9月12日(月)
昨日の選挙、僕はモウ本当にぎりぎりまで悩んで悩んで、結局記名投票は自民党、比例代表は
共産党と、わけのわからない投票行動をしてしまった。共産党に入れたのは民主党批判の意味も
半分ある。残りの半分は、やっぱり確かな野党が必要だと思ってしまったのだ。
でも、まさか自民党がこんなに勝つとは思っていなかったなぁー。いいんだろうかこれで。
投票のあとで妻とも話したんだが、国政に携わる政治家、もしくは政党は、オプティミストであってほ
しいと思う。明日は今日より世界が良くなると信じる力が、国政には必要なはずだ。そういうオプティ
ミズムを今回一番感じられたのが、自民党だったということじゃないだろうか。少なくとも他の政党に
はほとんど感じられなかった。わずかに共産党には楽観的な何かがあると、僕には感じられたのだが、
それは机上の空論にも似ているから、リアルな政治観を持った人には受け入れられなかったのだろ
う。共産党っていう名前もよくない。
民主党は今回、本当に本当に駄目だった。味方してやろうと思うこっちの気持ちを、毎日挫けさせ
ていった。いってることも二転三転、岡田代表はにこりともせず、人の目を見て話すことすらしない。
そこにはオプティミズムのかけらもなかった。野党が保身に必死とは、どう見てもみっともない。
社民党はもっとひどかったと思う。「社民党が議席を伸ばさなかったら、憲法九条はなくなります」と、
福島党首があっちこっちでバカの一つ覚えみたいに叫んでいたのをテレビで見たが、これが主権者で
ある国民を愚弄したもののいいかたであることに、当人はまるっきり無頓着だったようだ。小泉純一郎
氏の言葉も貧しいが、福島氏の言語は醜悪であった。
醜悪といえば、今回とにかく醜いなあと思ったのが、いわゆる郵政造反自民党組だ。野田聖子氏
がその典型だが、なんで泣くんだよ。人のなさけにすがりつくつもりなのか。あれだけ泣いたらそりゃ可
哀想だから入れちゃうよ。そのほか綿貫氏、亀井氏などにしても、情に訴えるところがまことに目立っ
た。それがまた、理屈じゃ負けるから人情でなんとかならないかという底意が見え見えであった。
あと醜かったのが、スポットライトをめざして飛んでくる蛾みたいな連中。なんなんだよホリエモン。なん
で出てくるんだ。この人はいったい、プロ野球のオーナーにもなりそこね、地方競馬もウヤムヤになり、
フジテレビは獲得できず、選挙は落選して、なんなんだ。若い金持ちの考えることは判らん。あと田中
康夫ね。現職知事でもお呼びがかかれば新党結成。おみこしにされているのが明らかなのに引き受
ける、その神経が判らない。結果議席ゼロ。あれも今や「誰なんだ」の部類に入る。もともと小説家
でしたよね。原形とどめてない。
自民党は今回、単独で絶対安定過半数を獲得したんだから、もう公明党とは手を切ってもらいた
いものだ。まあ、今の公明党だって民主党と同様、自民党の二軍みたいなものだから、いてもいなく
ても同じっちゃ同じだけれど、僕としては創価学会が与党として政治に介入するのが不愉快なのだ。
この圧倒的な結果を受けて自民党は郵政を民営化するだろう。郵政が税金を払えば年間約四兆
円の税収になるそうである。この構造改革はやっぱりでかい。はっきり結果を目に見せてくれ。でない
と今度の選挙でひどい目にあわすぞ。

本日よりばりばりと仕事を開始。とりあえずフル回転で年末まで飛ばし、さらに年頭からまたばりばり
行く。僕が本気出したら凄いよ。

9月7日(水)
また歌舞伎に行っちゃった。どーせ遊びほうけてますよ。ヘムッ。
またしても妻と二人で出かけたわけだが、今回いろんな意味から「一幕見席」ってところへも行っ
てみたくなって、早めに家を出て昼の部の最後「東海道中膝栗毛」を900円で見た。富十郎と
吉右衛門の弥次喜多で、マーゆるいのゆるくないの。場面転換が多い割りに内容がないよー。
「お化けが出たー」幕。「太鼓を叩けー」幕。失笑の爆笑、失爆笑の連続だった。しまいにゃあ「愛・
