12月30日(金)
まったく落ち着かない年末。仕事も残ってる。やれるだけのことはやったんだから、もうこれくらいでいい
だろう。今年はよく働いた。来年も忙しくなる。
本日をもって「フィクショネス」はお休み。来年は5日の木曜日から営業いたします。
下北沢は静かなもんだ。やっぱりみんな、田舎からいらっしゃってるのね。
よく働くことができたということは、いい一年だったということである。僕の個人的な今年の十大ニュース
は、もちろん順不同で、
・古川日出男さんと知り合いになった。
・よしもとばななさんとお酒を飲んだ。
・西加奈子さんと仲良しになった。
・『恋するたなだ君』上梓。
・『試験に出る不屈闘志物語』上梓。
・『いなかのせんきょ』上梓。
・税務署の人に申告をじっくり指導される。
・妻がタンゴを始めた。練習しているところしか見たことないが、けっこう格好いい。
・『恋するたなだ君』韓国語翻訳開始(これについては後日詳しく報告できそう)。
・そして歌舞伎、歌舞伎、歌舞伎。妻と一緒に歌舞伎三昧。
……すごい年だったな、こうして見ると。いいことばっかりあったみたいで。そんなわけないけどさ。でも
いいことがいっぱいあったことは確かだ。
小説を書くという仕事は楽なもんじゃない。でもやりがいはある。それにやらなきゃいられない。今年は
とりわけ、そういうことを実感した年でもあった。
来年は、本当にどうなるんだろう。なんだかいい予感がする。しっかり仕事をして、奥さんに感謝して、
友だちを大切にして、身を慎むようにいたします。できるだけ。
じゃ、みなさん、どうかよいお年を!

12月27日(火)
本屋によってあれこれ立ち読みしていたら、今話題の『あらしのよるに』っていう童話が文庫になったの
を発見、一読あきれ返ってしまったので、ちょっと書かせてもらう。
これは嵐の夜に羊と狼が真っ暗な山小屋の中で一夜を明かすところから始まっている。暗いのでお互
いが何なのか判らない。闇の中で二人は再会を誓う。
「明くる日、この丘の下で、何が起こるのか。/木の葉のしずくをきらめかせ、ちょっぴりと顔を出してきた
朝日にも、/そんなこと、わかるはずもない。」
と、『あらしのよるに』は終わっている。なかなか悪くない。これでいい。
ところがどっこい、なんとこの童話には続きがあるのだ。続く『あるはれたひに』では、狼と羊は白日の下
に再開し、岩山を散歩する。さらに続く『くものきれまに』でも同工異曲。こんなシリーズが、全部で七
作あるんだそうである。
そんなの間違っているだろう。なぜ1作でやめておかなかったんだ。
仲良きことは美しき哉、ってメッセージは判る。いいメッセージだそれは。でも狼と羊が仲良く散歩するな
んていうのは間違っている。いろんな意味で腹が立つ。
狼は羊が大好物で、折に触れて一緒に歩いている羊を食べたくなるのだが、「ともだちだから」みたいな
理由で、ガマンする。ガマンし続ける。
なんでよ? 狼が羊を喰らうのは本能であり生命の欲求であって、倫理や友情とは何の関係もありゃし
ない。それを食わせないのは作者の傲慢である。狼に友情なんかない。羊にもだ。
これはたとえ話なんだよ、という人がいるかもしれない。でも、何のたとえなのだ? 仲良きことは美しき
哉、のたとえだとしたら、狼が自己の内なる本能に逆らって羊を食わずにいる、なんて話はふさわしくな
い。繰り返しになるが、狼が羊を食いたくなるのは、ある個体の狼の責任でもなければ、個体として制
御できるものでもないんだから。狼が羊を食うのが残酷なら、僕やあなたが牛丼を食うのも残酷である。
そうだ、これはまったく、狼を人間にしたら、成り立たない話ではないか。この話の狼が人間なら、羊は
牛丼に該当するわけだが、人間と牛丼の間に友情が芽生えるという話を人に納得させるのには、長
新太なみの才能が必要になるだろう。長新太の傑作『キャベツくん』では、キャベツ君とブタヤマさんが
道であって、「おれは腹ペコなんだ、だからキャベツ、お前を食べる!」と迫るブタヤマさんに、キャベツ君
は妖術で対抗するんである。ラストでキャベツ君は、ブタヤマさんをレストランかどっかに連れて行ってあ
げる。実にしみじみと素晴らしい。
ひるがえってこの『あらしのよるに』では、まず「友情は素晴らしい」ってテーゼが絶対的に君臨していて、
狼の本能はそのテーゼに隷従を強要されている。そんな風に友情を語られて、納得できる子供がいたら
それは危険だよ。
人と人とが仲良くなるのは大変だ。ウマの合わない人や、利害の対立する人とであればなおのことであ
る。そのことは子供に教える価値がある。でも友情は宗教ではない。政治ではない。食欲や性欲に勝
るものではない。人と人とが仲良くするって状態は、人がそれを強い意志でもって選ばなければ成り立た
ないんだ。狼と羊のあいだに成り立つような、そんなオメデタイものではない。

