6月26日(日)
昨日、長新太さんが亡くなった。77歳だそうである。咽頭がん。
よく、子供の絵は素晴しいとか、子供の絵のように描く、といういいかたがあるが、それを本当に実
践できた絵本作家は、長新太ただ一人ではないだろうか。もちろん長新太の絵は、子供になど
決して描くことのできないものである。それでもその作品、絵だけでなく、絵本の発想の総体が、彼
の場合、子供そのものだった。一作一作が見るものを楽しませ、当惑させ、そして実にしばしば恐
怖させた。おとな的な常識や制御装置は、長新太の世界にはまったくなかった。
なんでもいいが、たとえば、誰でも知ってる「キャベツくん」。この絵本は信じられないことだが、九割
以上が黄緑色でできている。山も黄緑色、空も黄緑色、木立も黄緑色、キャベツくんがブタヤマ
さんと出会う道も黄緑色だ。長新太は黄緑の黄色を多くしたり少なくしたりすることで、風景をす
っかり描いてしまっている。しかもその実験性には、読んでいてもしばらくのあいだ気がつかなかった
りする。そんなことができるのは、というか、そんなことをやろうとして、実行できてしまうのは、よほど
大人の言うことをきかない子供か、天才だけだ。長新太は天才である。
再版されたかどうかしらないが、「なんじゃもんじゃ博士」も僕の宝物だ。なんじゃもんじゃ博士が歩
いている。どこまでもどこまでも行く。かばに会ったりガイコツに会ったりする。途中でアザラシが道連
れになる。それだけの「マンガ・どうわ」だ。世にも他愛のない世界。一人でつらいときなど、こっそり
読んでは慰められる。真に自由なナンセンスは、天上の音楽にひとしい。
「地平線のみえるところ」「にゅーするするする」「ごろごろにゃーん」……長新太は多くの作品を残
してくれた。あれらの素晴しい作品が忘れられることは、けしてないだろう。評価はこれから、いよい
よ高まっていくに違いない。
6月15日(水)
昨日、小学館から電話があった。
「『たなだ君』、増刷が決まりましたので!」
やったー! 生まれて初めての増刷決定! うれしくてうれしくて、いい意味で地上から五センチく
らい浮いてしまった。営業の荒井さんに長いお礼のメールを出したり、妻や実家に電話をかけたり
する。小説稼業という重たい自転車のペダルが、ようやく一回転してくれたという感じだ。ここで僕に
できることは何か? 都内の有力書店さんを回って、サイン本を作ることと、あとは……自分が「い
い」と思える(できるだけ思える)小説を、ノイズを気にせず書き続けることだけだ。
そして今日は、下北沢にてよしもとばななさんと夕食。
ご亭主とチビラ君、チビラ君がなつきまくっているアシスタントの人もいらっしゃって盛会である。前回
僕を恐ろしがっていたチビラ君は、今日は笑顔を見せてくれたのでひと安心。
最高にうまい北海道の黒ビールを飲みながら、ワハハワハハと歓談する。いろいろプロフェッショナル
なことも教えてもらう。僕は自覚している以上に緊張していたらしく、うまく喋れなかったような気が
する。増刷の報告もした。よしもとさんの帯で増刷できたようなものだ。いや、まじで。
よしもとさんは普通の人である。ただ、普通の人より文章が圧倒的にうまく、人間が見える人だ。僕
も自分のオーラを見てもらった。赤くて、ほかの色がいろいろ混ざっているんだって。「怒りをためこむと
ころがあるでしょ」と図星を指された。それでもよしもとさんは普通の人なんである。思ったことを人に
伝わるようにいい、僕みたいな人間にも普通に気を配って、好きな人にはだんだんと心を開いていき、
そうでなければ警戒する。心の中に、誰も知らない部屋を持っている。そして美しい。見た目も心も
美しい。誰だってそうなんだよ。じゃ、どうしてよしもとさんが僕たちよりも輝いているかというと、僕たち
は笑っても楽しくなかったり、好きな人にも心を開こうとしなかったり、自分のことを美しくないと感じた
りして、自分自身をくすませているからだ。普通であることはこれでなかなか、得難いことなのである。
「二作目を書くと、三作目が勝負ですと誰かがいう。三作目を書くと四作目が勝負だといわれる。
四年たったら五年目が勝負だし、これがいつまでも続く。だから気にしないほうがいいよ」といわれた。
