3月24日(木)
久しぶりに石川和男さんと呑む。2月のあたまに「逆境ナイン」の試写会を見て、そのあと一回
ちらっと会って以来だ。
石川さんは僕にノベライズを頼んだことを気にかけていた。ノベライズという仕事はなんとなく出版
の中でもランクが低い印象がある。しかも今回は、けっこう急いで仕上げなければならなかった。
藤谷は文句をあんまりいわないけれど、腹の中は煮えくり返っているんじゃないかと、石川さんは
気にかけてくれたのだ。
もし、原作や映画が僕の好みや書きたいことにまるで無縁なものであったら、僕は頭に来ていた
だろう。また、仕上がったものが僕らしいものでなかったり、人のいうことを聞いて意に沿わないも
のを書かなければならなかったら、それを根に持ったかもしれない。
今回はそのいずれでもなかった。文章での独特な面白さを出して存在価値を持たせたという自
負もある。だから本当に文句はないです。
それに、あてがわれたものを書けといわれて、いいなりに機械的な作業をしたり、また機械的に
しか書けなかったり、書くには書いたが実は不満なんだ、なんて思ったりするのは、そんなものを
書く人間の才能不足を証こそすれ、褒められた態度とはいえない。
もちろん、どんなものを書いても、十全に満足なものなどありえないだろう。だけど一冊一冊の
本につき、やるべきこととやりたいことを、思うさまやりきるのでなければ、その不満足は立ち現
れないものだと思う。本になったものを読み返してみると、つくづく自分に能力がないなあ、ヘタ
クソだなあと感じる。だけど誰か小意地の悪い奴が、僕に向かって本を振りながら、「これがあ
なたの総てというわけですか」とでも尋ねてきたら、僕は答えるだろう。「そうです」と。答えた途端
に僕は恥ずかしくなるに違いない。でもその恥ずかしさが、次はもうちょっとうまくやろうという、気
概というか僻みというか、そんなものになって、それがためにいい加減な気持ちでものを書かなく
なる。ノベライズだってなんだって例外じゃない。
それでまた、「これがあなたの総てというわけですか」といってくる小意地の悪い奴は、いつも自分
自身の中にいるんだ。そいつはいっつも腹の中からちくちく、ちくちく僕を刺してくる。初稿をあげた
とき、読み返すとき、書き直すとき、ゲラに赤を入れるとき。そのたんびに僕はそいつにサルグツワ
をかませるべく、原稿を睨みつける。それでも本になるとため息が出ちゃうんだから、ゲーテや馬琴
になるのは諦めたほうがいいだろう。実は諦めていないんだけどね。
橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』(筑摩書房)読了。面白かった。とても勉強になった。ま
たこれは、愛情なしでは書かれえない作品だと思う。でも何かがひっかかる。書いている内容と、
書いている姿勢とが、どっかチグハグだ。頭のいい人が頭の悪い人を礼賛しているような印象が
あった。実際にはそうじゃないにもかかわらず。
3月21日(月)
今日は盛りだくさんの一日。まずメインはテレビ出演だったので、お店は臨時休業。けれどもそ
の前にちょっとメールをチェックしてみると、よしもとばななさんから届いている。『恋するたなだ君』
のゲラを読んでいただいたのだ。もうなんというか、こんなに好意的に読んでもらって、どうやった
ら恩返しができるだろうと思うくらい。ちょっと涙も出てきそうだった。
先日『うみのふた』(ロッキング・オン)を読んだときにもつくづく思ったのだが、よしもとばななという
作家については、改めて全作品を精読して、まとまったものを書いてみたい。ただし「論」じゃな
く、「よしもとばなな頌」とでもいうべきものを。
メールの返事を書いてて出発が遅れ、NHK到着は約束の時間を数分過ぎてしまった。昨年
やった「平成平積みプロジェクト」が、「平成平積み大作戦」と名前を変えてレギュラー番組に
なった。僕はこれに、だいたい毎週出る予定になっている。ただしあくまでも本屋さんとして。ス
タジオで何にもしないで座っているだけだから楽なものだ。
番組自体は面白い。少なくとも収録は面白い。「新刊だけじゃなくて、古典的な名作を本屋
さんに平積みしてもらおう」という趣旨で、毎回ひとつのテーマにつき、プレゼンテーターが二人、
それぞれに名作を紹介する。でそれを聞いている、普段あんまり本など読まない人たちが50人、
ボタンを持って座っていて、紹介された名作を、読みたくなったらボタンを押すわけだ。僕たち本
屋さんは最後にどっちの作品を平積みにするかを決定するだけ。
それでね、こういう話だと、本屋はまったく当然のことながら、どっちの本も置きましょう、いや置
かせてくださいという結論に達するわけですよ。普通の本屋さんはみんな、委託だから。でも僕
の店は買い切り。そこで厳選に厳選を重ねてどっちかひとつしか置かない。そうするとプレゼンテ
ーターのどっちかは、僕に限って徒労に終わるわけで、それがなんとなく、オチというかヒールという
か、そういう役回りが僕にあてがわれているのです。面白がってくれれば、僕としては満足。
今日の収録で久しぶりに会った丸善本店の上村さんと話していたら、彼女が月に一度は歌舞
伎を見に行くというので感激。今後ご教示をたまわることに勝手に決める。染五郎のファンなん
だって。僕なんか染五郎っていったら、いまだに幸四郎を思い浮かべちゃう。
そして帰宅して、河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』読了。僕の読んだ新潮日本古典集成版
は、注釈が多すぎてうるさく、今尾哲也氏の解説の文章もところどころキザな印象があったけれ
ど、これはもう一度ノートを取りながら、徹底的に読み込んでいきたい一冊だった。もしかしたら
僕は歌舞伎というより、黙阿弥に感動しているのかもしれない。とにかくこれは濃密にして完璧
な作品で、黙阿弥自身がひそかに自信作と考えていたのも、坪内逍遥が彼をして、当今のシ
ェイクスピアと賛美したのもうなずける。
性格描写など無に等しく、ご都合主義も同然のストーリー展開、むろんのことリアリティなどまっ
たくのゼロであり、そもそも「親の因果が子に報い」という世界観が、どうあってもこうあっても承服
しかねるのである。にもかかわらずここには、まぎれもない生きた人間があり、人の涙、汚らしい
根性、果たされない改悛、抑制できない情欲、そして金の迷いがある。ここには人の心に訴え
かけないものは、ひとつもないといっていい。