地球博」のモリゾーとキッコロまで出てきたからね。ギミア・ブレイク。
夜の部は都民歌舞伎鑑賞だか何だかの抽選が当たって半額で手に入れた二階席のチケットを
持っていたから、花道もちゃんと見えた。演目は「平家蟹」「勧進帳」「忠臣連理の鉢植」の三本。
僕は実は今回、そんなに期待していなかったのである。あんまり話題の公演でもないし、吉右衛
門も富十郎も、勘三郎や玉三郎に比べれば、イマイチ華がない印象があったから。まあ歌舞伎
一年生にふさわしく、ナマで「勧進帳」を見るのもいいだろう、くらいに思っていた。
「忠臣連理」は途中から結末も予想がつき、主人公のキャラクターにも好感が持てなかった。しか
しそれを補って余りあったのが岡本綺堂作「平家蟹」、そしてとりわけ「勧進帳」だった。
「平家蟹」は「名作歌舞伎全集」にも収録されていないから、綺堂の中でも地味な作品なのかも
しれない。解説によると綺堂らしくない作品でもあるそうだ。しかしこれは本当に本当に圧倒され
た。平家滅亡後の壇ノ浦で、源氏への恨みを噛み締めて生き残っている玉蟲姫の話。この玉蟲
というのは、那須与一が扇を弓矢で打ち落としたとき、その扇を打ち落としてみよといったお姫様だ。
だから那須与一のことを呪っている。ところが姫の妹・玉琴が、那須与一の弟と恋に落ち、夫婦と
なってしまうのだ。これにより玉蟲の怨念は狂気となり、実の妹とその夫を毒殺、というかほとんど呪
い殺してしまう。怨嗟の念に狂乱した姫はそこから海へ向かい、波に飲まれるところで幕となるが、
全編これ驚嘆すべき緊張感と陰気な空気に満ち満ちていた。
平家を滅ぼせる源氏のやつばらを、末代までも呪ってやると玉蟲は、海辺の侘び住いに寄ってく
る平家蟹に向かって語る。この蟹は作り物だが滑稽なところは微塵もなく、見事に薄気味悪い。
その呪詛はまるで、9・11以後いわれている「憎しみの連鎖」を思い起こさせ、人の憎悪というも
のは、結局は空疎であるにもかかわらず、決してなくなることはないと、観る者に訴えているようだ。
芝翫という老優が、派手派手しくない鬼気迫る名演技だった。終幕、二人殺した玉蟲姫が、家
の後ろの海に向かって進んでいく。これは舞台を回すわけだが、回るにつれて海が広がっていくのは、
「俊寛」と似ている。けれどもここでの海の広がりは、そのまま姫の怨念が物象化したかのように、
薄暗く無辺で恐ろしい。歌舞伎座の舞台の大きさを、目一杯つかった見事な視覚効果だった。
「勧進帳」の話は、誰でも知っている。頼朝と不和になった義経をみちのくまで逃がすべく、弁慶と
四天王が山伏に身をやつして安宅の関につくと、そこに富樫という関守がいて、弁慶と丁々発止
のやりとりをするのだ。本当の山伏なら勧進帳を読んでみろといわれて、弁慶はありあわせの巻物
をさも勧進帳であるかのように読み上げるとか、芝居の最後に飛び六法をするとか、小学生の頃か
らそれくらいのことは、知ってる人は知ってるものだ。
だから僕はこの芝居見物を、いわば歌舞伎鑑賞の段取りみたいに思っていた。「ま、観なきゃいけ
ないからコレも一回観ておいて」くらいだった。ところがびっくり、芝居を見ながら僕は泣いてしまった。
隣を見ると妻も泣いている。途中から涙がぽろぽろこぼれてきたのだという。予想もしていなかった
感動だった。
いったい忠義ということ、職務遂行ということは、現代日本ではあまり重視されていないモラルであ
って、僕も妻も普段そんなモラルを持って生活しているわけではない。それなのに僕たちは、弁慶
が何とかして無事に義経をここから脱出させようと、場当たり的に知恵を絞っているその必死の忠
義心に涙が出るのである。悲しいのではない。切ない、といったらセンチメンタルに過ぎるだろうか。
弁慶や義経だけではない、富樫だって決して悪人ではないのだ。本来どちらも源氏方であるとい
うのに、兄弟の不和によってかたや詮議し、かたや詮議される身の上になってしまったという非情。