ほっとした、なんていい方では足りない。ほーーーっっっとした。それに、最近ようやっと判ってきたこと
だけれど、僕がいいと信じれば、いいと思ってくれる人はかならず現れる。だから人がいろいろいってき
ても、それは「ああしろ、こうしろ」といっているわけではないんだ。もともと自分しかないんだし。
6月8日(水)
渋谷シアター・コクーンにて『桜姫』。受けた衝撃ははかりしれない。妻と二人であっけに取られた。
鶴屋南北(四世)の台本を、串田和美氏が演出し、桜姫に中村福助、釣鐘権助と清玄の二役
に中村橋之助、脇を扇雀、弥十郎、勘太郎、七之助らが固める、コクーン歌舞伎らしい豪華キャ
ストの大作だった。演出も素晴らしい、役者も最高、このあたりを語り始めたらキリがない。だが僕は
やっぱり、南北という作者の狂気じみた創作精神に度肝を抜かれた。
「桜姫東文章」という芝居は、荒唐無稽の極みである。そもそも歌舞伎は、お客にサーヴィスしようと
あの手この手を使って、あげくリアリティの観点からは荒唐無稽になっていった演劇だけれど、それにし
てもこのデタラメはただごとではない。衆道(ゲイだよ)に走って心中しようとした坊主・清玄が僧侶の
最高位になり、心中の際に死んでしまったお稚児さんの生まれ変わりが桜姫、という発端から、その
桜姫が処女にして強姦され子まで生まされてしまった男のことが忘れられず、顔も見知らぬその男の
腕に彫られたのと同じ刺青を自分の腕にしている、その男と再会し、ちょっとヤバすぎんじゃねえかい
と思えるような濡れ場が演じられ、しかしお姫様の屋敷ではお家騒動の真っ最中、桜姫と清玄は
御殿から一気に社会の最下層に投げ捨てられてしまう……ってあらすじを書いても何をいってんだ
か、まるっきり理解できないかもしれないが、まだまだ話は続くのである。心中までしようと思いつめた
お稚児さんの生まれ変わりだからと執拗に言い寄るようになった清玄は乞食となり、やはりお家騒
動に巻き込まれた坊主とお局様の暮らす庵に寝ているが、後生大事にしている香箱を金と間違
われて坊主らに絞め殺されかかる。そこへ桜姫が人買いに連れられてやってきて、殺されたはずの
清玄に言い寄られ、争っているうちに清玄は自分の持っていたナタで首を切って死んでしまう。そこ
へ権助がやってきて、桜姫は権助によって女郎に売られてしまうのであった。美貌と育ちのよさで人
気の出る女郎桜姫は、しかし枕元に清玄の幽霊が出るというのでどの店からも厄介払いさせられ、
長屋を買って大家におさまっている権助のところに戻ってくると、酔っ払った権助は、自分が桜姫の
親と弟を殺して家宝を盗んだことを喋ってしまう。親の敵と桜姫は権助を切り殺し、家宝を取り戻
してお家は再興されるのであった。おしまい。ええーっ?
どうもいろいろ調べてみると、この芝居には「世界」と呼ばれる演劇上の枠組みや、当時評判にな
った事件なんかがいくつもごたまぜになっていて、それでこんなしっちゃかめっちゃかな話になってしまっ
たらしいんだが、それにしてもこれはどういうことだろう。笑いもふんだんにあり仕掛けも楽しいんだが、
基調となる鶴屋南北の人間を見る目が、恐ろしいまでに退廃的である。江戸時代のデカダンスと
いうものが、歴史的にまた社会心理学的にどうやって生まれたのか知らないが、鶴屋南北という
作者が持っているどろどろした人間観が観るものに与えている衝撃は、当時も今も変わらない。
6月7日(火)
石川さんが清水春日さんを連れてきてくれた。清水さんは『ぼんちゃん!』の作者で、僕と同じ石川
さんに担当してもらっている作家である。作品にふさわしく、ちょっと落ち込んでいる。僕が何をいって
も、そうですよね、とか、そこが僕はねぇ、とか、卑下した返事をしてくる。それがなんだか、口には出さ
なかったが、面白かった。さすがだとさえ思った。清水さんはああやって落ち込んだり悔しがったり怠け
たりしながら、時代とつながっている。それは僕に、決定的に欠けているものだ。僕の小説は一人勝
手に元気でいるが、今の世の中元気な奴なんていやしない。
そのあと石川さんと池田信吾(67)さんと呑む。池田さん相変わらずかっこいい。僕なんかでいいんで
すかという気分になる(何が?)。池田さんが僕の小説のためにわざわざ狛江までいらっしゃって、五