どうしてそんなことが可能なのか。それは河竹黙阿弥が確信を持っていたからだと思う。人間世
界はかくのごとし。因果とは運命であり、運命は情け容赦なく、罪なき者を滅ぼし、罪ある者を
英雄にする。天保の改革、安政の大地震、そして明治維新と、黙阿弥の生きた時代は有為
転変を繰り返した。彼は運命の残酷を見たのだ。残酷と、そして滑稽を。
そういう世界観からの発展であろうが、僕にとって黙阿弥の最大の魅力は、そこに特定の悪因
がないことである。今尾哲也氏も解説に書いている。
「『悪に強きは善にも強し』という諺を、黙阿弥は、せりふの中に用いることがあった。(中略)絶
対的な悪、絶対的な善の存在を、黙阿弥は信じない。因果の理の働きを見抜いた彼の醒め
た眼は、また、善悪とは常に相対的、互換的な価値であり、人間とは、悪という負性を内包し
た善人でもあれば、善という正性を内包した悪人でもあることを認めた。」
村上春樹氏の大きな作品、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』に、傑作であることを認
めつつも、根本的な疑問を感じてしまうのは、これらの作品がまるで、悪を退治すれば世界は
(少しは)善になる、と信じているかのようなところがあるからだ。黙阿弥にはそういう甘さがない。
(「平成平積み大作戦」は、4月2日の午後11時過ぎから、NHKのBS2でやるから、見た
い人は勝手に見てください)
3月16日(水)
祥伝社の渡辺さんと『いなかのせんきょ』の打ち合わせをしたあと、歌舞伎座に行った。もう矢
も盾もたまらなくなってしまったのだ。昨日来インターネットでいろいろ歌舞伎のことを見ていると、
どうやら歌舞伎座には一幕見席というのがあって、それは演目をひとつしかみることができないが、
そのかわり一幕につき1000円前後、しかも当日売りしかないという。ということはそのくらいのお
値段で、並べば歌舞伎が見られるということだ。折しも歌舞伎座では中村勘三郎襲名披露の
真っ最中にて、演目も出演者も豪華絢爛たるものである。三月の夜の部では勘三郎が玉三郎
と共演して、若き三島由紀夫の書いた『鰯売恋曳網』(いわしうりこいのひきあみ)をやるという。
そして今日、妻はスピッツのコンサートに出かける。四月に入れば『いなかのせんきょ』に埋没しな
ければならん。もうどうしようもないではないか。妻と一緒に電車に乗って、彼女は渋谷へ、僕は
東銀座へ。生まれて初めて歌舞伎を見に、歌舞伎座へいくのである。
六時半くらいに着いた。みると一幕見席の券を買う行列は、もう二、三十人並んでいる。「中
村座」と書かれたハッピのお兄さんに、これは鰯売の見物ですかとたずねると、いやその前の「保
名」だという。保名は仁左衛門の踊りで、三十分ほどのものだ。それだけ見るとは思えない。きっ
とこいつらは次の鰯売も続けて見るつもりだろう、ならばと僕もその列に並んで保名から見ること
にした。並んでいる人の四分の一くらいが外国人だったのが印象的。フランス語でくっちゃべって
る女の子たちがいた。
あのでっかい入り口の脇のところに切符売り場があって、そこで映画の半券みたいなのを買う。
保名と鰯売を合わせて2000円。でそこから急な階段を、四階までえんえん上がっていくので
ある。従業員通用口という感じで味気ないことおびただしい。ほかの階をただ見物してみたいと
思っても無理である。芝居以外は何にも見せてくれない。でもまあ文句はいえないよね。2000
円で勘三郎と玉三郎を生で見られるんだから。
息を切らせて四階に登頂すると、そこにモギリが待っている。慌てていい席を取ろうとするが、一
人で行ったのが幸いして、真ん中あたりのでっかい外国人の隣に座れた。見えるのはずっと向こう
の幕だけである。三階席の見物と、二階の両脇の席は見えるけれど、ほかはまるっきりだ。でも
幕が開けば舞台は見える。わくわくしながら座っていた。
でも歌舞伎においては、舞台が見えるだけじゃ駄目なんだ。そのことに気がついたのは幕が上
がってからだった。清元が始まって、舞台には誰もいない。誰もいないのに下からは拍手や掛け
声が聞こえる。あッしまったここからじゃ、花道が見えないじゃないか。隣の外国人と一緒に思わ
ず座席を立ち上がる。それでも全部は見えない。舞台から出ている一間ほどだろうか。
それから誰か出てきた。羽織袴の見知らぬおじさんだ。手に黒い棒を持っていて、その先に蝶々
がついている。おじさんが黒い棒をしならせると、蝶々がひらひらする仕組みだ。このおじさんを僕
たちは、たっぷり二分は見せられただろう。それから仁左衛門が踊りながら視界に入ってきた。遠
い。遠いけれども美しい。もうお人形さんのように美しかった。生きた人間とは思えないくらいだった。
それからまたずーっとたって、蝶々が仁左衛門の後ろにもう一頭いることが判明。ちなみに蝶々は
一頭、二頭と数えます。
踊りは判らない。洋の東西を問わず僕は踊りが苦手なのだ。けれども片岡仁左衛門(どうも
僕なんか、いまだに片岡孝夫っていいたくなるんだけど)の現実離れした美しさと、動きの優美さ
だけはさすがに心に響いた。遠くから見ても俳優の色気はちゃんと伝わる。4階なんて関係ない。
休憩を挟んでいよいよ勘三郎だ。三島由紀夫はおばあちゃん子で、学校に上がる前から歌舞
伎座に連れて行かれていた。僕は三島を小説家としてよりも戯曲作家として優れていると思うけ
れど、なかんづく歌舞伎はお手の物だったに違いない。と思ってみていると、お手の物どころの話じゃ
ない、こりゃまったく手練れの作である。
最初の場面は京都五条橋。馬喰と豪商の老人が、老人の息子について話をしていると、そこ
に息子が天秤棒をかついでやってくる(花道から……)。この息子、恋の病で鰯を売るにも声に張
りがない。だんだん聞いてみると恋の相手は遊廓の一番、蛍火である。高級遊廓でも最高位の
おいらんとて、鰯売りふぜいを相手にするわけもない。それではと老人は一計をくわだて、息子を
馬喰のやせ馬に乗せ着飾らせて東国の大名にしたてる。いかにも猿若狂言にありそうな設定で、
勘三郎の鰯売りは惚れ惚れするような三枚目だった。
演出も気が利いている。芸妓の一人が、殿様ならばいくさ話のひとつも語ってくだしゃんせと促
すが、もとより鰯売りに武勇伝などあろうはずもなく、おろおろしていると、義太夫語りが現れて、
三味線が鳴り始める。すると勘三郎、舞台の袖の義太夫語りに向かってジェスチャーで(駄目、
やっちゃ駄目)と手を振ってみせる。それだけでもおかしいのに、義太夫のほうがそれをみて、アッカ