12月26日(月)
都民半額のチケットが当たったので(と、きちんと言い訳しなきゃいけない)、妻と歌舞伎座。昼の
部の楽日。
まずのっけから「弁慶上使」。頼朝の命によってお姫様の首を刎ねることになった家臣が、身代わ
りに腰元の首を切ることにする(ってオイ)。腰元の母親が狼狽するのを家臣がいさめる(いさめんな
よ)。しかし腰元の覚悟はできていた(若いって無茶だね)。けれども母親は、たった一度情けを交
わしたその娘の父親の顔を見るまでは死なせられないと訴える(それはそうだろう)。しかしその前に
腰元は、頼朝の命令を持ってきた使いの弁慶に、背中を刺されて死んでしまう(卑怯すぎる弁慶)。
ところがその腰元の父親というのは、ほかならぬ弁慶だった(あじゃぱー)。お姫様の身代わりが出来
上がったので、家臣は腰元の首を切り落とす(いい加減にせい)。そしてその家臣もいきなり腹を切
るのであった(なんで?)。「なんで?」と泣き叫ぶ家臣の妻に、私の首が並んでいたら、頼朝も身代
わりとは思わないだろう、だからね、と説明(それで死にますか)。弁慶は大泣きしながら首を二つ持っ
て花道を帰っていくのであった。おし、まい。
弁慶を演じた中村橋之助はプログラムの中でこの芝居を「歌舞伎らしさが凝縮している」と評してい
る。恐らくその通りだろう。だってこんなワケワカンナイ芝居を見ながら、僕たちは妙に感動しちゃったか
らね。演劇ってどれもそうだろうけれど、その場にいた人間にしか判らないものがある。後になって話の
筋を整理すれば、上記のごとく荒唐無稽のきわみなんだが、橋之助、福助、弥十郎といった役者た
ちの立派なたたずまいを目の当たりにすると、なんでだか知らないけど感動がじわじわーっとこみ上げ
てくるのである。
続いて勘太郎、七之助の兄弟が踊りの二本立て。勘太郎はいいね、セクシーだ。しかしよく見ると膝
の下に大きな青あざができている。大事にして欲しい。
そして今回のメイン・イベント、勘三郎と玉三郎の「盲目物語」。谷崎純一郎の原作を宇野信夫が
かなり自由に脚色している。幕が開くといきなり勘三郎が一人でいるので見物もびっくり、掛け声も後
手に回る。柴田勝家や木下藤吉郎(秀吉)の出てくる合戦絵巻を、一人の按摩に語らしめる。芝居
も堪能したが、つくづく戦国時代の武士やその妻や娘というのはつらいなと思った。
原作と脚色では、どう考えても原作に軍配を上げざるを得ないが、それでも芝居は面白かった。美し
いがゆえに戦乱の世に翻弄されるお市の方を玉三郎が演じたが、もはや若くない玉三郎が熟女の
魅力を品良く出していた。劇中琴を弾くんだが、かなり上手いんじゃなかろうか。
勘三郎は按摩と木下藤吉郎の二役。早替りで楽しませるし華のある俳優だが、何だろう。何が足り
ないのだろう。こういう芝居では特に、客を笑わせない気迫や格の大きさが必要なんじゃないだろう
か。ナマイキいって、すみません。

12月23日(金)
ただでさえ書き下ろしで押し詰まっているところへ年末調整、ほんの数日早めてくれればと向こうは
いうけどこっちは身体ひとつ。師走どころか師猛ダッシュの今日このごろ、ってワシャどこの流行作家
様じゃ。筆がのろいんである。歌舞伎見物もするんである。がんばんないといけない。
藤谷だったらへんてこりんなものを書いてくるだろうと期待されるのは運の良いことである。こないだN
HKで書評家の豊崎由美さんにお会いして、「『いなかのせんきょ』、まだ読んでないけどパラパラ見
た限りでは面白そう!」といわれて嬉しかった。もちろんじっくり読んだら失望される可能性もあるわ
けだが、たとえそうでも読んで貰ったことに変わりはない。有難いことだ。
そういうわけで、仕事に戻ります。

12月14日(水)
国立劇場にて『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)。
半蔵門の国立劇場には初めて行った。素晴らしい劇場なんで驚く。どうせ国立の劇場なんてもん
は無粋に作られているんだろうと、たかをくくっていたのだ。それが設計にとても配慮がきいていて、二
階席なのに花道はたっぷり見える。一階から三階まであるが、二階と三階は階段が隔てがない。こ
れなら一番安い席でも、二階の前の方と、たいして遜色がないのではないだろうか。
座席もゆったりしていて、前の人の頭が邪魔にならない。歌舞伎座の席がエコノミーなら、ここはビ
ジネスクラスだ。食堂や土産物屋等も清潔感がある。
ただ、芝居が始まってから妻が指摘したことでもあるが、舞台に対する客席の視線が散漫な感じが
する。席がゆったりとしているために、見ているほうが良くも悪くもゆとりを持ってしまうのだ。もちろんゆ
とりは、ないよりあったほうが良いだろうが、なんか「鑑賞」って感じで、「見物」っていう気がしない。歌
舞伎はやっぱり「見物」したいものだ。その点歌舞伎座は、客が押し合いへし合いしている代わりに、
熱気がある。元を取ってやるというような、野卑なエネルギーがある。でも長丁場だと疲れる。一長
一短だ。
芝居そのものは大いに堪能した。大きな仕掛けもケレンもなく、ただひたすら台詞を聞かせる黙阿弥
晩年の傑作だ。幸四郎も染五郎も良かった。特に染五郎は見直した。あと時蔵は初めて見たけど、
華があるのにでしゃばりすぎず、いい色気を出していた。
河内山宗俊と直侍という、天保時代のアウトローを持ち出したこの芝居の初演は明治十四年であ
る。もう人々はちょんまげなんか結ってない。芝居小屋の外では華族や豪商がフロックコートにステッ
キ持って、銀座のガス灯の下を歩いていただろう。初演のときすでにこれは「ノスタルジー」だったのだ。
作者自身も還暦を過ぎ、もはやここには「白浪五人男」の派手さや、「三人吉三」の陰惨はない。
デコレーションである。しかしそれにしても、これほどまでに美しい言葉のデコレーションがまたとあるだ
ろうか。