時間かけて写真を撮った話などうかがう。
席上、石川さんが僕の原稿をほしいといい始める。冗談じゃないよ今の僕はいっぱいいっぱいだよ。
でも藤谷さんが前にいってた、「落語十二ヶ月」っていう連作短編があるじゃないですか。僕に落語が
できるわけないだろう。ありゃ凄い修練が必要なんだぞ、ねえ池田さん、と、落語に造詣の深い池田
さんに話をふって、池田さんからダメを出してほしかったんだが、池田さんノリノリになってしまい、いっぺ
ん落語の絵を描きたかったんだよねえ、などといい始める。よって来春より連載決定。どうなっちゃって
んの。
6月6日(月)
金曜日には『恋するたなだ君』のサイン本を作りに都内の書店を回って(書店の皆さん、ありが
とうございました)、今日は雑誌「ダビンチ」の取材を受けて、このところパブリシティに奔走してい
る感じ。なんか今回のパブは、手ごたえが熱い。去年の大阪もけっこう熱かったが、今回は何か
未体験ゾーンに突入の雰囲気。広がりがある。
今日は取材があるっていうんで、朝からちゃんとひげも剃って、きちんとした身なりで待ち構えてい
たところ、副編集長に編集者にライターさんにカメラマンにカメラマンの助手と、総勢五人でいらっ
しゃって、スゲかった。一生懸命話をした。7月6日発売の8月号に掲載予定だそうです。
一方で『いなかのせんきょ』はようよう100枚突破。一時は自分の無能にそうとう落ち込んだけれど、
読み返してみて「あきらめちゃいかん」くらいは思えるレヴェルに気力が復帰。ここから一気に行く
から、安心してくださいね渡辺さん。
5月31日(火)
僕は昔、ちょっとのあいだ競馬に入れこんだことがある。だいたいトウカイテイオーから、ライスシャ
ワーが死ぬまでだ。大きく勝った記憶はまるでなく、大して賭けもしなかった(できなかった)。ただ
ギャンブラーのフリをして楽しんでいただけだった。僕にはギャンブラーの素質はまったくない。今で
は競馬というと、なんとなく陰気な気分になる。たまに競馬場ってところには、行きたくなることも
あるけれど。
先日のダービーで、ディープインパクトという馬が強い勝ち方をして話題になった。僕はスポーツ
ニュースやなにかで見ただけだけれど、自分が十年前とはまるで違った馬の見方をしているのに
気がついて、ちょっと驚いた。
なんか知らないが、ニコニコしてしまうのである。「可愛いなあ」と思っているんである。競馬をやっ
ている頃には、そんなギャルみたいな馬の見方は忌み嫌っていたのに、ディープインパクトのレース
を見ると目が細くなっちゃって、「一生懸命やってるね。偉いぞ。走れ、走れ、偉いぞ。いい子だ。
強いぞ」などと思っている。孫を見るジジイのようだ。馬券を買う気など、さらさらない。
僕はナリタブライアンが好きだった。強くて美しい馬だった。首が太くてかっこよかった。けれどもナリ
タブライアンは死んでしまった。リタイアのずっと後だったけれど、寿命というには若すぎた。あれは
現役時代に無理をさせられすぎたからだと僕は思っている。そして無理をさせたのは馬主や関係
者だけでなく、馬券を買った僕自身も含んでいる。ナリタブライアンのことを考えると陰気になる。
ディープインパクトは三冠馬になるかもしれない。ぜんぜん判らない。ただ、長生きだけしてほしい。
5月26日(木)
いよいよ、ようやく、やっとこさ、本日『恋するたなだ君』が小学館より発売。
先週金曜日に石川和男さんが届けてくれた本を見たときには、なんだか涙が出そうになった。
これについては本当に頭も感情も使ったし、時間もかかった。だけどその甲斐があったと思う。
池田信吾(67)さんの装丁は心に染み入るように美しい。カバーも素晴らしいが、買ったら
是非カバーをはずしてみてほしい。池田さんがたなだ君の街を撮影した、見事な写真がある
から。くわえて帯の文章はよしもとばななさん! 僕は果報者です。僕もたなだ君も。ひっくり
返すとときわ書房の高頭さん、ブックファーストの山川さん、紀伊国屋書店の三浦さんが推薦
してくれていて、相変わらず僕の本は、本屋さんに愛されているなあと実感。みなさん本当に
ありがとうございます。
この小説は表面的には、徹頭徹尾ヴォードビルである。石川さんと打ち合わせをしたとき、僕は