世が世であれば富樫とて、「判官どの」を敵にするなど、ありえない話なのだから。
芝居の内容もさることながら、その舞台に立ち現れた、俳優たちや長唄連中、裏方たちに至るま
での、この芝居を大事にしようという気持ちに僕たちは泣けたのかもしれない。およそ「勧進帳」ほ
ど舞台に上げられた日本の演劇はおそらく他に類がなく、今日演じた吉右衛門も富十郎も、磨
り減るほどに見得を切り、六法を踏んでいるに違いない。しかしそこには、数をこなすというような
惰性はまったく見られず、すべてが新鮮で緊張感に満ちていた。ひとつひとつの動きがシャープで、
台詞のひと言ひと言に張りがあり、大袈裟でなく、人間の偉大を感じさせた。まこと人間は、あれ
ほどまでに威厳に満ち、あれほどまでに美しくありうるのだと思った。
もう本当に歌舞伎のトリコだ。しっかり働かないといけない。妻は明日、徹夜で仕事だそうである。

9月6日(火)
僕はイラッとしているよ。今度の文藝賞(河出書房新社)の受賞者が、なんでも15歳の女子
中学生に決まったそうじゃないか。
なんなのそれ。
確か「このミステリーがすごい!大賞」でも、12歳の女性の作品がかなり有力、もしかしたら受
賞したかもしれないって話でしょ。僕もお世話になっている小学館の、小学館文庫小説賞が、
これまた15歳女性。ハタチそこそこの女性二人が史上最年少芥川賞になったのは、記憶に
新しい。
はっきりいって、こんなの狂っている。
もちろん、書き手が狂っているのではないよ。僕は彼らの作品をほとんど読んでいない。彼らが
悪いことをしたわけでないのは当たり前の話だ。だいいち15やハタチで、狂っているかどうかを
見定めることなんかできやしない。
彼らは全員、小説賞の受賞者だ。ということは彼らを受賞せしめた選考委員がいるわけである。
また選考委員の背後には編集者がおり、出版社があるわけである。これら「文学業界人」たち
の根性というか底意というか、腹の中が僕には判らない。彼らは読者の目をまっすぐに見つめて、
「私はロリコンではありません」ということができるんであろうか。
いや、ふざけているんじゃない。これは現代の文学に関わる大切な話だ。僕は商業出版社から
著作を出すということを、軽く見ていない。ロリコンでなく十代の女性を次から次へと小説家として
デビューせしめたのであるのなら、彼らは自分の選んだ書き手が、樋口一葉やよしもとばななレ
ヴェルの圧倒的才能の持ち主であると主張しているのと同断である。少なくともその覚悟がなけ
ればならなかったはずだと思う。
もしも「いや、そんな凄いわけではないです」というのなら、彼らは文学をなんだと思っているのだ
ろうかと、僕は訝ってしまう。文学は大人の仕事であり、子供や少年、いや青年にすら相当の
難物であると僕は思う。学校に行っているような人間に文学は無理である。人間の幼い時期
を描く文学はもちろんあるが、それを書く人間まで幼くては話にもならない。
若い女性にしかない感性とか、既成概念にとらわれないとか、繊細さとか、そういう文句をよく聞
く。だから幼いけれども選んだんだと。ところで、若い女性に特有の感性や繊細さや何やらに魅
了されること。これを一般にロリコンというんだ。十代の女性が書いた小説をいいと判断するのは
ロリコンである。我ながらすげえ独断だが、そうじゃないというのなら誰か反論してくれ。
すると当然、ロリコンだって文学だという考えが浮上してくるだろう。でもそれは全然違う位相の
問題だ。ナボコフの『ロリータ』は文学だが、あの小説における、ロリータに対するハンバート・ハン
バートの偏執的な愛情は、文学ではなく犯罪である。換言すればナボコフは文学者だが、バン
バートは犯罪者なのだ。少女と呼んで差し支えない年齢の女性が書いた小説に魅了されるいい
歳したおっさん、というテーマは文学でありうる。現実社会に存在する少女の小説を称揚してコ
マーシャリズムの俎上に乗せて少女にも金をやり自分らも儲けるというのは、まさか犯罪とまでい
