった、辻斬りに切られて身体が半分になって、上半分が湯屋の番台になって、下半
分がこんにゃく屋で働くっていう、あれ。あれを演ったんだけど、もうあとちょっとでサゲというとこ
ろで話を切って、真顔で「こういうことは、実際にはないんです」と話し始めるところなんか、客をつ
かんでいる感じで、とっても良かった。また見に行きたい。
また見に行きたいけれど、さすがに疲れた。おやすみなさい。

10月2日(土)
今朝の読売新聞にフィリップ・マーロウ探偵が出てきたのには驚いた。マーロウ探偵がジョー・ディ
マジオの連続試合安打記録が伸びるかどうかを気にしているシーンがある、というのである。そんな
シーンがないことに僕は確信を持っていたので、読み進んでそれが映画化された「さらば愛しき女よ」
(1975年)のマーロウのことだと判ってほっとした。
ディマジオがそれまでの41試合連続安打の記録を塗り替えたのは1941年のことであり、マーロ
ウ探偵が活躍していた時期と場所(ロサンゼルス)に合致する。記事では、あの当時と同じような興
奮を、今はイチローに感じている人が日米に大勢いる、と続いていて、それ以上のことは書いていな
い。記者は知らなかったのだろう、ディマジオが破った記録は、ジョージ・シスラーのものであり、
ディマジオが記録を破ったとき、シスラーはその場にいたということ、そしてイチローが今日破った
記録もまた、シスラーが84年間保持していたものだったということを。
シアトル・マリナーズのイチロー選手がメジャーリーグ・ベースボールの年間最多安打記録を84年
ぶりに塗り替え、259安打を達成した。それは素晴らしいことである。ホームランや完全試合など、
派手なパフォーマンスや記録に目が行きがちな野球ジャーナリズムの意識を変え、ファンに内野安打
の面白さを改めて認識させたというだけでも、イチローの功績は大きい。しかしそれにつけても、こ
の記録達成のために、1920年に257安打の記録を持っていたジョージ・シスラーという選手が
クローズアップされたことのほうが、僕としては興味深いのである。インターネットで調べてみると、
このシスラー選手という人はすごい人だ。
一年間に257本もヒットを放つというだけでも素晴らしさは明らかだが、この人は4割バッターに
二回もなっているというではないか。タイ・カップから「もっとも完璧に近いベースボール・プレイ
ヤー」と絶賛され、しかし人気に関しては運がなかった。257安打を達成した1920年は、ベー
ブ・ルースが54ホーマーを打った年として記憶されている。イチローが記録を塗り替えるまであと
二十数本というあたりでも、興奮しているのは日本のメディアだけで、アメリカでは「そんな記録を
塗り替えたって」という空気があったらしい。それくらいシスラーという人は等閑視されていたので
ある。所属球団がブラウンズという、地味なチームだったせいもあったようだ。
シスラーという人の偉大は、しかも現役時代にとどまらない。引退してからは印刷会社を経営してい
たそうだが、同時にブルックリン・ドジャースのスカウトマンもやっていた。そのときにスカウトし
たのが、かのメジャーリーグ黒人選手第一号、ジャッキー・ロビンソンである。
不当な差別を受けていた黒人野球選手に対して、シスラーは積極的に働きかけた。単にプレイヤーと
して優れているだけではなく、迫害や嫌がらせに耐えうる強靭な精神を持った選手が必要だったのだ。
シスラーは当時のニグロ・リーグに頻繁に足を運び、ロビンソンの家族と食事を共にして、彼をメジ
ャーリーグに推薦したのである。その後のジャッキー・ロビンソンの苦難と栄光は皆さんご存知の通
り。その背後で助力を惜しまなかったのがジョージ・シスラーだったのである。
シスラーは1973年に80歳で亡くなった。時事通信によると、生前彼は、「私がプレーしていた
ころは、移動がもっと簡単だったし、デイゲームばかりだった。メディアからの注目度による重圧も
全然違う。私の記録を破る選手は、もっと厳しい状況を乗り越えている。だから祝福したいんだ」と
話していたという。
以上のことは、今日のインターネット報道を見れば大体書いてある。自分自身への記録として特に記
しておいた。


過去の日記
(2004年7月〜9月)
(2004年4月〜6月)
(2003年10月〜2004年3月)
(2003年8月〜9月)

Copyright (C) 2004 ficciones. All rights reserved.