ンベーと舌を出し、それからしれっと語りだすのは、実に愉快で舞台らしかった。
それから先も三島の歌舞伎センスに、嬉しくなってしまう展開だ。玉三郎演じる蛍火は、実はお
城から抜け出してきたお姫様だったのである。しかもその理由が、お城から聞いた鰯売りの売り声
に惚れ込み、声の主を探してのことだったのである。歌舞伎でしかありえないお話、だからこそ歌舞
伎で生きる。
しまいに殿様実は鰯売りと、蛍火実はお姫様とは、廓の借金も返し、お城からの使いも袖にし
て、手に手をとって花道を歩いていく。そこで幕が下りるから、見物はみんな拍手をして立ち上がる。
ところが玉三郎と勘三郎は、花道の、それも四階からも見えるあたりで動かない。どうしたことだろ
う。
「モシ、あれにある十八代目中村勘三郎とは、ヌシのことではありませぬかえ」と、玉三郎が指をさ
す。指の先には引き幕があって、幕には大きく「十八代目中村勘三郎丈江」と書いてある(贈った
のは三越)。
「ハァいかにもこのたび、十八代目を襲名いたしましてござりまする」と勘三郎。
「まことにおめでたいことでございます。皆様」と玉三郎は客席に向かい、「今後とも十八代目を、よ
ろしくお願い申し上げます」
三月公演午後の部には口上がない。その代わりのサービスということだろう。本当に来てよかったと、
心の底から思った瞬間だった。
今回は歌舞伎のカの字も知らないでいったことだし、いまさらいい席を取ろうとしても無理であった
から、天井桟敷もやむをえなかった。でも次からは、ちょっとはいい席を取らないといけない。妻も連
れて行こう。
3月12日(土)
猫を二匹飼っている。オスが「ゆんた」でメスが「ちゅら」。最近ゆんたがひっきりなしにオシッコに行っ
ては大して出さずにイライラしていたので病院に連れて行ったら、膀胱炎ですと。以来毎週のよう
に病院に行って今日も行った。飼い始めの頃はちゅらのほうが弱々しかったのに。
猫を病院に連れて行くのは実にしんどい。妻はインフルエンザからこっち調子が思わしくないので、
もっとしんどいだろうと思う。籠に入るのを嫌がるゆんたを部屋じゅう追い回して押し込め、しんねり
むっつりした顔で電車に乗り、お医者さんの診察を受ける。このお医者さんがなかなかいい手際な
のが救いだ。ただし高い。動物に保険はきかないから。
名医ではあるけれど、それでも「来週もう一回診察してみましょう」といわれるとゲンナリしてしまう。
まーたこいつに心細い思いをさせなければならないのか。心細いだけならいいが、それが寿命のさし
さわりになるのではないかと思ってしまうのだ。まだ三歳なのに。
郡司正勝『かぶき』(ちくま学芸文庫)を読み始める。聞きしに勝る名著。
3月10日(木)
今日一日だけは、僕は自分を褒めたい。
小学館の石川さんから「ちょっとご相談なんですけど」といわれて映画の試写会に行ったのが2月
の7日、その日に映画のノベライズを頼まれたのが、本日完成した。原稿用紙換算で280枚。
ひと月で一冊書き上げたことになる。まったく俺くらい偉い人間は世界中探してもそういないんじ
ゃないだろうか。
映画のタイトルは『逆境ナイン』、原作は島本和彦氏のコミックで、初出は1988年だそうだ。こ
れは知る人ぞ知る野球スポコン漫画の傑作で、僕も読んだが驚くべき作品だった。映画も観たし
台本もあるので、僕のやることが大してなかったともいえる。
でも僕はコミックの台詞も台本の台詞も使わなかった。よっぽどのキメ台詞でない限り。またこのひ
と月は家に病人病猫が出て店もなかなか開けられないような日が続いたりして、プライベートでも
神経を使った。その中で本一冊分脱稿。本当に俺は偉い。しかも手を抜いた作品じゃないんだ
からね。
手を抜かずにできた理由のひとつは、最近歌舞伎の台本を読んでいる成果もあると思う。中村
勘九郎が勘三郎になったでしょ。あれの話をテレビで観て以来、歌舞伎に興味を持つようになっ
た。いや前から興味はあったんだが、本腰をいれようという気になったんだ。家にあった河竹黙阿
弥の「天衣紛上野初花(こう書いて「くもにまごう、うえののはつはな」と読む)」を読んだ。別名「河
内山と直侍」。河内山宗俊の出てくる芝居だ。実に痛快な喜劇で、男気溢れるばくち打ちに、
可憐で一途なおいらん、破戒坊主に道場主、悪い殿様、気の弱い質屋、孝行息子にドチン
ピラが、恋あり笑いあり、歌あり立ち回りあり、涙ありサスペンスありで、通しで観たら七幕もある
から、へとへとになってしまうだろうが、こんな面白い話はない。
そしてそれを面白くしているのは、明らかに台詞の妙である。登場人物はこれが書かれた時点で
すでに紋切り型であり、話の展開も日本の物語作成原理である「因果」をしっかり踏襲している。
だから先が読めるところもある。それでも面白いのは、黙阿弥の七五調が耳に心地よいばかりで
なく、七五調の紋切り型によって劇をひとつの「世界」にしているからだ。これが普通の散文だった
ら、まあ百五十年の今には残らなかったろう。
デタラメな世界を支えるものは言葉のリズム。これは今度の仕事の理想だった。よく読んでくれれ
ば(ノベライズを丹念に読む人もいないだろうが)影響が見え隠れしているはずだ。
本は六月に出る予定。この日記を読んだ人は、映画も観てコミックも読んで、そして僕の書いた
ノベライズも必ず買いなさい。よろしくお願いします、買いなさい。
3月4日(金)
CNNのホームページで見たんだけど、あと20年くらいで、人類は不老不死になるんだってね。
インチキな話じゃない。その日が来るまで死なないように努力しているマサチューセッツのレイ・
カーツワイル博士(56)は、目の見えない人のために文字・音声変換装置を発明した、真面
目な学者だそうだ。
カーツワイル博士は、人類が近い将来、死という生物学的限界を克服すると予言している。
ただし、不老不死の人間にとって「生きる意味」はどうなるか、と質問されて、それは科学者の
考えるべきことじゃない、哲学者か神学者の課題だと答えている。
そこで僕は今だけ哲学者になることにするけれど、不老不死となると、人生はなかなか厄介で
はないかと愚考する。今の人間は、生きてもだいたい百年かそこらだけど、不老不死となるとこ
れが三十億年たっても百億年たっても死なないということで、今だって家賃を払うのが大変なの
に、これからそんなに長いこと払い続けなければならないとなると、ウンザリしてしまう人も少なく
ないのではないか。逆に家を買うとなると、今度は銀行がひと苦労だ。三千万円の家を三千万
年ローンで返済することにしても、文句は言いにくくなるんじゃない?