わないが、かなり相当イヤラシイ、品位に欠ける行為というほかない。
彼女たちの小説を出版すれば、話題にもなり売り上げも上がる。藤谷治の小説なんかより何倍
も売れるのである。売れるということは作品の価値を認める人がたくさんいるということだろう。という
ことは藤谷が何をいおうと彼女たちの作品はいいものなのだと、反論してくるかもしれない。実をい
うと、僕はその意見に賛成なのである。少女の書いたものを少女が共感する、少女じゃなくても
共感する、それは作品の力以外の何物でもない。僕は少女の書いたものに共感する少女の感
性なんて高が知れていると思うし、そういうものを提供するのは読者を甘やかし、レヴェルを落とす
ことにつながると思うけれども、それでも売れる小説というのは時代をつかんでいることに間違いは
ないのである。だから少女の書くものを商品にしている人たちも、ロリコンではあるが犯罪的では
ないのである。品格はないが正しいのである。文学は奇麗事ではないのである。商売となれば
ましてそうだ。

8月26日(金)
歌舞伎座にて「法界坊」。二階席のいいところを苦心してゲットしたのだ。
なんだか遊んでばっかのように見えるかもしれないが、このところ仕事しかしていないので、日記
を書く気が起きなかったのです。すいませんね。
歌舞伎座に行くのは妻は初めて、僕は二度目だが、前回は幕見席だったので歌舞伎座とい
う建物は見ることができなかった(幕見席は四階にあって、ほかの階との連絡はまったくない)。
早めに行っておのぼりさんにふさわしく、写真などバチバチ撮る。
法界坊は良かったねー。いいとは聞いていたがこれほどいいとは。勘三郎は法界坊をやるのが
楽しくてしょうがないといった感じで、次から次へとくだらないアドリブをいって笑わせる。最初はた
だ腹を抱えて笑っていただけだったが、そのうち勘三郎はじめ演者たちの、観客を楽しませるた
めならなんでもするぞといった気迫に圧倒され、おかしいのに鳥肌が立った。脇ではほかに亀蔵
という俳優を初めて知ったが、見事だった。あと勘太郎が親父に負けまいとしているようで素晴
しかった。
法界坊はエノケンやフランキー堺が映画でやっていることからも判るように、歌舞伎といってもヴォ
ードビルみたいなものだと思う。ただしものすごくよくできたヴォードビルで、演者がいくらでもふざけ
られるようになっているし、台本どおりに演じても相当面白いはずだ。やはり喜劇も今に残るもの
は違うと思った。
最初のうちはギャグ満載の芝居の運びが、進むにしたがってなにやら玄妙なところへ持っていかれ
てしまうのも面白い。俗の俗、ドリフのコントみたいな話が、大詰では人間の欲、執念、そんなも
のが立ち現れる感じだ。難しいことを考えなくてもいい芝居なのかもしれないが、そんなものにして
これだけ深みを感じさせる歌舞伎は、まったく舞台芸術の王様だと思う。
おのぼりさんにふさわしく、ハンカチだの生写真だの買う。帰りがけにふと見ると人だかりがしている
ので、行ってみるとやがて勘太郎が出てきてみんなにサインしていた。偉い。

8月15日(月)
僕はこの日記で、これまで第二次世界大戦について何か書いたことがなかったような気がする。
今日は書いてみたい。
戦後六十年というけれど、六十年など大した時間ではない。少なくとも大きい破壊や衝撃の記
憶を、人から失わせるほどの年月ではない。中国や韓国の今の人たちが、1930年代の日本の
植民地支配について憤っている様子が、今日のテレビではあちこちで見られた。彼らは僕と同様、
植民地支配の記憶を持っていないが、記憶を持った人に育てられ、知識を持っている。憤るの
は当然のことである。
僕もまた憤っている。もしも中国や韓国の人たちの中に、僕に日本の植民地支配や中国本土
での戦争について憤る資格や権利がないという人がいたら、僕はその人を軽蔑する。なぜならそ
の人は日本人に対して差別的だからである。