「不思議の国の『ぼくの伯父さん』」をめざす、といったけれど、アリスの代わりにジャック・タチみたい
なのっぽの青年を登場させ、およそ現実的でない街を舞台とし、そこに懐中時計を持ったウサギ
ならぬ女性をひとり配して、周辺の人物も思うさま戯画的に描き、ドタバタのおっかけっこをやらせ
てみた。お話としてのマトマリや、演劇的な結構は、これまでになくうまくできたと思う。
しかし翻って僕は、ヴォードビルが書きたかったとか、うまく書けたから満足とか、そんなふうにはあん
まり思っていない。ここだけの話だけれど、僕はいつだって自分の小説は、ちゃんと文学でなきゃい
けないと思っているんだよ。この場合、小説と文学はどこが違うかというと、小説はいくらでも他人
事であっていいが、文学は読者の精神に関わっていかないといけない。読む前と読んだあとでは、
読者の心が1ミリでも2ミリでも動いてほしい、そう願って僕は書いている。ただし、それはあくまでも
楽しみとしての読書を読者に提供できてからの話だと思う。ちーとも面白くないが、文学だから我
慢しておこう、なんて思われるのは恥だ。文学は、まず読んで面白いものでなければならない。こ
れはディッケンズから現代のドン・デリーロやイアン・マキューアンに至る文学の本道だ。
もちろん僕が、「読んで面白いもの」という概念をとんでもなく誤解して書き続けている可能性は
あるんだけどね。
5月14日(土)
NHKの、僕がちびっとだけ顔を出している番組「名作平積み大作戦」から電話がかかってき
た。電話の内容は、なんてったってまだ電話だけだから、書いていいものかどうか判らない。で
もこれは楽しみ。責任重大だけど楽しみ。そのうちはっきりしたら、公表します。
『逆境ナイン』の原作者、島本和彦さんのサイトに、僕がノベライズした『試験に出る不屈闘
志物語』のことが少し触れてあった。どうやらノベライズは合格らしくてほっとする。この本はコ
ミック専門店なんかでも売ってくれるように営業をするらしいので、そういう読者の反応も楽し
みだ。島本和彦の才能は、もっと評価されていいと思う。あんな発想とハイテンションと独特な
ユーモアセンスの漫画は、あるかもしれんが決してない。島本和彦ファンの何人かが僕の小説
に興味を持ってくれることもあってほしいけど、僕の小説に興味のある人が、島本和彦の漫画
を読むようになってくれることもあるかもしれない。
考えてみれば、このノベライズの仕事を僕にやらせてくれたことは、小学館が僕を「職業作家」
としてみなしてくれたことを意味していると思う。これまで僕は、まだ二冊やそこら出しただけで
小説家でございなんてこと、恥ずかしくていいたくなかったんだが、『試験に出る不屈闘志物
語』が出たら(6月17日)、そういう自覚を持つことにします。
5月12日(木)
日記が更新されていない時期は、煮詰まっている。誰でもそうだと思うけれど、僕にもたま
に、ナンに対しても気が乗らない時期がある。僕の場合それは、いわれのない疎外感にな
ってあらわれる。誰も僕のことなんか相手にしちゃくれないんだとか、のけ者にされているんだ
とかいう気分に落ち込んで、ため息をつきながら本を読むしかない。
それはそれとして。
このあいだの日曜日、「文学の教室」で僕は奇妙な感じを味わった。そのときは武者小路
実篤の『友情』を取り上げた。これは僕が毎週のように出ているNHKの番組で、前に扱わ
れた作品だ。そしてその番組の、新しい収録が土曜日にあって、そのときはミラン・クンデラ
『存在の耐えられない軽さ』の話が出た。実篤とクンデラ、どっこも何にも共通項がないよう
にしか思えない。ところがクンデラの一節によって、僕は実篤の作品について考えるヒントを
与えられたのである。こういうことがあるから文学は面白い。
武者小路実篤の文学には、際立った特徴がある。まず文章がおかしい。どうかしていると
思われるくらいおかしい。さらには、そのおかしい文章がいつまでたっても改良されない。武
者小路実篤の文業は20歳から90歳まで、70年の長きに亙っているが、その間文章が
うまくなったとか、あるいは下手になったとか、そうでなければせめて人生観や哲学が変わっ
たようにみえてしかるべきであるのに、まるっきり同じだ。文章としては、常にいったん書かれ