そんなことを考えるのはミミッチイ、という意見もあろう。確かにそうだ。もっと考えなきゃいけない大
問題がある。たとえば食料。まさか「なんにも食べなくても不老不死」ということじゃないだろ?
そうだったら素晴らしいけれど、でもマクドナルドの株は売ったほうが賢明だ。人口増加を考える
と、子供を生むのは禁止したほうがいいだろう。「不老」不死だから、ジジババばっかりになるとい
うことでもあるまい。そのとき5歳くらいの子供は気の毒だが、未来永劫5歳でいてもらうということ
でひとつ。
だけど考えてみたら、食料とか人口増加なんてことだって、まだまだミミッチイ問題だ。そんなこと
は何とかなる。問題は地球とか銀河系だ。どうも聞いた話だと、銀河系はあと五百億年くらいす
るとすっかり消えてなくなって、ガス状のもやもやになってしまうらしいんだけど、地面のない宇宙
で生き続けるにはどうしたらいい? ハンモックで寝られるようにならないといけない。
ライフスタイルも変わるだろう。結婚はとくに問題だ。どんなに亭主や奥さんを愛している人でも、
五万年くらいが限度ではないだろうか。二十五歳で結婚した人が、五万二十五歳で新しい結
婚相手を見つけるのは、ちょっと大変な気がする。もっとも現在の基準で男女の年齢差を考え
るのは馬鹿げているだろう。五万二十五歳と、五万七十五歳のあいだに、どれほどの違いがあ
るというのだ。
なんだかこんなこと書いていたら、急に真面目な気持ちになってしまった。きつい話だが、やっぱり
人間は、死ぬからこそ生きているので、死なないとなれば生きているともいえなくなるのではない
か。死にたいわけじゃもちろんないが、何のけじめもなくいつまでも生き続けるのも、考えものである。
2月25日(金)
こっちも風邪を引いてしまって、猫も調子が悪いし、外は雪。仕事はなかなか捗らない。こういう
ときは、とにかく前に進むことだ。元気のいい時と比べると、歩みはのろい。自分ののろさにイライ
ラする。でも進まないよりはマシだ。
ところでこのところライブドアとフジテレビがニッポン放送をめぐって楽しそうにバトルを繰り広げてい
る。僕は投資もしないしビジネスも知らないから、これほどカンケーない話はないんだが、つい昨
日、僕はどうしてあの堀江というライブドアの社長が好きになれないか、その理由が判った感じが
した。ライブドアのホームページを見たのである。
それは呆れかえるようなホームページだった。ヤフーとデザインが酷似している。で使い勝手は悪
い。検索もしょぼい。行っても何にもできないホームページだった。まさかそんなはずはないので、
僕の利用方法もまずいのかもしれないが。
でもそれを見て僕はつくづく感じた。あーこの会社は別にインターネットで何か新しいことをやりた
いとは、本当には思ってないな、と。
本当にネットというものの未来を信じて、そしてその未来を開拓していくという自負と野心がある
のなら、それはおのずと伝わってくる。かつてgoogleがそうだったように、オリジナリティと意欲の溢れ
るページというのは、僕みたいな「情報なんぞいらん」と思っている旧式の人間にも魅力的なもの
なのだ。ライブドアのページにはそういう魅力はまるで感じられなかった。
聞いた話だが、ライブドアでは世論調査をネットで始めたところ、すっかり荒らされてしまってアンケ
ートそのものを抹消してしまったそうである。個人のホームページじゃあるまいし、嫌がらせを阻止
する工夫もできなかったのか。ネットビジネスは開発に金がかかる。ならまずそっちをきちんとやった
らいいだろう。他業種の株を買うのに何百億という金を使うなら、その前にアマゾンやgoogleくらい
のページを作るのが先決じゃないだろうか。
もうひとつある。堀江社長を応援する人の中には、彼が既存の日本経済界に新風を巻き起こ
し、若い起業家の希望の星みたいになっていると見ている人もあるようだが、僕の考えはまるで
逆だ。あの人は経団連的財界人と起業家のあいだに溝を作っている。また起業家の見本にも
なっていない。
企業の合併とか吸収とかいったことは、資本主義社会においては、おのずと行われるし、行われ
るべきだろう。乗っ取りもやるべきだし、買収もやるべきだ。そうやって経済は活性化するんであ
る。
けれども人が営々として築き上げた業績を自分のナワバリにするということは、これは資本主義
とは違うんである。堀江社長はフジサンケイグループ支配のあかつきには、放送とインターネット
を融合させ、ラジオにチャットをからませ、産経新聞はエンターテイメントと経済を中心にした新聞
にするといっている。マンションを建てて家賃を取るのはいいし、人の作ったマンションを買って住民
の家賃を自分のものにするのもいい。けれどもマンションの中に入っていって、家具はこれにしろ、
亭主は今日からこいつにしろと指図するには、土地家屋の所有権だけでは足りないのだ。それ
には細心の気配りと、人心掌握術と、腰の低さと老獪さが必要になる。堀江社長はそのいずれ
も持っていない。持っていても、あれだけ相手を小馬鹿にした発言をしたあとでは、もう手遅れ
だ。僕がフジテレビの会長だったら、問答無用でぶん殴っている。これは資本主義とも、既得権
益とも、放送の公共性とも関係ない。
「詰め将棋はもう詰んでいるのに、相手は穴熊で囲っている」と彼はいう。将棋で負けたら誰だ
って降参するしかない、と思うのは間違いだ。負けたほうにはまだ、将棋盤を叩き割り、勝った
奴を駒台で張り倒し、寝床に小便をぶちまけるという手が残っている。そうされないにはどうした
らいいかを、勝ったほうは考えておかなければいけない。それが人間というものである。
(なんかこういうこと書いていたら、元気でてきた)
2月20日(日)
妻やや快方に向かうも依然として調子悪し。ただ最悪の状態は脱したと判断して今日は店に
出た。
今年のインフルエンザはとりわけ悪質なのだろうか。とにかくひどい苦しみようだった。そのかん仕事
はほとんどしなかった。しかしそれでも何ができるというわけではない。病人にとっては痒いところに
手の届かない男だろう。申し訳ないと思っている。
それでも今日から仕事を再開することにした。どっかで何とか楽になりたいと思うのは、さあ、いい