今ここに、銃剣を持った異国の兵隊が大挙して押し寄せ、今日からお前は俺たちの奴隷になれ、
お前の女房は娼婦に取る、子供は殺す、といわれたら、それを恐怖し、激怒し、侮辱と悲しみ
に胸の割れる思いをするのは、日本人だろうと中国人だろうと同じことだ。そういうことを、かつて
日本人は中国人、韓国人に対して実際にやった。当時の日本が政治的にどうであったか、経
済的にどうであったか、貿易や外交はどうであったか、そんなことは何の関係もない。まして言い
訳にならない。他国の領土に侵入し、植民地として支配し、次から次へと人を殺して回った事
実に変わりはない。日本では地上戦は沖縄でしか起こらなかったそうだが、中国では市街戦ば
っかりだ。殺人者の顔が見えるというのは、より深く恨みを残すだろう。
一方で僕は自分の祖父が中国で戦病死したことを、やりきれない気持ちで悼んでいる。祖父が
いくつで死んだか忘れたが、今の僕より若かったことは間違いない。この世の誰が、家族を置いて
兵隊靴を履かされて、見も知らぬ外国の地で四十を待たずに死にたいと思うものか。なんで祖父
はそんな目にあったのか。
僕は戦争というものを、政治的に見たり経済情勢で見たりすることは、大間違いだと思っている。
戦争は個人の目から見なければ本当に理解したことにはならない。個人の目から見た戦争とは、
ある日突然空から爆弾が落ちてくるということであり、外国人に家を焼かれるということであり、強
制連行されて自国のために人殺しをしなければならないということだ。つまり不条理である。戦争
をするにはそれなりの理由があるのだ、と考える人には、この不条理は判るまい。想像力が致命
的に不足している。
戦争は、そのすべてが犯罪である。すべてがだ。戦争をするということ、それ自体に戦争責任はあ
る。僕は日中戦争の戦争責任は日本にあったと思うが、それはしかし原爆投下の責任がアメリカ
にあるというのと同じことで、本質的には不毛である。それなら原爆を投下された日本は戦争でひ
どいことをしなかったのか、日本に植民地支配された中国は戦争でひどいことをしたことはなかった
のかという話になってしまう。
日本人はかつて恐ろしい戦争をした。だからまた日本人は戦争をするだろう、中国や韓国を植民
地にするだろう、と考えるのは人種差別である。中国だろうと韓国だろうと、日本だろうとどこだろうと、
今後もどこかで誰かが戦争をしたがる可能性は常にある。それをこそ恐れなければいけない。

8月8日(月)
いやー見直したよ小泉首相。おみそれしました、面白いっ。
予想以上の大差で郵政民営化法案は参議院にて否決。よって首相は衆議院即日解散決
定。解散に反対した大臣一名を罷免しただけでなく、民営化に反対した自民党議員には公
認を与えないと明言、分裂選挙に突入、ついでに選挙で負けたら退陣も宣言。これが今日一
日で全部起きた。やったね。
選挙は早くも来月11日だそうである。この選挙くらいどうなるものやら見当のつかない選挙も珍
しいのではないだろうか。だいたい有権者がどう考えるか判らない。有権者というのはつまり、僕
自身のことだ。
今回は自民党に入れるのも味がある、と思えるのである。なんとなく小泉純一郎ファシズムって
感もあるが、それでも入れてもいいかなーと思うのは、反対派議員があまりにもナサケナイからだ。
今日のテレビに一番出てきた反対派議員は荒井広幸氏だと思うが、もう見るからにビクビクして
いた。ちょっとつっつけば泣きそうであった。しかも荒井氏は、反対する自民党議員の「血判状」
を持っていた。けけけ血判状? 刀か何かで指を切って、血で判を押したってか(朱肉で押した
ら勿論「血判状」ではない)? まじで? そんなことをやる国会議員、どう思う? 新撰組とか
「盾の会」の血判状なら格好もつくが、国会議員が血判状なんて、たんなる野蛮なナルシシズ
ムでしかない。
野田聖子氏は、反対した私たちこそ真の自民党、みたいなことをいっていたが、だったら何? 