た語尾をずーっと連続するし、哲学としては「仲良きことは美しき哉」からちーとも発展しな
い。この「発展しない」というところが、実篤文学の驚くべき特徴である。
そして、その発展しない感じ、いつまでも同じことを飽かず説き続ける感じが、読者になぜ
か心地よい。武者小路実篤には、今でも熱心な信奉者、愛読者が少なくないけれども、
さもありなんと思わせるものがある。これはできるようでできないことだ。70年間同じことをい
い続けている人の話に、あなたは耳を貸すことができるだろうか。
なぜ、こんなことが、実篤に限って可能なのだろうか。現代作家の中で実篤の作品にもっ
とも注目しているのは高橋源一郎氏だと思うが、その高橋氏も実篤を論じたエッセイ「(こ
んな作家でも)生きていてもいいですか」(『文学なんかこわくない』所収)で、さまざまに実
篤の文章を面白がったあげく、「わからない」「(実篤の文学は)壮大な空振りのようなもの
ではなかったろうか」と結論している。
しかし空振りが未だに信奉者を持ち続けるはずもない(と思うよ)。僕としてはこの謎のヒン
トは「仲良きことは美しき哉」にあると思う。つまり楽天的な資質というか、性善説が魅力
なのではないか。そこまで考えたところで、僕は前日のミラン・クンデラを思い出したのだ。
その番組では『存在の耐えられない軽さ』から、こういう一節が引用された。主人公が飼っ
ている犬について書かれたところだ。
「もしカレーニンが犬でなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、『悪いけど毎日ロール
パンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え
出せないの?』と、いったことであろう。このことばの中に人間への判決が何もかも含まれて
いる。人間の時間は軸となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが
人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れだからである。」(千野栄一
訳)
幸福とは繰り返しへの憧れ。これだと僕は思ったね。同じ文章を繰り返し、同じ哲学を繰り
返す。武者小路実篤という作家は、世にも稀なる幸福の体現者だったのである。
それにしても僕たち人間は、どうして直線に沿って前へと走るしか脳がないんだろうね。
4月27日(水)
妻の両親が参加している写真クラブの展示を見に向ヶ丘遊園まで自転車で行く。カメラを
持ってあちこち小旅行に行っている様子が写真に現れていて、いい趣味だなあと思う。とり
わけ今回は僕の故郷である稲村ガ崎の夕景を撮ったものを出展されていたので嬉しかった。
稲村ガ崎から見る江ノ島は昔と変わらなかった。灯台はすっかり新型になっていたけれど。
そのあとお寿司をご馳走になって、妻と二人でボーリング。僕は指がとんでもなく太いのであ
る。ためにボーリング場に置いてあるボールの穴にちゃんと指が入ったためしがない。ボールを
しっかり握ることができれば、きっともっとうまいはずだ。絶対そうである。
そのあと古本屋など冷やかして歩いていると、小学館の石川さんから電話がある。ゲラにチ
ェックがたくさんあるという。でもって今日中に直さないと間に合わないという。それなのに藤谷
さんの休日をお邪魔するのは申し訳ないという。しかも石川さん自身もその時点ではほかの
仕事に忙殺されているのだ。とりあえず自宅にゲラのチェック部分をファックスしてもらうことに
して、僕たちも帰宅。自転車での行き帰りなので、この時点でけっこう体力を使っている。
家に帰って人にダビングしてもらった「野田版 研辰の討たれ」を見る。野田秀樹といえば
80年代から間断なく人気と評価を集め続けた演劇のスターであって、僕としては何でもか
んでもジェラシーを感じてしまうのだが、またしても感服。面白くって器用で考えさせられるコ
メディだった。ただしこれが歌舞伎といえるかどうかは、歌舞伎ファンなりたての僕としては判
らない。
ビデオがあともうちょっとで終わるというタイミングでファックスが来た。見るとかなり深刻な問題
点がいくつかある。明日では間に合わないというようなところで気がつくような問題点なのか?