ことなのかどうか。
2月16日(水)
妻が風邪を引いた。38度出して寝込んでいる。何をしてあげることもできなくて、おろおろする。
おろおろするのがまた良くない。どっしり構えていればいいんだと、頭では思うんだけど、こっちまで
食が細くなったりする。
仕事も今日は、あんまりはかどらなかった。けれども今の仕事は、ちょっと面白いと思っている。
このあいだの日記で「急ぎの仕事」と書いたやつだけど、僕は今「ノベライゼーション」をやっている
のである。
映画のノベライゼーションなんて、という気持ちは、正直いってあった。ストーリーは決まって いる、
登場人物の名前も性格も決まっている。今回の場合、コミックの原作まであるので、ノベライゼー
ションなど屋上屋をかさねることでしかないんじゃないかとも思った。
でも違った。というか、違うようなノベライゼーションをやることにした。体裁もやや変化球の小説
にした。それに加えて、僕はこのノベライズで、原作の台詞も、映画の台本の台詞も、できるだけ
使わないで、自分で作り変えようと思っている。筋も登場人物も同じだが、言葉だけは極力オリ
ジナルにしようとしているわけだ。
そうしてみると、なんだか不思議な気持ちになってくる。大塚英志氏など盛んにやっているが、
あの「物語論」というやつ、つまり、物語の筋なんてものは煎じ詰めれば何十通りしかなくて、書
き手にできるのは順列組み合わせ、並べ替えだけだという理論を、実践している感じなのである。
僕は自分の頭でだけ考えて小説を書いていたら、今書いているような物語は決して思いつき
もしなかったろうし、書かなかっただろう。そういう自分になかった物語を、あたかも自分の物語で
あるかのように書いていると、それがオリジナルな小説を書くときと、一体どこがどう違うのか、はっ
きりしなくなってくる。もちろんそれは違う。違うということは明らかなんだけど、どこがどう違うか、う
まくいえない。
極端な話かもしれないが、オリジナルで何かを作っているとき、それは実は、ノベライズなのでは
ないだろうか、とさえ思うのだ。たとえば僕は『おがたQ、という女』を書いた。ということは書く前に、
何かが頭の中にあったわけだ。それを現実のものにしたのがあの小説なんだけど、それは書く前に
思い描かれていた「おがたQ」と、まったく同一だったはずがない。おそらくはもっといいものになると
夢見て書き始められたに違いない。あるいは逆に、思い描いていた以上に良くできたところもある
かもしれない。でもそうはならなかった。
思い描いていた通りのものが実現されるわけではないということ、そして思い描いていたものも、
順列組み合わせの並べ替えにすぎない、となると、オリジナルというのは、つまり「思い描いていた
もののノベライズ」なのじゃないだろうか。
ものすごくおこがましい話だけれど、僕は多くの高名な作家の人たちに、いっぺんノベライズとい
うものをやって貰いたい。次にオリジナルなものを書くとき、それはきっといい経験になるはずだから。
……まあ、それはそれとして、今日は早く帰ろう。妻が一人で苦しんでいるんだから。
2月11日(金)
急ぎの仕事が入った。急がなければ間に合わない仕事だ。『いなかのせんきょ』はちょっと後回し
にせざるを得ない。ところが月曜日には取材が入っている。勉強もしなければならぬ。そして明日
は「文学の教室」だ。
僕は小説家として世間にじゅうぶん認知されているとはいえないから、気持ちが焦るのである。早
く楽になりたいと思う。けれども認知されれば楽になれるんだろうか。
先日僕はローランド・ケルツと会った。彼はニューヨークで印象的なドキュメンタリー映画を観たとい
って、その話をしてくれた。「IN THE REALMS OF THE UNREAL」(直訳すると「非現実の領域」)
というその映画の扱っている人物を、僕は以前にどこかで、たしか四方田犬彦氏の書いた記事だと
思うが、読んで覚えていた。ヘンリー・ダージャーという人物だ。
ヘンリー・ダージャーは知的障害者として、確かスーパーマーケットかどこかで働いていた。生涯妻帯
せず、妻も友人もなく、シカゴの小さな部屋をあてがわれて住んでいた。そして1973年に81歳で死
んだ。誰も彼のことをよく知らなかったし、知るつもりもあんまりなかった。生前撮影された写真は三枚、
それも他の人の近くにぼんやり座っていたり、スープを飲むためにかがんでいたりするものだけ。
死後アパートを片付けに来た人たちは、結局彼のアパートに入ってきた最初の訪問者だったわけだ
が、彼らはそこに、何百という絵画と、15000頁に及ぶ小説を発見したのである。そればかりか彼は、
数百頁の自叙伝と、ほぼ同量の日記も残していた。部屋の中は文字のぎっしり詰まった紙の束で埋
め尽くされていた。
小説は幻想小説で、外宇宙に住む七人の「ヴィヴィアン・ガールズ」についてのものだという。
映画を見ていないので、僕の知っているのはそれだけだ。この映画はどうあってもこうあっても見たい。
インターネットで予告編は見た。ダージャーの部屋が映されていた。そのありさまを見て、僕はなんだか
涙が出そうになった。作品の出来栄えなどはどうでもよい。また、彼が知的障害者であることと、そのよ
うな驚くべき量の作品を書き続けたこととの関連も、どうでもよい。僕には「そういう人がいた」ということが
衝撃なのだ。何か僕の魂をぶるぶる震えさせるのである。
ダージャーは、40年に亙って仕事と睡眠以外の時間をすべて執筆と絵画制作に捧げた。ほかのこと、
たとえば恋愛とか、売り込みとか、金儲けとか、奇行とか、そんなことは一切しなかった。書いたものを人
に見せようとすらしなかった。生前、彼が部屋で何をしているかを、知っていた人は一人もいなかったので
ある。ただ書いた。彼はおそらく、死後の名声なんていうものにも期待をかけたりしなかっただろう。
それは彼がイディオットであったからだ、と人はいうかもしれない。でも僕は、精神医学的にはそうかもし
れないけれど、やはりそこには違うものがあると思えてならない。知的障害者が抜群の芸術的能力を持
っていて、いっぺん見た光景を鉛筆一本で完璧に再現したり、作曲をしたりすることがある。しかし彼らは