「善に強きは悪にもと、世のたとえにもいう通り、親のなげきが不憫さに、娘の命を助けようと、腹に
企みの魂胆を、練塀小路にかくれのねえ、お数寄屋坊主の宗俊が、頭の丸いを幸いに、衣でしが
を忍ぶが岡。神の御末の一品親王、宮の使いと偽って、神風よりか御威光の、風を吹かして大胆
にも、出雲守の上屋敷へ、しかけた仕事のいわく窓。家中一統白壁と、思いのほかに帰りがけ、邪
魔なところへ北村大膳。腐れ薬をつけたら知らず、抜き差しならねえ高頬のほくろ、星をさされて見
出されちゃあ、そっちで帰れと言おうとも、こっちでこのまま帰られねえ」

書き写してもため息の出る名調子。これを幸四郎が演るんだから堪らない。歌舞伎見物はやめられ
ない。たとえ国立の観賞用劇場であろうとも。
(あと国立劇場のいいところは、歌舞伎座に比べてチケットが二割くらい安いことだ。一月の通し狂言、
鶴屋南北作『曾我梅菊念力弦』(そがきょうだいおもいのはりゆみ)は、三階B席が1500円ですっ
て。行っちゃおっかなー)

12月12日(月)
12時に祥伝社の渡辺さんと待ち合わせて池袋へ。『いなかのせんきょ』をたくさん置いてくれる本屋
さんを回ってサイン本を作るのである。前夜深更まで仕事をしたうえに池袋に来るのは本当に久し
ぶりなので、リブロ(じゃなくて、何ていうんだっけ今?)に到着したときにはかなり頭が朦朧となってい
たが、NHKでよく会う矢部潤子さんの可愛らしい笑顔に会って歌舞伎の話をしたらいっぺんに頭が
冴えた。有難う矢部さん。
それから東京駅に出て丸善の上村祐子さんに会う。上村さんも歌舞伎狂であるから話はそればっ
かり。渡辺さんは上村さんとお友だちだそうだが、そのへんを突っ込むのも忘れてしまった。
次いで新宿の紀伊国屋新宿南店で荒木さんと会う。荒木さんは僕のデビュー以来ずーっと賑やか
に僕の本を陳列してくれる天女のような人だ。もと三浦さんだったのが先ごろ結婚なさって姓が変わっ
たので、荒木さん用のサイン本には「祝結婚」て書いておいたよ。
最後に渋谷のブックファースト八木岡さん。この人も明るい愉快な人で、体力的にはきつかった東京
一週旅行の最後にふさわしかった。五時間くらい歩いたよ。
そのすべてに同行してくれた渡辺さんだが、この人もこのあいだ結婚なさったんである。新婚なんであ
る。にもかかわらずすべてを終えて帰りのエスカレーターで、「これから会社に戻って徹夜です」だと。
コラーッ! 死ぬ気かーっ。若くなければ絶対にできない仕事ですよ編集って。渡辺さんのためにも、
書店員さんのためにも、『いなかのせんきょ』は売れてもらいたい。ほかの本も全部だけど。なにとぞ
よろしくお願い申し上げます。

12月10日(土)
(読まれてるとなると、熱心に書くようになる。ゲンキンですね)
エラリー・クイーン『中途の家』(創元推理文庫)読了。今日はこれを元に、僕の推理小説に対する
感じ方を考えてみたいっ。
この作品はクイーン自身が三本の指に入る自信作といってるらしくって、何しろあの永遠の傑作『Y
の悲劇』を書いた人(たち)だから、さぞやと思って読んだんだが、100点満点で『Y』が120点なら
『中途の家』は95点くらいで、足りない5点はすっごくでっかい5点なのであった。
物語として、読ませる。それは認める。二転三転する話の運びと推理の行方。登場人物の中にも
魅力あるキャラクターはいくつかあって、娯楽小説として上々の出来である。
でも最後に犯人が判ったときの衝撃が足りない。5点足りない。この5点はでかいだろー。
僕はミステリのファンじゃない。尊敬の気持ちは持っているが、のめりこんだことは一度もない。そういう
人間は、かえって注文がうるさいのかもしれない。
まず第一に、推理小説の殺人は、深刻な問題でなければならない。よく昔の「新本格」みたいな奴
に、殺人や被害者を玩弄物のように扱っているのがあるけど、そういうのを読むたんびに、ああこの作
者は時刻表や設計図には詳しいが、人間のことはこれっぽっちも知らないな、と思えてしまう。クイー
ンの作品はあんまり読んでいないが、ドルリー・レーンは全部読んでいて、そこから判断する限り、決し
て殺人をカクテル・パーティの面白ネタ話と思っているわけではない。それはこの『中途の家』からも感じ
られる。
第二に、犯行は合理的で、かつ現実的でなければならない。いわれてみれば成程その通りと頷ける
犯行で、しかも犯人に都合よく物事が起こってはいけない。これは恐らく、クイーンのような人なら、み
ずからに課していることだろう。『中途の家』の推理は合理的で、かつ現実的である。
第三に、小説である以上、言語ですべてが解明されなければならない。よく推理小説についている、
家の間取りとか筆跡の図版とか、ああいうのは野暮に見える。言葉で全部を決着せい。『中途の家』
は、この点もクリア。
第四に、そこで扱われる犯罪は、単なる犯罪であってはならない。これは口うるさいと思われても仕方
がないが、人殺しをして、誰がやったか判らなくて、他の人が濡れ衣を着せられたりして、でも探偵が
出てきて真相を解明する、だけじゃあ僕には物足りないのだ。小説に扱われるほどの犯罪であれば、
そこに人間の暗い一面とか、運命の恐ろしさとか、社会の諸相とかが現れてしかるべきではないか。
『中途の家』の真相解明は、ただ合理的に考えれば犯罪者はこの人、というだけのものだと思う。
『Yの悲劇』はそうじゃなかった。最後に読んでからもう十数年経つが、今でもあの小説の中で行われ
たことを思い出すと、恐ろしさに鳥肌が立つようだ。あの小説は本格推理としての要件をすべて備え、
ゴシック・ホラーの雰囲気も併せ持ち、さらに人間というものの抑制しがたい凶悪というものを、描ききっ
ている大傑作だと思う。
常々思うことだけれど、推理小説を書くっていうのは、自分で宝物を埋めといて、それを探すさまを見
せるだけに終わってしまうことが、しばしばありはしないか。僕もいつかミステリじみたものを書くかもしれ
ないが、そのときには少なくとも推理小説のもつ可能性に対する敬意と、人間への恐怖だけは忘れ
ないようにしようと思う。