と、主として自分自身を責めながら、これは電話で解決できる問題ではないと判断、石川
さんに自宅近くまで来てもらう。一時間後に駅近くのファミレスにて直し。かなりそーとー赤を
いれることになった。仕事の合間に今読んでいる片山恭一『最後に咲く花』について話を振
ると、編集した石川さんは最後まで読んでなければ話ができませんとしっかりした面構えで
いわれた。はい。
今度こそすべてを解決して夜11時半にファミレスを出る。そこへさる人物から楽しそうに酔っ
払って電話が掛かってきたりして、今日は尻尾のほうまでびっちり餡子のつまった休日だった。
4月21日(木)
町田康『告白』(中央公論新社)読了。ファンのあいだでは、前作『パンク侍、切られて候』
(マガジンハウス)とどっちを取る、という話が持ち上がっているようだが、僕は断然『告白』の
ほうがいいと思う。一年に亙って新聞連載を続け、さらに大幅に加筆してできたせいか、ゲ
ラ読みが甘いところもあちこちに見られる(俺はなにをギョーカイぽいこといってるんだ)。ばっさ
りカットしたほうがいいと思えるところもある。とりわけ終盤の、警察が捜索するくだりはかなり
短縮したほうがいいと思った。けれどもこれは町田康ここ数年来の傑作だ。『パンク侍』も傑
作だけど。
河内の田舎者が後世に名を残すほどの殺人鬼となるまでを描いたこの小説は、表題の通
りその大部分が主人公城戸熊太郎の内省描写にあてられている。内省なんぞというもの
はたいがい読んだって面白くもなんともないものだ。ところがここではそれを面白く読ませるこ
とに成功している。その理由はふたつあって、ひとつにはその内省が河内弁によってリズムよ
く彩られていること、もうひとつはその内省が、立派なことや偉大なことには少しも向かわず、
徹頭徹尾どーしよーもないことに向けられているからだろう。
文学において内省が面白くないのは、内省自体は難解で高尚であるのに比して、そこか
ら導き出される行動が、別に大したことでないところにある。それがここでは、行動も大した
ことはないが内省もくだらない問題についてばかりなのだ。牛の爪を切りに行くの行かない
の、女に話しかけるのかけないの、博打をするのしないのと、実にしみじみとしょうもない。こ
れまでの町田康作品では、どれもこれもそうであるといえるが、ここではその「しょうもない内
省」の集大成が試みられており、それが読書の愉快を生んでいる。
また要所要所に出てくるエピソードが美しい。古墳の中に現れる大鬼と小鬼のシーンや、
後に共犯者となる谷弥五郎との出会いのシーン、酒屋に怒鳴り込むシーンや奈良の大
仏と十一面観音におまいりに行くシーンなど、いつまでも心に残る名場面がたくさんある。
なかんづく滝谷不動明王寺にてどじょうを川に放すシーンは、思い出しても情けなさに涙
の滲む、珠玉の一節である。
それから、これは今日の話じゃないが、もうひとつ、一生の宝ともいうべき名作と出会ったの
で、書いておかずにはいられない。
妻は今でも週に一度ほどの割で某大手映画配給会社へ出向いて働いているが、あるとき
帰宅して僕に、いずれテレビである映画をやるから、か・な・ら・ず、観るように、と厳命した
のである。僕と妻はお互いに、これこれの映画は必見、などと相手からいわれるとヘソを曲げ
て逆に冷淡になってしまう傾向があるので、映画を推薦するのはなかなか骨が折れるのだが、
それを判っていてこれだけ推すのは珍しいから、僕はその映画を常日頃から心にとめていた。
それが先日、NHK−BS2にて放映されたのである。その映画とはビットリオ・デ・シーカ監督
の『ミラノの奇跡』。僕の生涯における映画ベスト10に、これは絶対に入り続ける。
この映画について、見ていない人に説明することは難しい。御伽噺、とでもいうほかない。
戦後のイタリアの、貧しい人々が、奇妙奇天烈な騒動を巻き起こす。これじゃ説明になって
いないと、あなたは思うでしょう。でもそういうほかないんだ。ほんと見てください。たのみます。
僕はもう、ぼろぼろ泣いた。そのナンセンスの美しさに。明るい心の尊さに。
この映画では、主人公の不遇や貧しい人々の境遇は、それなりにリアルに描かれるのであ
る。ところがその不幸を救うのは、およそありえない、でたらめな設定によってであって、最初
のうち、デ・シーカだからシリアスな戦後の民衆ドラマなんだろうと思って観ていると、だんだん
「おや?」と思うようになり、やがて「おやおやおや?」と思うようになり、ついには「おやおやお
やおやおやおやおやー?」と思うようになって、で終わる。凡百のシナリオライターや映画監
督なら、途中のどこかできっと「それなりにリアル」な物語の解決を描いていただろう。しかし