「知られている」。当人が見せびらかしているわけではないだろうが、彼らがやっていることが人々を喜ばせ
たり、驚かせたりしていることは、彼らに何らかの影響を及ぼしているだろう。ダージャーの創作活動には、
そういうことはまったくなかった。何度でもいうけれど、ヘンリー・ダージャーは、まったく、まるっきり、何ひとつ
しなかったのだ。書くということ以外には。
僕は自分がやっていることが、恥ずかしいとはむろん思わない。しかし僕の魂のどこかに、いつまでもヘン
リー・ダージャーがちょっぴりでも残ってくれることを願っている。
1月29日(土)
NHK対朝日新聞、面白いですね。妻は「どうでもいい」といっていますけど。
これまでの流れを整理してみましょう。NHKはこれまでもちょいちょい不祥事が明るみに出たと。で
教育テレビで従軍慰安婦を扱った番組をやったら、政治家に「公平公正にやってください」といわ
れたと。で内容を少し削ったと。したらそれを三年後に聞いた朝日新聞の記者が、それはおかしい
じゃないか政治家の介入じゃないか言論封殺じゃないかと、そういう内容の記事を書いたと。で記
者会見とか質問状とか告訴を視野に入れてとかがあって、まあそれと関係あるのかないのか多分な
いがNHK海老沢会長が辞任、橋本っていう人が新しい会長になったと。で海老沢前会長を顧問
にしたと。そしたら抗議が三日で6500件あったもんで、顧問を辞任したと。それが昨日までの流
れ。
今日の朝日新聞はもう大はしゃぎである。「NHK批判殺到し一転」「不信の根深さ読み誤る」「新
体制3日で大波」。社説のタイトルは「この会長で大丈夫か」ときた。
この口げんかの面白いところはここにある。お互いに、というか今や朝日新聞の方が素晴らしく攻撃
的なわけだが、攻撃的であればあるほど「そういうお前はどうなんだ」と、見物しているこっちは思って
しまうんである。でそれについてNHKは、比較的反省をしていると僕は思う。受信料不払いという実
害があったからでもあるけれど、とにかく反省している。朝日新聞は反省していない。反省する必要
なんかないという態度に見える。テレビ朝日とか、TBSの筑紫哲也氏(朝日出身)とか、傍目に「朝
日新聞の味方をしそうなところ」が、こぞって朝日新聞の味方をしているところからもそれは感じられ
る。
自分は正しい、と主張することの危険性が、ここにもあらわれている。自分は正しい、というとき、そ
れはともすればこんな風になってしまう。つまり「自分は正しくても間違っていても正しく、相手は正し
くても間違っていても間違っている」という風に。それは一神教的な思想だ。そしてこれはジャーナリ
ズムが実に陥りやすい陥穽である。朝日だけではない。読売だって文芸春秋だって、「噂の真相」
だってそう(だった)。またジャーナリズムだけではない。僕や君だってそうなんだ。ほんと気をつけない
といけない。
1月26日(水)
『恋するたなだ君』の書き直し、こっちで勝手に「もうこれが最終稿!」って決めて小学館に送る。
あとはちょこちょこした直しだけ……だろうと期待します。
ところで次回作『いなかのせんきょ』の元になっている、父親から聞いた話をA4の紙3枚にびっしり
メモったのがどこさがしても見つからないんだけど、誰か知ってる? 知るわけないよな。まあいいや、
もう一回聞こう。お父さんよろしく。
今の僕は人から見たら本当につまらない。なーんにもやっていない。本は読んでいるけれど、公共
事業とか地方交付税とか、そんなことについてばっかり読んでいる。で理解していない。昔から勉強
って、本当に苦手だった。頭が悪いわけじゃないのに、どうしてだろうって思うくらいできなかった。大
学受験のときに模擬試験を受けたら偏差値が33だった。普通は60とか70なんでしょあれ。放送
禁止用語レベルのド阿呆だったわけで、それが今でも変わらないってことに気がついたのはかなりシ
ョックだ。なんで小説なんか書けるんだろう。
読んだはしから忘れてしまう。それはもう、自分が怖くなってしまうくらいである。たとえば地方自治体
といえば、誰でも知ってる新地方自治法。あれが何年に交付されたかなんて、読む本読む本みんな
書いてあるのに、覚えていない。それから、その新法で廃止されたアレ、あの国の仕事を県や市町村
がやるっていうやつ、あれなんていったっけっか。もう五十回は読んでいるはずなのに覚えない(今イン
ターネットで調べたら「機関委任事務」と判明)。もう本当に脳が足りないのかもしれん。そういう勉強
的なことは、はなから入ってこないのである。やばいだろそういうのって。
幸いにして、今度の担当者の渡辺さんは慶応大学を出た超一流の頭脳の持ち主なので、というか
今そういうことにしたので、勉強的なことは全部渡辺さんに一任しよう。そうしよう。
1月18日(火)
『恋するたなだ君』を直しているところに『いつか棺桶はやってくる』のゲラがファックスで届き、「たな
だ君」をメールで送信しているところに祥伝社の渡辺さんが『いなかのせんきょ』の打ち合わせに来
店という、この日だけとったら松本清張みたいな一日。自分の小説に向き合いまくった。
渡辺さんは新潟出身で、しかもご両親が市役所にお勤めになっているという。これは格好の取材
対象だと思っていたのだが、昨年の地震で新潟市役所はさぞかし忙しいのではないだろうか。次
の小説は取材が不可避なので、二人でいろいろ対策を練る。
僕はこれまで、自分の頭の中にあるものだけで小説を書いてきた。取材なんかほとんどしたことは
ないし、人にものを尋ねるという技術もない。だからこれは、僕にとっては新しいチャレンジというか、
実験だ。ごく当たり前の社会派実録小説なんかにはしたくない。また、狭い共同体の選挙戦を
扱うんだから、事実起こったとおりに書こうとすれば、小説の本来にはなんの関係もないノイズに
悩まされる可能性はとても高い。したがってさまざまな意味で、これは完全なフィクションになるのが
ベストだ。しかしそのフィクションを支える背骨を作るのには、努力が必要になる。地方選挙とひと
口にいっても、勉強しなきゃいけないことは果てしがなく多い。でもやりたいんだ。面白そうだから。