12月9日(金)
このところよく「日記見てますよ」とか「日記に書いてましたよね」などといわれる。どうも聞いた話では、
この日記を読んでいる人は僕の考えている以上に多いらしくて、誰とはいわぬが自分のことを書かれ
るんじゃないかと怯えている人もいないではないそうだ。そういう人たちにいっておくが、安心しなさい。
僕は人が書かれて困るようなことは書きません。
僕は酒の席や「フィクショネス」の中などで、調子に乗ればかなり毒も吐くみたいだ。豆を食べ食べ人の
悪口をいうことこそ楽しけれ、といった昔の偉い人もいる(誰だっけ)。でもそれを勝手に書き散らすのは
品が悪い。僕はほかのことでは相当品が悪いが、字を書くときだけは品位を重んじているのだ、これ
でも。
ところで全然関係ないが、昨日ほどあちこちから電話のかかってきた日はなかった。それもひとつひとつ
が大切な電話ばかりだった。ゴブリン書房の津田さんと、アートンの権さんからはどちらも『いなかのせん
きょ』面白かったですという有難い電話を貰ったし、小学館の石川さんや週刊朝日の宇佐美さんから
も電話があった。宇佐美さんには僕の書くものを気に入ってもらえて、これからちょくちょく書評なんぞを
書かせてもらう予定。あと本田みずほからも電話があったんだ。本田みずほさんは吉本の芸人だが、
たまにネタについて相談を持ちかけられる。ただし僕なんかじゃろくにアドヴァイスもできないけど。ほか
にも電話やメールがじゃんじゃん来た。しまいにゃもう錯乱してしまってモーイイヤーってすべてを投げ
出し呑みに行きました。おいしかったです。

今月アタマに発売された『いなかのせんきょ』、おかげさまで好評だそうだ。あっちにもこっちにもご挨拶
やお礼に行かなきゃならない。サイン本が欲しいという書店の方、お気軽にご連絡ください。でもどっち
かっていうと、メールをいただけるほうが有難いです。
メールっていえばね、話がコロコロ変わるけど、最近ソウルとメールのやりとりをしているんですわ。『恋
するたなだ君』が何とっ、韓国語に翻訳されるのですー! マジで凄いな。その翻訳者と文章につい
て、一緒に考えている。小説を書いているあいだは、自分なりに一字一句おろそかにしないよう書い
ているけれど、改めて自分の書いたものに責任を持つ大切さを痛感させられる。翻訳、もっといっぱい
話が来ないかな。

12月5日(月)
思うところあって佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を再読している。僕は書く商売を初めて
から、人の書いたものをできるだけ悪くいわないように心がけているが、この書き方は良くないのではない
かと思った。
東京電力のキャリア・ウーマンであった女性が会社からの帰宅途中で六年間売春を続けていた、という
事実は興味の尽きせぬものがある。著者も深甚の興味を持って追跡取材をしている。しかしこの被害
女性を特別な、圧倒的な存在であると思うあまり、文章がところどころセンチメンタルというか、メロドラ
マティックになっているのはおかしい。
「東電OLの仮面を脱ぎ捨て夜鷹となった・・・の姿には、坂口安吾が『堕落論』の中で『(引用省略)』
と述べた言葉を想起させ、私を感動させる。私は・・・の奇矯な行動にこころ動かされるわけではない。
堕落する道すじのあまりのいちずさに、聖性さえ帯びた怪物的純粋さにいい知れぬほど胸がふるえるの
である。」(引用中「・・・」の部分には被害女性の実名が書かれているので略した)
などと書いて、被害女性を聖女のごとく扱っているが、そもそも文章が甘いし、こんなことを書いていたん
じゃあ、ノンフィクションとしての客観性も疑われるのではないだろうか。かえって事件が安っぽく感じられ
る。
異常な事件として喧伝されるものに対しては、それについて書く人間は、冷静さを失ってはいけない。
冷静さが説得力につながるからだ。どれくらい冷静でいるのがいいかというと、異常を異常として見る目
を離れるくらい冷静なのがいいと思う。キャリア・ウーマンが娼婦として街角に立つということは、世にいく
らもあることである。またそういう部分を人の心は持っているという事実をしっかり踏まえていないと、事件
から浅いものしか汲み取れないのではないだろうか。