何がいいたいわけ? 公認をくだせえとハッキリいいなさい。
僕には亀井静香氏も平沼なんとか氏も誰も彼も、反対派議員は怯えているようにしか見えな
かった。あんなんじゃ何にもできやしねえや。お里が知れたね。
それに比べて山崎拓氏の傲岸不遜ぶりはどうだ、ええ? あの男は愛人に向かって「女は堕胎
すると性感が良くなる」などと地獄の鬼もいわないことをいって落選した男ですよ。それが今では
首相の右腕。これぞ悪。ある番組で荒井広幸氏がキャスターを挟んで並んでいたが、とても同
じ商売やってる男には見えなかった。悪そのものって感じだった。悪と弱とでは、悪のほうが圧倒
的に魅力あるのはいうまでもない。でも不愉快。
野党はというと、まあ気持ちは判らないでもないが、ちょっとハシャギ過ぎ。特に民主党はもう天
下取ったみたいな顔している奴もいた。まーそれも面白いかなー。でもやっぱ駄目だ、あんなの。
自民党の二軍みたいなもんじゃない。
そうしていくと、まことに投票したいと思わせるところがないんである。公明党も社民党も冗談じゃ
ない。共産党は、実は僕にはちょっとだけ魅力的なんだけど、でもなあー。あれじゃあなあー。
ほんと、どうしよう。

8月6日(土)
7月31日の日曜日に、『いなかのせんきょ』の初稿は完成していたんである。それなのにどうし
て今日まで日記を書かなかったかというと、端的に疲労困憊していたからだ。とにかく一週間は
休もうと思ったわけ。
出版社の人たちとも会い、取材もちょっとは受けて(今度の10日に発売される「文芸春秋」に
ちょこっと出ます)、これからまたひと働きもふた働きもしなければならないと、今から楽しみにして
いるんだが、この一週間は全然力が入らなかった。
そこへ持ってきて格好のお家騒動が持ち上がってくれたからありがたい。気分だけでも活気付く
ではないか。いうまでもなく郵政民営化問題のことをいっているんである。僕は郵政民営化、も
ちろん賛成だ。しかし今はもうそんなことはどうでもよくなっている。見ものなのは今度の月曜日、
民営化法案が参議院で可決されればよし、否決されれば小泉純一郎首相は衆議院を即日
解散して選挙になるという、ここだ。
もちろん僕はありうべき一番面白いことになればいいと思っている。すなわち法案が否決されて、
衆議院が解散して、新党も大急ぎで作られて、選挙で民主党が大勝して、公明党が擦り寄
ろうとして恥をかき、しかも民主党内閣がボロボロのデタラメになる、という、しっちゃかめっちゃか
の展開を期待している。
しかし世の中というのはなかなか面白いことは起こらないようになっている。だから今度のことも、
なーんだ、みたいなことになると思う。つまり法案が可決されるとか、否決されても解散しないと
か、解散しても、反対票を投じた衆議院議員も自民党は公認して、結局現状と大同小異
の自公連立が続くとか、そんなところだろうと思う。つまんないねえ。
ここまで書いて、野田聖子氏のホームページを見たら、今の郵政民営化法案は駄目なんだそ
うだ。ていうか民営化してはいけないそうだ。そうなのかもしれない。でも僕はことを荒立てるのが
大好きだ。だから民営化に賛成して、郵便局がとんでもないことになって、葉書が届かなかった
り、現金書留から金を抜かれたり、いなかの暮らしがますます不便になったりすれば、それはそれ
で混乱するからいい。日本はもっと混乱しなさい。平和のありがたみが判る。

7月26日(月)
ああもう26日かー。『いなかのせんきょ』は260枚突破してクライマックスをどうするかという難
問に頭からぶち当たっている状況。書くよりほかに解決方法なし。
ところで話はころっと変わるが、妻はよく自分の見た夢の話をしてくれる。たいていはその場で
聞いて忘れてしまうんだが、今回は面白くて笑ってしまったので、ちょっと書いておく。
それは橋下弁護士の出てくる夢である。橋下弁護士って、最近テレビによく出てくる、なんか
芸人ぽい可哀相な人。あの人が医者をやっている。妻はどこか調子が悪くてそこを訪れるの
だが、橋下弁護士医師は、「じゃ、注射しといて」という。自分で自分の膝に注射しろというこ
とらしい。橋下弁護士医師は部屋の遠ーいところにいて、喋ってるだけ。妻の前に注射器が
ある。「そう、それで自分注射しといて」とまたいわれて、妻はもうちょっとで注射するところだっ
たが、ふと気がついて急激に腹が立ち、