これを書けば日本人が少しは判ってくるかもしれない。
渡辺さんと呑みながら、いつしか文学についての話になった。「文学なしで生きることはできますか」
と、酒の入った渡辺さんが尋ねてくる。よーく考えて僕は、そんなことはできません、と答えた。僕だ
けじゃない。また文学に興味を持っている人だけじゃない。どんな人だって文学なしに生きることは
不可能だと思った。なぜなら文学とは記憶だから。
僕は酔っ払ってそういったんだけど、以来この考え方が気にかかってしょうがない。文学というのは記
憶だと思う。もう間違いなくそうだと感じる。でもそれをうまく説明できない。たとえばミラン・クンデラの
有名な言葉がある。「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ」(『笑いと忘却の
書』)。ここにある「記憶」とは、どっかちがう。僕がいう記憶は、もっと漠然として感覚的で、したがっ
て闘う力としては弱いかもしれない。そしてもっと大きなものだ。これについては真剣に考える値打
ちがありそう。
1月17日(月)
今日は妻の誕生日なので、この日のために昨日、渋谷のブックファーストに行った。Hさんが仕
事をしていたのでご挨拶する。Hさんは今年中ごろ出産予定で、昨年お目にかかったときよりもお
腹が立派になっていた。よもやま話をして自分の本も買った。
そして今日はフィクショネスによしもとさんがいらっしゃった。ご主人とお子さん「チビラ君」も一緒だ。
あまりにも端正な顔立ちなので女の子だと思ってしまった。ホームページの日記でしょっちゅう男の
子として書かれているのをけろりと忘れていたのだ。ごめんね。しかも子供には比較的ウケのいい「地
震」という一発ギャグもすべった。以後お父さんにしがみつきながら遠巻きに僕を見るのみ。ああい
つの間に僕はこんな獅子舞ヅラに成り果ててしまったのか。声もでかいし。へこむ。
だけどよしもとさんとご主人のただよわせている、子供への愛情を見ていると、やっぱ子供ほしいなー、
などと思ってしまう。Hさんの穏やかな自信、なにか豊かな空気を目にしたばかりなので、なおさらだ。
正直な話、我が夫婦に子供がいないことを意識するようになったのはここ数ヶ月のことで、それまで
は別になんとも思っていなかった。自分が子供じみた気分でいるうちに今日、妻は誕生日を迎え、
かならずしも体力に自信をもっていない。特に避妊していたわけでもないのだが、僕の身勝手が彼
女を追い詰めてしまったような気がしていた。今でも時に、そう感じることがある。
でもそんなふうに考えるのは、さまざまな意味で間違いである。第一にそんなうじゃじゃけた気持ちで
いては、子供は授からない。不妊治療をやめたら妊娠したとか、作るつもりがないのに生れたとかい
ったことは、よく聞く話である。これは人為というものが、医学的でも心理的でも感情的でも、いかに
微力なものであるかを示している。子を授かるとは自然である。子供がいないのも自然である。僕が
これまでいかに身勝手であったとしても、生れるべきであったなら、生れていただろう。
第二に妻は今日、三十六歳になったばかりである。確かに若い頃のようにやすやすと妊娠したり出
産したりはできないだろう。しかし時間はまだある。現によしもとさんは三十八歳か九歳でチビラ君を
生んだのであり、いまどきそれくらいの年齢は珍しくない。もっとも、それは「シャレにならない、立派な
難産」だったそうで、僕としても妻に苦しい目にあって貰いたくはない。だから妊娠するなら早めに、と
も思うけれど、自然だから気長に待つのも大切だ。少なくとも絶望したり思いつめたりするには、まだ
早いのである。
第三に、妻は思いつめているわけでもなければ、僕によって苦しめられているわけでもない。僕は彼
女にとって決して心地よい同居人ではないかもしれないが、それでもちょっとはいいところもあるから、
愛想を尽かさないでいてくれる。ただこれは夫婦というものにありがちなことだと思うけれど、もうたっぷ
りコミュニケーションは取れていると思っていても、実際にはお互いの考えが、まるで判っていないこと
があるのだ。子供について僕たちはそうだった。昨年末にあるきっかけで僕たちはそれを話し合った。
そこで僕は彼女がどう考えているかも知ったし、僕も正直な考えをいった。他聞をはばかるようなこと
も話した。それはとってもいい話し合いだった。妻も少し気が楽になったと思う。僕はそれでも時どき
自分を責めることがある。でもかなり腹はまとまってきた。
夜はプレゼントを渡して、成城学園前で買ったケーキを食べて、「爆笑問題のススメ」に出演してい
るよしもとさんを見て、妻が僕の小説なんかより、よっぽどよしもとさんの小説に入れ込んでいることが
明らかになって、またへこむ。本日より『海のふた』(ロッキング・オン)読み始め、妻の文学観の正当
性が証明されるのをまのあたりにして、さらにへこむ。
1月12日(水)
妻と調布で『ハウルの動く城』を観る。納得できーん!話がこんなにぎっくしゃっくしている宮崎
アニメは初めてじゃないだろうか。
疑問点が多すぎるのである。戦争中のおとぎの国があって、そこの帽子屋で働くソフィという女
の子がいる。ソフィが妹に会いに行く途中、追われている魔法使いに腕をつかまれ空を飛ばされ
る。で妹に会ったその夜、魔法使いを追っていた「荒地の魔女」に、ソフィは呪いをかけられて90
歳のおばあさんに変身させられる。……なんで? ソフィは魔法使いを助けたわけじゃなく、巻き
込まれただけなのに。
こんな姿じゃ帽子屋にはいられないってんで、ソフィは魔法使いのいる荒地に向かう。……なん
でそんなにあっさり、住み込みの仕事場を離れられるの? 変わり果てた我が身をはかなむとか、
同僚との別れを悲しむとか、一切ナシ。だいたいこの帽子屋は蒸気機関車が走る線路のすぐ横
にあるんだが、画面が機関車の煙でいっぱいになるのに、煙そうにしている人は一人もいない。そ
こからしておかしい!
荒地でソフィは案山子に出会い、「今夜の宿を持ってきて」といって追い払うと、案山子は「動く
城」を連れてきた。ソフィはその中に入り、お掃除を始める。……ええーっ? お掃除って何??