12月3日(土)
僕と妻とは、できれば子供が欲しいと思っている。そしてマンションも買いたいと思っている。これっぽっち
も贅沢なところのない、ささやかな希望に過ぎないが、最近のニュースを見ていると、そんなささやかな
希望が不安にぐずぐずにされてしまいそうだ。
広島で女児が殺されて、犯人が捕まったその直後に、今度は茨城で少女の遺体が発見された。広島
の事件が未解決のまま世間を騒然とさせていた最中に、同様の犯罪が起こったわけだ。
一戸建てよりもマンションがいいのではないかと僕たちが思っているのは、ひとつにはセキュリティが良さそ
うな気がするからである。ところが昨今のマンションの強度偽造問題を見ていると、セキュリティなんかいく
ら良かったって、建築物としてのセキュリティが手抜きであるならどうしようもないと思えてくる。一体どうやっ
てマンションを売ってくる会社を信用すればいいんだろう。そしてこの問題はさらに、驚くべき責任転嫁の
堂々巡りが続いており、これからも当分続きそうである。
人の心の恐ろしさは、実に腐った底なし沼のようだ。売り物をできるだけ安く仕入れるのは商売の原則
だが、それはあくまで「売り物」としての要件を備えている品に限るのであって、地震の国で地震が起こ
れば壊れるようなマンションは、売り物の資格はない。そんなことはどんな馬鹿でも知っていると思って
いたよ。それがアパレル業界では通用しないらしい。
仕事上の手抜きという点では、広島の事件でもそのうち問題になることだろう。犯人のペルー人は、ペ
ルーで幼女暴行容疑で指名手配されているそうだが、それはつまり日本の入国管理局が幼女暴行
犯人を入国させたためにこの事件が起こった、ということにもなるからだ。そしてマンションでは隣に誰が
住んでいるか判らず、通学路に誰が座っているか判らない。こうして疑心暗鬼と不安はいたずらに増
殖していく。
この疑心暗鬼と不安をいかにして解消、とまでいかなくても、せめて減少させ、明るい気持ちを回復さ
せるか。僕はそれは、小説の役目だと思っている。どんなに不安で怖くても、希望を失っちゃ駄目だ。
面白おかしく暮らしていくことは善いことであり、金があろうとなかろうと、不安があろうとなかろうと、それ
は可能なのである。
今日から「フィクショネス」で、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲をかけている。かけてみて、僕自身が本
当に長いことモーツァルトを聴いていなかったことに気がついて驚いた。アンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオ
リンはロマンチック過ぎるところがあるが、そんなことはどうでもいい。心に沁みるように美しい。もうちょっと
で泣いてしまいそうである。もしかしたら今の社会は、致命的なモーツァルト不足なのではないか。

11月28日(月)
世田谷税務署に行ってきた。申告についていろいろ話す。こういうことに関して僕は、もう病的なくらい
ズボラである。でもやってみると簡単なんだ申告って。税金も戻ってくるし。勉強になりました。
全然関係ないけど、こないだユネスコの世界無形文化遺産に歌舞伎が選ばれたね。めでたいなあ。だ
けど歌舞伎って、別に保護しなくても大丈夫なんじゃないの? いつ行っても八割から九割は席が埋まっ
ているもの。
歌舞伎が好きな理由はいろいろあるけど、そのひとつに「敷居が低い」ということがある。たとえば東京に
いて、数時間ヒマができたとする。ポケットの中には二千円。そしたらもうそれだけで、歌舞伎は見られる
のだ。ぷらっと東銀座に出て、一幕見席に行けばいい。あれは当日売りしかないうえに、ひとつの演目に
つき九百円とか千円とかでOK。そんな演劇ってあるもんじゃない。しかもそれで見られるのが、玉三郎と
か仁左衛門とか勘三郎ですよ。歌舞伎は庶民の演劇とかいうが、あれは真実である。
古典芸能は難しいし言葉が判らない、という人もいる。まったくその通り。だからイヤホンガイドを借りよう。
僕は最初、あんなもの借りるのは素人くさくてカッコ悪いんじゃないかと思っていた。とーんでもない。イヤ
ホンガイドは単に芝居の進み具合を話してくれるだけじゃなく、歴史的背景や、目の前でやっている所
作事の解説、面白エピソードや出てきた俳優の屋号まで、懇切丁寧に教えてくれるのだ。しかも芝居の
台詞が聞こえるよう、邪魔にならない工夫もされている。一回見ただけで、その芝居に関する知識がぐん
と増えるのは大きな楽しみだ。
世界無形文化遺産になったからって、どうというわけでもないが、これを機会に皆さんも是非、歌舞伎お
ひとついかがですか。

