12月27日(火)
今年の初め、挨拶に来た信用金庫の人が、「うさぎ年に不景気はないといわれているんですよ」といっていた。
うさぎは僕の干支でもあり、いい年になって欲しい、不景気な話はもういい、いい年になるかもしれない、と、その話を聞いたとき
には嬉しかった。
それが、人生でもっとも疲弊する一年になった。こんな一年があるのかと思うほどだった。個人的にも社会的にも、身体的にも
精神的にも頭脳的にも、今年は根底から重かった。
喜びもあった。今年の我が誕生日は結婚十周年記念日でもあり、めったにないことだからとお金も使って思い出を作った。重苦し
さを吹き飛ばしたい気持ちもあった。
けれどもあまりにも多くのことが、今年は終わったと思う。「今年の漢字」が先日、「絆」と決まったそうだが、確かに近しい人たち、
家族や友人との絆は深くなったと、個人的に感じる。ボランティアを通じて友人もできた。だが一方で、これまで深く考えずに、何と
なく信頼していた物事に対して、拭いがたい断絶ができてしまったとも感じる。身近な人のことではない。
それは大雑把にいえば「上位の者」に対する決定的な不信感だ。それは為政者に限らないが、政治家を例にとれば、今年の
震災への対応について、露骨に感じられたのは、村長、町長、市長、そして地方行政の職員といった、現場に近い為政者ほど、
苦労を強いられ、真剣に自分の職責を果たそうとしていることである。これが国会、中央官庁、政府となると、爪の先ほども信用
できなくなる。僕は彼ら「上位の者」たちは、本当には復興を考えていない、震災の被害を大きく受けた人には不運と思って諦め
てもらうつもりなのだろうと、今でも思っている。
電力会社の上位の者にも、同じ感情を僕は持っている。原子力発電所が放射性物質を大量にまき散らし、そして、それは今
現在、人間の手に負えるものではなくなっているのではないのか。わけもわからず着の身着のままで避難させられた人々に、頭を
下げ、保証金を支払い、除染をし、事故のあった発電所は廃炉にする。これらのいずれも、震災でいわれるような「復興」には
結びつかない。除染をしてもである。なぜならそこにはもう、その地域に住んでいた人々と電力会社の上位の者とのあいだに、かつて
はあったはずの、最低限の信頼が失われているだろうからである。たとえ完璧な除染が果たせて、もとの通りに人々が住めるように
なったとしても、そこにはもう原発はなく、原発との信頼関係もない。
いや、僕には福島の原発近くに住んでいた人たちの気持ちなど判らない。判ったつもりになってはいけない。僕は自分の気持ちだけ
を考えなければいけない。僕は国会議員を信用しないのと同程度に、電力会社の上位者を信じない。彼らが今も旨いものを食っ
てケバい女を抱いて、いい家に住んでいい車を乗り回しているんだろうと思っている。
同じ不信を、僕は科学の権威者にも持つ。とりわけ原子力研究や安全管理の権威者を、もう二度と信用しない。ということは去
年までの僕は、彼らを信用していたのである。そう考えたことはなかったけれど、結局信用していたのと同じだったのである。事故の
当日もそうだった。彼らの何人かはテレビに出てきて、大きな問題はありませんといった。水素爆発ですから放射能は漏れませんと
もいった。そんなことはいっていないと、彼らは抗弁するかもしれない。だとしたら僕の耳が間違っていたんだろう。間違った耳を持った
僕は彼らを信じ、さして深刻な問題にはならないだろうと思った。そして今、放射性物質による環境汚染が、どの程度深刻なのか、
本当の危機の度合いは判らないでいる。判っているのは、僕がもう「原子力発電は安全」という主張を、一切信用しなくなっている
ということだけだ。
科学技術は生活を豊かにしたという人がいる。科学の進歩を否定するのは人間の知性を否定することであり、技術の進歩を否定
する権利は現代人にはない。確かにその通りである。原子力の平和利用も、科学的には、また技術的には可能で、かつ有効な
ものに違いない。それでも僕は日本における原子力発電の使用に反対である。なぜなら原子力の平和利用に必要な科学技術
を管理する人間が、信用できないからである。この人、あの人という問題ではない。人間そのものに信用がないのだ。
福島第一原子力発電所は、もともと外部電源を失っても、数時間は非常用ディーゼル発電機によって電力を確保できるように
できていた。それなのに全電源を失って原子炉への注水ができなくなった。なぜか。非常用ディーゼル発電機が地下に置かれて
いたからである。海の真横にある発電所の、最後の命綱を、まっさきに波をかぶる地下に、彼らは置いた。そう設計したのは、また
その設計を認めたのは、原子力の平和利用に誰よりも詳しいはずの上位者たちである。彼らは異口同音にいった。想定外であっ
たと。海の横に原子炉を置いておきながら、津波がくるとは想定していなかったのである。いうまでもないことだが、彼らは僕なんか
より、何十倍も頭がいい人たちなのである。
これら一連の不信は、相互不信である。政府は緊急時の放射能予想ネットワークシステム「SPPDI」を公表しなかった理由を、
パニックを懸念したからだと釈明した。上位者たちもまた、国民を信じていない。この相互不信は僕の中で、根深く残るだろう。
だが、これだけ書いておいてなお、今年の重苦しさを語りきれてはいない。原子力エネルギーや上位者たちへの不信にもまして
今年は、人間の命の心細さを思い知らされた年だった。この心細さにくらべれば原発や政治など、僕にとっては取るに足りない。