当時のデ・シーカはノリノリであったらしく、そうはしなかった。チャップリンもキートンも、ジャック・
タチも思い及ばなかった喜劇的解決によって、貧しい人々を天国へと導いたのである。
これは人生の諸問題を解決するための映画ではなく、映画は人生の諸問題を解決しない。
すべての芸術表現というものは人生の諸問題を解決なんかしないのである。しかし芸術に
触れる人間にはさまざまな人生上の困難がある。それに対して芸術はどうあるべきか。『ミラ
ノの奇跡』は、そこに勇猛果敢なひとつの態度を表明している。それは僕の、もっとも尊敬
する態度である。
4月17日(日)
実はこの日の日記を僕はもうたいてい書いていたんだ。中国の反日デモについて書いた。
あれは人種差別じゃないかとか、いろいろ。でも考えてみれば、僕にとっては中国で何が
行われているかなんてあんまり関心ない。僕はかつて日本が国策として行った中国や朝
鮮半島に対する蛮行を、非人道的で非難すべき行いだと思っている。そして今、中国に
対する信頼をほぼ完全に失った。それだけの話だ。日本の報道によれば、このデモは中
国政府による人民の「ガス抜き」で、いずれ収束に向かうんだそうである。それがどうしたと
思う。彼らは日本人をいじめて笑った。ガラスを壊して楽しんだ。楽しんでガスが抜けたか
ら、さあ明日から普通にやろうぜ、オリンピックもよろしくな、なんていわれても、僕だけかも
しれないが、まともに相手する気になれないね。もっとも、いずれ日本人の中からもあれに
不快を感じて暴力的な所業に出る奴が現れるだろうが、その日本人のことも僕は信頼し
ないんだし。つまり世間一般の人種差別的な犯罪と同じだ。すべての中国人をいっしょく
たにしてはいけない。
明日から新しい小説を書き始めるので、登場人物の履歴とかいろいろ考える。名前が難
しい。今回はいつも書いているものと毛色が違うので緊張もしている。谷崎潤一郎の『細
雪』をちびちびと読み進む。偉大な文学でしかも心を慰められる。930頁もあるのに、いつ
までも終わってほしくないと思ってしまう。
4月16日(土)
いやー苦しかった。こんなひどい風邪は何年ぶりだろう。
木曜日の夜は妻が出かけたので下北沢で夕食を取り、九時ごろ帰宅。十一時ごろから
腹具合がおかしくなり、しかしトイレに行っても何にも出てこない。調子悪いナと思いつつ
床に入ったが、脂汗と胃痛が止まらず、夜中に目が覚めてもどのくらい眠れていたのか判
らない。頭も朦朧としてきたが喉に何かつかえている感じは明らかだったのでトイレに行き、
したたか嘔吐した。嘔吐なんて大学のときにべろんべろんに酔っ払って以来の椿事であっ
て、僕としてはかなり焦った。時計を見ると午前5時。どういうわけか黒澤明の『生きる』に
出てくる、胃癌の兆候を示す有名な台詞が脳裏によみがえってくる。まさかこれで死ぬん
じゃないだろうなと、そのときは本気で思った。
翌朝八時ごろ熱を測ると38.3度。水を飲もうと思っても喉が受け付けない。九時にな
ったら医者に行こうとそれまで横になっていたが、いつまでたっても九時にならないので驚い
た。かなり眠ったつもりでも十五分くらいしか経っていない。ついこのあいだインフルエンザ
に罹ったばかりの妻は勝手知ったるもので、かゆいところに手の届く看病ぶり。普段何一
つ彼女のことをしてあげていない僕に、どうしてこんなに親切にしてくれるのか。元気にな
ったら心を入れ替えなければならんなどと思いつつ最寄の医者へ行く。インフルエンザじゃ
ないことが判明し、薬を貰って帰宅後飲むとみるみる熱は引いていった。それでも腹具合
が不安定なのでヴィダーインゼリーとマンナとポカリスエットしか口に入らない。しめたこれで
痩せるぞといったら女房に笑われた。
今現在はこうして店で日記をつけられるほどには回復したし朝はうどんも食ったから大丈
夫。とはいえこの大丈夫はあくまでも毎食後飲んでいる薬に支えられていることは明らか
だ。さっきもだんだん体調がおかしくなってきたから食事を取ろうと思ってコンビニに行ったけ
れど、おにぎりとかパンとかが棚に並んでいるのを見るといやな気分になり、結局ヨーグルト
とお茶しか買わなかった。タバコは昨夜無理をして吸ってみたけれどいきなり軽い頭痛を
覚えた上にいつまでも匂いが鼻につく。まだまだ回復していない。いつものようにハンバー
ガーをふたつ食ってタバコをばこばこ吸って、午前四時までテレビを見るような生活ができ
なければ駄目だ。と、書いただけでもなんだかウンザリする。ああこれを機に僕はケンコウ
になっていくんだろうか。いやだなあ。
4月7日(木)
まだあったか。京都の新興宗教団体「聖神中央教会」の金保とかいう男が、小学生に
セックスを日常的に強要していたという報道があった。