11月27日(日)
「フィクショネス」を始めた当初は、まさか自分がこれほどまでに忙しい身分になれるとは思ってもいなかっ
た。来年、僕がどれくらい仕事すると思う? まず連載は三本ですよ三本。ほかに書下ろしの約束がみっ
つあって、うちひとつは何としても今年中に初稿を書き上げないと、エライ目にあってしまうこと歴然たり。
今週は『いなかのせんきょ』も発売になるし、いったいどうなっちゃってんの? なんでお金持ちじゃないの
? なんで痩せないの?
ところで全然関係ないけれど、このところマンションやホテルの建築強度偽造問題が凄まじい勢いで報道
されているよね。僕はこのあいだビデオで『理由』という映画を観た。大林宣彦監督の傑作だ。それがあま
りにも強烈に胸に迫ってきたので、宮部みゆきの原作(新潮文庫と朝日文庫)を読んだ。それまで宮部
みゆきは、あまりたくさんは読んでいなかったんだけれど、まいった。宮部みゆきは日本文学の宝だと思う。
でこの『理由』で扱われているのが、高層マンション。内容は強度偽造とは関係ないけれど、いわゆる「億
ション」というものの陰部や問題点が、人間に悲劇として描きつくされていて、興味が尽きなかった。
マンションとは住居である。そして住居というのは物体ではない。社会に出て大活躍したり、名を売ったり
キャリアを積み上げたりしている人も、そこでは放心し弛緩して、思うさま気を緩めるのである。「気を緩め
る」とは、結局「人間になる」ということだ。住居において人は喧嘩もするしセックスもするし、大笑いするこ
ともあれば涙をこぼすことも、過去をかえりみることも将来を希望したり不安したりすることもある。
そんな人間になる空間が、やや強い地震が起きたら倒壊する、固いように見えるのは外見だけで、実情
はゆるゆるのぐにゃぐにゃであると、ある日突然告げられたら、それは人間性の根幹に関わる恐怖である。
なぜこんなことが起こったのか。
マンションを物体だと思っている人間が、とんでもなく大勢いるからだ。今度の事件が報道の関心を集める
のは、そういう人間が我々の予想を超えて大勢いるということが判明したからだろう。設計者はマンション
を「仕事の口」としか考えず、施工者は「建ってりゃいい物体」としか考えず、販売者は「売れりゃいい物
件」としか考えない。そしてこの流れの中で第三者的立場にあるはずのチェック機関は、何のことはない
こういう業界の一部に組み込まれているだけなのだ。
そして、ここでいう「設計者」とは「アネハ」のことではないし、「施工者」とは「キムラ」とは限らないし、「販
売者」は「ヒューザー」だけで済まないのである。これはアパレル業界全体に対する猜疑であって、この猜
疑心を晴らさない限り、恐怖は終わらないのである。

11月12日(土)
風邪を引いてしまった。だいたい先週の木曜日くらいからひどくなって、今はかなり回復したけれど、まだ
鼻が詰まってる。
何がつらいって、思うように頭が働かないのがつらい。頭が働いても、それを身体が実行できないのもつら
い。小説を書かないといけないし、ほかにもいろいろやることがあるのに、なんにもできない。
そんな中で7日の月曜日には、古川日出男さんと「小説NON」の対談をした。中目黒の高級イタリアン
レストランにてコース料理を食べさせてもらう。ワインは古川さんが選んだ。とても真似できない。かっこいい。
これは僕にとって、初めての対談だったのだ。相手が古川さんでよかった。古川さんは、小説はシャープで
ヒリヒリしているが、人間は心優しい、穏やかな人である。
古川さんは九月に『LOVE』を、僕は近々『いなかのせんきょ』を、それぞれ祥伝社で出す。それを縁にひ
とつ古川さんから小説原論を聞きたいと思っていた。そういう話はかなりできた。ただし対談にそれが反映
されているかどうかは判らない。
古川さんは取材で東北地方を二週間ばかりかけて旅した帰りだった。何だか圧倒的な体験をした様子
だったが、詳しい話は聞けなかった。話せなかったのでもあろう。次の小説に反映されるはずだから、今か
ら楽しみだ。
君はもう『LOVE』を読んだか? これは凄いよ。なんというか凄い。山手線でいうと品川、大崎、五反田、
目黒、あのあたりを舞台にした、さあこれは何ていうんだろう。著者は470枚のショート・ストーリー、って
いっている。それが正しいことは読むと理解できる。稲光のような一瞬の輝きの中に、さまざまなことが凄ま
じいまでに詰まっている。それは現代そのものだ。日本の現代文学が面白いという、物的証拠でもある。
必読。

10月28日(金)
先日収録した「名作平積み大作戦」で取り上げられた、サマセット・モーム『月と六ペンス』(新潮文庫)
を何気なしに読み始めたら止まらなくなった。
モームは高校生時代に夢中になって読んだ作家の一人だ。図書館にあった全集を、すべてじゃないが
六、七割は読んだと思う。中でも好きだったのは『お菓子と麦酒』『ランベスのライザ』それにこの『月と六
ペンス』だった。
高校生だから、主人公ストリックランドが人のいい知人の奥さんを略奪したあげく捨ててしまい、奥さんは
服毒自殺をする、というようなシーンは、とんでもなくどぎつくて厭な印象があった。けれども四十過ぎて
読み返してみると、まるでそんなシーンは面白いエピソードのひとつ、くらいにしか思えない。モームは小説
を書くのが上手い人であった。そしてうまく書かれた小説というのは、あっという間に古臭くなってしまうとい
うことも、モームを読むとよく判る。『昔も今も』とか『女ごころ』なんて小説は、今読んだらドッチラケかもし
れない。『月と六ペンス』だって、あちこちに古臭い装飾的な文章が目に付いた。
それでも面白くてたまらないのは、何といっても語り口のうまさに尽きる。翻訳は中野好夫だから、日本
語も一流だけど、もとが良くなければ翻訳だって上手くいくわけはない。人物を生き生きと描き、生き生
きと語らせ、場面の描写はやや過剰ぎみだと思ったけれど、それとて味がある。とにかく全編流れるよう
な語りで進められるので、読みながらこれはジェイン・オースティンにも匹敵するんじゃないかと思ったほど
だ。
小説が古臭くなってしまうというのは、これはもうどうしようもないことだ。時代は変わる。そして小説は、
時代と何の関係もなく書かれることはない。カフカやチャンドラーの小説みたいに、書かれた当時よりも
現在の方がよりよく読まれるということもあるだろうし、今もてはやされている小説が、あっという間に相手
にもされなくなることだってある。それは小説が古臭くなることとは、基本的に関係がない。(このへん独り
言みたいなものだから、人にはうまく通じないかもしれない)