魔女を探しに来たんじゃなかったのぉ? 動く城がどうなっているか、どこをお掃除するか、そんなシ
ーンがえんえん続く。そしてその動く城は、街で出会った魔法使い、ハウルの動く城だった。まー偶然。
戦争をしているおとぎの国では、魔法使いも徴用される。ハウルも王様に呼ばれているんだが、会
いに行くのがおっかない。そこでソフィがハウルのお母さんと称してお城に出かけていく。すると同時に
呼ばれていたのが「荒地の魔女」だった。でも荒地の魔女は、呪いをかけることは出来ても解くこと
は出来ない。そして荒地の魔女は、お城で魔力を解かれてただのお婆さんになってしまう。
一方でソフィはお城に勤める魔法使いの大臣みたいな女性・サリマンに謁見する。サリマンはかつ
てハウルの先生でもあった。サリマン先生によると、ハウルには心がないそうだ。そして戦争に協力し
なさいと強く出るが、後から変装してやってきたハウルにソフィは救われる。そのときついでに魔力を
失った荒地の魔女も救う……ってなんでやねん。
理由の判らないままソフィとハウルと荒地の魔女の共同生活が始まって、戦争が激化して、ハウル
がソフィの命を救い、ソフィがハウルの命を救う。二人は、いうまでもないことだが、恋に落ち、ソフィは
お婆さんじゃなくなったのであった。……で、話が終わればいいんだけど、それを魔法の力で察知した
サリマン先生、なんとそれをもって戦争終結を決定するという、見終わってもーのすごくでっかいクエスチ
ョンマークが頭の中にできあがってしまうエンディングだった。
宮崎アニメでシナリオの詰めがこんなに甘く感じられたことはない。『千と千尋の神隠し』にしたって、ど
うして何にも悪いことしてない千尋があんな目に合わされなけりゃいけないんだとは、思わないように
出来ている。そこには「アニメの力」とでもいうべきものが作用している。今回は作用していないと思っ
た。スペクタクルもあるし、アニメでしか出来ないことをたくさんやっているんだけれど、雑な感じがしてど
うしようもなかった。
ちなみに妻も、僕ほどではないにしても、決して納得いってるわけではない。そのために、原作を読ん
で検討したいといっている。そういうのって、ちょっと偉いな。よって誕生日のプレゼントは原作本に決定。
1月7日(金)
今年はちょっと考えていることがある。「系統的に読書する」のを目標にしているのだ。小説を書き
ながら、一方で世界の動きを横目で見ていると、そのすべてが僕にはつながっているように見える。
去年はイラクで戦争が起こり、世界各地で大災害が相次ぎ、宅間守が死刑になり、奈良の女子
児童殺害事件の犯人が捕らえられた。そして僕は小説を書いていた。それらが全部、僕の中では
あるひとつのテーマに行き着くように思われてならないのである。
うまくいえないんだが、それは「人間と、人智の及ばざることの関係」についてだ。人間がいて、生
活をしている。その生活はしかし、コントロールされている。政治でもコントロールされているだろうし、
思想や歴史にも人間関係にもコントロールされている。これらは「人間」だ。一方で人間の生活は、
気候や地殻、海流、気流などによってもコントロールされているし、これは本当にうまくいえないんだ
けれど、運命とかチャンスとか、誤解をおそれずにいうなら、もって生れたものだとか、抗えない性癖と
いったものにもコントロールされている。こっちは「人智の及ばざること」に属する。
人間と、人智の及ばざることをつなげるのは、もちろん人間の心であり、頭だ。でもそれはどんなふう
につながっているのだろう。
いちばんまともな考え方と、現代で思われているのは、「つながりなんかない」というつながりかただ。
イラク戦争と津波は関係ない。奈良の女子児童殺害事件とカリフォルニアの土砂崩れは関係ない。
とっても判りやすい考え方だ。
だけど僕には、なんかそれじゃあいけないような感触が心の中からぬぐえない。もちろんそれは、す
べては神のおぼしめしだとか、天罰とかいうようなことじゃない。でも人間と、人智の及ばざることをつ
なげて考えようとすると、どうしても宗教的なものの見方になってしまう。そして宗教的なものの見方
って、とんでもなくうさんくさい。
宗教的なものの見方がうさんくさいのは、なんでかっていうと、それは結局、「こっちは正しく、あんた
は正しくない」という考えにもとづいているからだ。エホヴァが正しければ、アラーは正しくない。池田大
作が正しければ、日蓮は正しくない。そうやって宗教的なものの見方は、地下鉄にサリンを撒いたり、
死者を生きていると言い張って、ホテルで「治療」したりする。二千年続く宗教でも、カルトといわれる
宗教でも、「正しいのはこっちだ」と主張していることに変わりはない。
これだけ書いて(この日記、もう三日も書いては消している)、ようやく自分にも見えてきたが、それ
は宗教の全部ではない。「正しいのはこっちだ、あんたは正しくない」というのは、一神論のものの見
方だ。「アラーのほかに神はなし」「すべての者はイエス・キリストによるあがないによって義とされる」こ
れらの言葉によって一神論は、宗教をうさんくさくしている。そこからの反抗として無神論が生れるの
も無理はない。
一神論はうさんくさいが、無神論にも疑問を感じる人々、意外とこれが世間の大多数だと思うが、
その中でも特にそういうことに興味や思考がいく人の受け皿として、オカルトとかニューエイジがある。
僕はオカルトもニューエイジも否定しない。だって本当に幽霊を見る人はいるじゃないか。スプーンだっ
て曲がるじゃないか。ただオカルトやニューエイジには大きな欠点がある。ややもすると信奉者の共同
体ができあがってしまい、一神教と大して変わりないことになる傾向があること、信じる・信じないの
二元論にはまりやすいこと、「それがどうした」といわれると、それまでになってしまうこと、などだ。
そこで僕が今目をつけているのは、汎神論だ。汎神論はいいと思うんだよね。宇宙は神でできてい
る。あらゆるものが神である。これはいいよ。神というと偉大な存在をイメージするけど、汎神論はゲゲ
ゲの鬼太郎の世界。そこではプリンも神様、棒も神様、ビッグマックも神様なら、自動販売機も神様
だ。もちろん僕もあなたも神様である。これで最初にいった、人間と人智の及ばざることもばっちりつな
がる。権力や能力による優劣もなくなる。はずだ。
汎神論のことを、ちょっと詳しく、知りたい。今年はそういう読書をするつもりです。
2005年1月5日(水)
明けましておめでとうございます。今年も「フィクショネス」をよろしくお願いします。
昨年末に新作『恋するたなだ君』の初稿を脱稿して、まだあまり頭が回転していない状態だ。
今はワープロに入力している段階だが、なんだかピッチが早くなって、もうすぐ終わりそう。この小説
は現段階では、担当編集者の石川和男さんを含めて僕以外世界中誰も見ていない。早く見て
貰いたい。
僕はこの小説、実はけっこう気に入っている。こんなことは生れて初めてである。書きあがったばっ
かりの自作を気に入るなんて、なんだかハシタナイ気がする。それに読んでいるのは僕だけなんだか
ら、自分の冗談に自分で笑っているようなもので、そう考えると気持ち悪い。ちょっと怖い。
いいわけするわけじゃないが、気に入っているというのは、最高傑作だとか自信作とかいうのとは
違うんである。この小説が好きなんだ。可愛らしい。連載中の『いつか棺桶はやってくる』が交響曲
第1番なら、『恋するたなだ君』は4楽章からなるセレナーデかソナチネといった感じ。あーあ、こん
なこと書いちゃって。ウヌボレと誤解されないといいんだけど。
ところで、年末年始も地球は凄いことになっているね。年末のスマトラ沖大地震、大晦日の雪に埋
もれてあまり知られていないけれど、ドバイで今日、雨が降ったそうである。一年中雨の降らないドバ
イでは交通事故が多発したそうだ。どうも今年も、これだけでは済まない気がしてならない。
過去の日記
(2004年10月〜12月)
(2004年7月〜9月)
(2004年4月〜6月)
(2003年10月〜2004年3月)
(2003年8月〜9月)
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