「ふざけんじゃないよっ。どうして病院に来て自分で自分に注射しなきゃなんないのっ。やって
らんないよっ」
と注射器を投げて病院を出て、自転車で友達と約束していた飲み会に向かう。するとその飲
み会に橋下弁護士医師が同席しているので、いやんなっちゃった妻は「あんな奴のいる飲み
会にはいられない」と、自転車に乗って帰宅する。
この夢の話を聞いて僕は腹を抱えて笑ったんだが、今こうして書いていても笑ってしまうんだが、
うまく通じているかどうか、不安だ。

7月19日・20日(火・水)
このところ毎日ワープロを叩きまくって『いなかのせんきょ』という小説を書いていて、ほかのこと
は何にもしていないので、これでは気が狂ってしまうと判断、妻も仕事仕事の日々であり、何
でもいいからのんびりしたいと家庭内で衆議一決し、箱根一泊旅行。
芦ノ湖周辺をぶらぶら歩いていたら、ウグイスの声が聞こえた。見上げると緑に覆われた山々
である。何にもしない。それが嬉しい。白鳥の頭がくっついた足こぎボートに乗って大笑いし、
夜は古い温泉旅館に泊まって、露天風呂に心行くまで浸かった。
翌日は彫刻の森美術館。旅なれた人や、美術に詳しい人が、あそこのことをなんといってい
るか知らない。きっといいことはいっていないと思う。いかにも俗だ。でも僕はなんでか好きなん
だね、箱根彫刻の森美術館。ピカソのいい絵があった。笑っちゃうような彫刻も、芝生からたく
さん突き出していた。芝生に寝転がってもいいようなところはひとつもなかった。その代わり、と
いうわけでもないだろうが、足湯ができていた。ぼけーっと過ごした。
その帰りに湯本にある「ユトリロ」っていうクラシックな建物の喫茶店に入る。いったいどういう由
来のある喫茶店なのか、ひどく天井の高い洋館で、中にはユトリロのやや線の弱い絵画を中
心に美術品がびっしり置かれている。四谷シモンの実に見事な、気味の悪いほどに見事な
人形がいくつかあった。アイス珈琲を飲みながら、ここでもぼけーっと過ごす。
で帰ってきた。まるっきりそれだけのことだったが、行って良かった。帰るときには名残惜しいくら
いだった。パソコンの画面を見ない二日間。眼底疲労が直った。

7月6日(水)
新百合ヶ丘にてスピルバーグの新作『宇宙戦争』。これはスピルバーグの作品のなかでも、
もっとも好きな作品だ。
原作はもちろんH.G.ウエルズの歴史的傑作だが、映画は原作の精神に敬意をはらい
つつ、原作の文明論的な側面よりも、不条理劇的な面を強調している。主人公
レイ(トム・クルーズ)は平凡な港湾労働者で、自分の幼児性を認めようとしない駄目な
人間。たまたま離婚した妻の許から二人の子供が訪問した日に、宇宙人の襲来がある。
SF的な状況を映画や小説で表現する場合、もっとも困難なのがリアリズムだろう。宇
宙人が地球人を攻撃してくるところを、どうやっらたリアルに描写することができるのか。
この映画ではそこを見事に描いている。つまりトム・クルーズは、ただもうひたすら逃げる
一方なのだ。宇宙人をじっくり見たり、謎を解明すべく危地に乗り込んだり、一切やらな
い。ただもうびびって逃げて、頭などぜんぜん使わず全身全力で走る。だからこの映画で
は、宇宙人は七割がた部分的にしか映らない。奴らが何をしているのか、何のつもりなの
か、ぜんぜん判らないし、合理的な(地球人的な、というべきか)説明は不可能だ。しか
しトム・クルーズはそんなことに関心がない。とにかく逃げる。死にたくなくて、子供たちを助
けたくて逃げる。じゃ、良き父親なのかというと全然そんなことはなく、ピーナツ・アレルギー
の娘にピーナツバター・サンドイッチを作ってやろうとするていたらく。戦争終結も主人公の
活躍とは無関係だ。
あんまりこの映画、評判が良くないようである。それはそうかもしれない。全体にとってもお
金がかかっている感じがする一方で、印象は地味だから。だけど僕にとっては面白い映画
だった。でも多分、DVDは買わない。



過去の日記
(2005年4月〜6月)
(2005年1月〜3月)
(2004年10月〜12月)
(2004年7月〜9月)
(2004年4月〜6月)
(2003年10月〜2004年3月)
(2003年8月〜9月)

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