ところで今日の読売新聞に、日本人の読書離れについて記事があった。なんでも40代の男性は大半
が月に一冊読むか読まないかだそうだ。ひどい話である。援助交際や家庭内暴力がなくならないわけだ。
読むっていったって、「君ならできる」とかいった類の自己啓発本だの、「カーネギー名言集」みたいなビジ
ネス書なんか、何冊読んだって駄目。文学、文学に、限るっ。
「いや私なんぞブンガクとは無縁の生活ですからね」などといって、読みもしないのに文学を軽蔑して「プレ
ジデント」を読んでいるヤカラがいる。こういうのは最悪にタチが悪い。そういう連中は自分が現代日本を
荒廃させているのに気がついていない。これは常識の基本だからいっておくが、文学はすべての人にとって
無縁のものなのであって、特に無縁だと断りを入れるような必要はまったくないのである。文学は金儲け
の役に立たない。買い物を安くすることもできない。ダイエットにもならないし筋肉もつかない。文学とは
徹頭徹尾、無用の長物だ。
そしてそこに、文学の重要性がある。文学はあなたを、ダイエットともマンションのローンとも、仕事や家庭
生活とも無縁の世界にいざなう。そこではリアルなことも起これば、頭がおかしくなりそうなことも起こる。あ
なたとは無縁の世界であるから、そこに入りこむのは時として容易でない。しかし文学に身を浸す経験の
あと目をあげて自分のいる世界、自分と無縁でない世界を見てみると、それはそれまでとは、ほんのちょっ
とかもしれないが、違っているのである。
この、違っている、ということ、これほど大切なことはない。読書という海底探検から陸に上がったときに、そ
れまでの陸地とは違って見えること、その違う分量が、あなたという人間なのである。あなたがあなたになる
こと、これに比べたら、金儲けなんぞ些細なことじゃないですか、そうでしょ?

10月14日(金)
なかなか眠れず朝もぐずぐずしていたら、妻が新聞を持ってきて、「ノーベル文学賞、ハロルド・ピン
ターだって!」と教えてくれたので飛び起きた。
イヤー実にめでたいっ。大江健三郎が受賞したときと同じくらい、もしかしたらそれ以上に嬉しかった。
ピンターは僕の第一次演劇熱中期(第二期は今の歌舞伎熱)に、別役実氏と共にもっとも尊敬し
た劇作家だ。新潮社の三巻本全集はもちろん読んだし劇書房かどっかから出ていた特集ムックも持
っていた。
ぽつり、ぽつりとした台詞。リアルすれすれの不条理な設定。そして全体の洗練された静かなトーン。
それら全体に地味な劇的世界が、まったくどういうわけか人間の秘める暴力性を感じさせ、観る者
読む者を戦慄させる手腕は、驚くほかはない。これを機会にもう一回読み返したくなった。

いろんな仕事を同時進行で前進中。仕事をしているときは躁状態、寝る前は鬱。典型的な働き
盛りの中年なり。

10月10日(月)
昨日妻がテレビを見て、かるーくショックを受けていた。
「『二の舞を踏む』と『二の舞を演じる』、どっちが正しいか、知ってる?」というので、僕は一応、「二
の舞を演じる」が本来の言い方でしょ、と答えたんだが、奥さんは「演じる」という言い方を知らなくて、
ずっと「踏む」で通していたので、仕事柄もあってショックを受けていたんである。それで奥さんはいろ
いろ調べて、「二の舞を踏む」という言い方は用例集にもあることを見つけた。
最近流行の、「正しい日本語」みたいなやつ、僕は本当に嫌いだ。「二の舞を踏む」という言い方は
間違っているとか、コレコレという表現は文法がおかしいとか、そういうタグイの「日本語啓蒙」みたいな
のって、ほんと頭に来るのである。
言語学的に考えて、「正しい日本語」なんてものは存在しない、あるのは「通じない日本語」だけだ、
と僕は思っている。言葉なんていうのは、通じればそれでいいからだ。そういう風に思っていないと、言
葉というものが持っている自由自在さに取り残される。
たとえば「こだわる」という日本語があるね。これ、「正しい日本語」的にいったら、しつこくいつまでも捕
われる、とか、うじうじいつまでも考える、とかいう意味だけど、今はそういう意味に使われることよりも、
良い意味に使われることの方が多い。「こだわりのラーメン屋」といったら、それは素材や製法、調理な
んかにしっかりとした考えを持っているラーメン屋さん、という意味だ。それで通じている。
これは「こだわる」という言葉の用法が、「間違っている」ことになるのか。なるんだろう多分。そこで僕は
こう思うね。間違ってたら、何だ。意味が通じていないのか。「こだわりのラーメン」と看板に書いてあって、
「年中ラーメンのことをネチネチ考えた結果のラーメン」と思う奴はいない。思うとしたらそこには無理が
ある。もしくは幼児的な単なるへそまがり、それこそ「拘泥っている」だけだ。
言葉というのは流通される中で生成するもので、中には辞書に書いてある字義からは、まるっきりかけ
離れた意味で使われている言葉だってある。たとえば「憮然」。これ普通、ムッとする、みたいな意味で
使われるよね。でも辞書には、ガッカリするとか、意外で驚く、みたいなことが書いてある。ガッカリとムッと
するんじゃ大違いだ。でもそうやって使われている。あんまりそういう用例が流通しちゃったもんで、最近
の辞書には「ムッとする」の意味も付け加えられたくらいだ。言葉というのはそうやって作られる。辞書や
文法書で作られるものではない。人間の口や手や耳で作られるものだ。だから「二の舞」は、踏んでも
いいし演じてもいいんである。