テレビのニュースで説教のビデオを見る限り、この男はまことに見事なカリスマ性を持った人
物であり、新興宗教の首長となるにふさわしい。独善的で知能も低く、ふんぞりかえって
反省しない。信者になる人がうじゃうじゃ集まるのも無理はなかろう。あんな馬鹿を崇め
奉るなんて、信者はよほどのトンマ野郎じゃねえのかと、あなたは思うかもしれないが、ト
ンマ野郎をたくさん集めて商売するのがカリスマというものだ。そもそもキリスト教というのは
そういう性質を持っている。
どうにかしてこの男をおとしめてやりたい、罵ってやりたいと思っても、それは逆効果である。
信者ならぬ外部の人間がこの金(パウロ永田、と名乗っていたそうだが)容疑者を狂人扱
いすればするほど、信者たちはそれを根拠として結束する。ますます強固な結束ができあ
がってしまう。いつもながらのパターンだ。オウムだってそうだったんでしょ。あと白装束。もう
みんな、白装束なんていっても忘れてるだろうけど。
こういう男を八十年代には、トリックスターと呼んでいた。トリックスターに取り込まれたら、も
う逃れようはないのかもしれない。テレビを見てたら金容疑者の信者が、「そんなことやって
ないと思う」なんていってたもの。そういうもんなんだ。
今みたいな時代が続く限り、こういう事件は決してなくならないし、こういう団体も決してな
くならない。じゃ「今みたいな時代」とは、いったいどんな時代のことなのか。端的にいってそ
れは、「確かなものを自分の外に求める時代」だと思う。
自分のやっていることが、確かじゃないのだ。いい学校に入っても、いい会社に勤めても、
それが手触りを持っていない。するとなんだか不安になってくる。不安になると不安を解消
したくなる。不安の解消を求めて、自分以外の何かを得ようとする。今はそういう時代だと
思う。
自分の外にあって、不安を解消してくれるものとは、ありていにいえば金である。経済のこ
とをちょっとでも知っていれば、金くらい不確かなものはないと判るはずだが、でもとにかく金
なのだ。あるいは土地こそ確かと思う人もいる。公務員こそ確かと思う人もいるようだ。そし
てこういった「金」「土地」「公務員」といったものと、「神」が実は同列になっているのである。
何をいってるんだと、聖神中央教会を初めとする信仰を持った人たちの一部は腹を立てる
だろう。神は金や土地と違って心のよりどころ、精神的な法悦なんだというかもしれない。
しかしそれは思い上がりというものである。もしも私が自分の外にあるものを、何の反省もな
く盲従するなら、それは何を信じていようとただの逃避だ。自分の内容のなさから逃避して
いるのである。そしてその種の人間は、自分の無内容を糊塗するためになら、幼女だろうと
全財産だろうとなげうつことができるのだ。この事件はそれを如実に表している。
僕は確信しているが、真に神を愛し信じる者は、牧師だろうと僧侶だろうとイスラム教徒で
あろうと、常に自分に向かって問いかけている。「私は頭がおかしいのか? けた外れのど阿
呆なんじゃないか?」と。そこからしか本当に尊い信仰は生まれない。
4月2日(土)
句会。僕は「白桃や法王今や逝かんとす」という句を投じた。そしてやはり明けて三日、
法王ヨハネ・パウロ二世は亡くなったのである。投句のときはまだ生きていた。
僕は内心、大往生だったと思っている。ここ数年の法王はパーキンソン病に蝕まれ、痛々
しくて見ていてつらかった。現代の法王として、これ以上は望めないというくらい偉大な業
績を残したのだから、あれ以上苦しむ必要などない。女性に聖職を与えなかったり、妊
娠中絶を否定したりして、保守的な側面もあったけれど、それ以上に成果のほうが大
きいと思う。没後ただちに弔意を捧げた国のなかにイスラエルとパレスチナが含まれてい
たことでも、それは明らかだ。
さて今日は句会の参加者が多かったために盛り上がり、お開きが十時半になってしまっ
た。急いで帰宅してテレビを見る。自分が出てくるはずだからである。
『平成平積み大作戦』(NHK−BS)は、実際の本屋に東西の古典的名作を平積み
してもらいましょう、ということを口実に、当代の知的タレントが名作を紹介するという番組
だ。だから僕たち本屋は薬味であって、実際には高みの見物、要所要所でちょっと喋れ
ばいいだけ。実にありがたい。
それにしてもテレビに映る自分の顔は実にぶよぶよしている。そしててかてかしている。ま
じで恥ずかしかった。これから毎日、ちゃんと顔を洗うようにしよう(ってオイ)。
それでも、自分がいったことにみんなが笑っているのを見るのは嬉しいね。
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