10月7日(金)
こないだロリコンだなんだと書いた文藝賞受賞作の、三並夏「平成マシンガンズ」をぱらぱらと読んだ。
いいところのいっぱいある小説だった。十五歳。才能がうらやましい。
そして選評を見ると、選考委員四人中三人が、年齢で選んだのではありませんと、異口同音に書い
てあるのには正直ビックリした。読んでるこっちが「いやいや、そんなにお気になさらなくても」といいたくなっ
たくらいだ。年齢なんかどうだっていいのなら、知らんぷりすれば済んだ話だと思う。ちなみに同時受賞
の青山七恵「窓の灯」も、いいところのいっぱいある小説。今日発売の「文藝」は買って損しない。多分。

ところでついさっきまでエクスプローラーが全然開かなくって、ほんと難渋したよ。「システムの復元」で事
なきを得たが、最近は妻のパソコンも調子が最悪で、パソコンがらみでピリピリすることが多い。
コンピュータってデジタルとかいわれているけど、全然そんなことないね。アナログ丸出しって感じ。コンピュ
ータの中でやってることはデジタルか知らないが、コンピュータそのものはアナログなのだ。だってさ、使って
いるうちにガタが来たり、動作がのろくなったり、「ぴしゅうぅぅぅぅ」なんて音を立てて使えなくなったり、そん
なデジタルってないでしょ?
こないだディスプレイがすっかり暗くなって何にも見えなくなった。ファンクション・キーを押しても再起動し
ても直らなかったのに、ディスプレイのはしっこを指でテンテンと弾いたら直ったよ。お前は真空管テレビか。

10月3日(月)
たった今いらしたお客さん、僕の顔をチラッと見て店内をチラッと見て、でまた僕に向き直って「藤谷
さんですよね?」というから「はい」「古川日出男と申します」「うぎゃー!」
うぎゃーってこともないが、実際そんな感じだった。古川日出男さんこそ、僕がこれまで会いたいと思
って会えないでいた人であって、この文章もなんか変だが、今も身体は震え汗がおでこに滲んでいる
のである。偶然いらしたそうである。文学の新しい可能性、という点で、古川日出男さんは僕が最も
尊敬する作家だ。歳は僕のほうが三歳年上だけど。
「月刊PLAYBOY」に載った『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』の書評が、僕の作品について書いて
くれた最初のものである。これを書いたのが古川さんだった。申し訳ないけれど、それまで僕は古川
さんの名前しか知らなくて、新しいミステリ作家の一人、くらいにしか思っていなかったんだが、読んで
びっくりである。世評の高い『アラビアの夜の種族』(角川書店)ももちろん凄いが、なんといっても『ボ
ディ・アンド・ソウル』(双葉社)の衝撃は忘れられない。サインしてもらった。
しかし僕は、やっぱり小説とか文学が好きなんだな。アイドルや俳優さんに会っても、こんなに興奮
しないもんな。やっと会えたよ古川日出男さんに。

10月1日(土)
NHK「名作平積み大作戦」収録。丸善の上村裕子さんと久しぶりに会ったのでハシャイでしまう。
上村さんは僕の数少ない歌舞伎熱共有者の一人なのだ。メーク室でえんえんと勘三郎がどうした
の幸四郎がなんだのとくっちゃべっていた。そのうち隣で安めぐみさんがメークを始めたが完全無視で
染五郎がどうした三津五郎がなんだとさらにくっちゃべる。今日の収録はとりわけ面白かったと思う
(BS2では10月22日放送予定)。奥泉光氏、いとうせいこう氏の「文学漫談」コンビがテレビ初登
場ということもあったし、いとうせいこう氏のプレゼンテーションが大成功で、番組史上最高の賛同者
(48人)を獲得。
番組収録の合間を縫って、新作『いなかのせんきょ』のゲラ。だんだん判ってきたが、ゲラというのはあ
まり長時間やっていると何がなんだか、どこが何だか、何が善やら悪やら頭の中でノートルダムの鐘
が鳴り響くようになってしまうので、時間を区切ったほうがいい。
帰宅して自分の出ている番組を見て、そのあと芸人さんたちのドキュメンタリー番組を見てから寝た
ら、大倉孝二氏や南海キャンディーズさんたちとコント番組のレギュラー出演が決まる夢を見た。単
細胞だな俺って。



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