文明。生活。人生。そういったものを、僕は小説を書くうえで、これまでも考えてきたつもりだった。諸行無常も常に念頭にあった。
けれども、文学や、芸術や、倫理といったものが、すべて地面の上にあるのだとまでは、考えが及んでいなかった。ましてその地面が、
いつ失われてもおかしくない、堅固でもなんでもない、流動的な基盤にすぎないと、こんなにも実感したことはなかった。人間は
ついに、一種の液体の上に立っているにすぎない。人間自体もまた、液体であるのだろう。
この心細さを来年も、いつまでも忘れないようにしたい。忘れられるものでもなさそうだ。
これから、何かが始まる。何が始まるのか判らない。それが少しでもいいことであるのを、僕は心の底から願っている。
本日をもって、今年の「フィクショネス」営業を終わります。今年一年、有難うございました。
来年は1月5日(木)より営業いたします。
12月12日(月)
第二十八回織田作之助賞落選。
今だからいうが、僕は落選に絶対の確信を持っていた。作品の出来うんぬんの問題ではない。それ以前に僕は、文学賞であれ
なんであれ、とにかく受賞というものに恵まれたためしがないのだから。文学賞で候補に選ばれながら落選したのはこれで五度
目。そういうふうになっている。
候補作に選ばれるというのはそれだけでも名誉である。それだけで認められたと深謝すべきである。
ただまあ、つまんないというか、恥ずかしいな。二番手、三番手の作品ばかり書いている気分になるからね。少なくとも、そういわ
れているような気になります。
最初に候補作として残って落選したのは、新人賞だったが、このときある選考委員のかたに、「受賞作の顔をしていない」と選評
に書いていただいたことがあった。このかたはのちに聞くと、僕の小説をもっとも推してくださったかただった。そうであってもなくても、
落選を恨むようなことはしない。けれど、このひと言は折りに触れて思い出すのである。
受賞作の顔というものがあるのだ。いわれてみると、なんとなくだが、文学賞を受賞したあれこれの作品が、ことごとく受賞作の顔
をしているように思える。書くものが片端から文学賞を取るような作家がいるけど、そういう人の作品は、きっとそもそもの作風に
その顔を持っているんだろう。心底うらやましい。受賞作の顔をしているなと、受賞作を読めば思うけれど、それがどんな顔なの
かは判らないし、判ってもそういう顔をした小説は、きっと死ぬまで書けないだろうから。
といって僕が今後死ぬまで無冠であるとは思わない。ずーっと書いていれば、どこかで誰かが何かくれる。そういう仕組みになって
いる(らしい)からだ。
僕は晩年の都筑道夫氏を、ちょっと見かけたことがある。通りでたまたま目撃したのではない。さる出版社の社長を僕は知って
いて、この社長は都筑氏のファンであった。社長は非常に苦心をして、自伝『推理作家の出来るまで』を上下二巻の大部な
本にした。その出版記念トークショーの裏方を、少しだけ手伝ったのである。僕は小説家になっていなかった。
それで都筑道夫氏の小説をいくつか読んだが、どれもこれもやたらと面白いのでびっくりした。こんな面白い小説が、都筑氏には
五十も百もあるのだと聞いてなおびっくりした。そして最後に、都筑氏が五十年間書き続けて、無冠であると知って、びっくりという
よりギョッとした。
『推理作家の出来るまで』で都筑氏は、日本推理作家協会賞と、日本ミステリー大賞を受賞した。その一年か二年後に、
都筑氏は亡くなった。
都筑氏は人気作家だった。小説は売れたし、映画にもなった。後世への影響も小さくないようだ。僕も都筑氏のようになりたいと
思うけれど、あれほどまでに面白い小説は書けないし、人気もない。
まあ、結局、自分のできることを思うさまやるしかない、ってことだね。つまらん結論で失礼。
12月1日(木)
仕事も、読む必要のある本もすべて放り出して、小澤征爾氏と村上春樹氏の共著『小澤征爾さんと音楽について話をする』
(新潮社)――なぜ共著がこのようなタイトルになるのか判らないが――を読んだ。
「この対話というのはマニアのためにはやりたくないんですね。マニアの人には面白くないけど、本当に音楽の好きな人たちにとって、
読んでいて面白いというものにしたい。」と、中で小澤氏がいっている通り、これは専門書といっていい。新潮社装幀室の美しい
装幀にくわえて、インタビューアは村上春樹氏、インタビュイーは小澤氏と、話題性もあるし、対談だから軽やかな印象がある
けれど、相当難解な一冊である。僕には五分の一か五分の二くらい、理解できないところがあった。
理由は、ここで語られている「音楽」というのは、とりもなおさず「演奏」のことだからだ。小澤氏は指揮者なのだからこれは当然
である。また「演奏」以外の何が「音楽」なんだということもある。けれどもこの本における「演奏」というのは、一回こっきりというか、
ある時、ある場所で、ある演奏者によって演奏された、特定の演奏であることがとても多い。
たとえば、二人は最初の対話でベートーヴェンの第三ピアノ協奏曲を聴く。僕はこの曲のCDを、三枚か四枚持っている。けれ
ども、この本で何を語っているのかは、読んでいるだけではよく判らない。彼らはカラヤン指揮、グールド独奏、ベルリン・フィルの
1957年ライブ録音を聴く。次いでバーンスタイン、グールド、ニューヨーク・フィル、1959年を聴く。それからバーンスタイン、ゼルキン、
ニューヨーク・フィル、1964年を聴いて、ワイル、インマゼール、ターフェルムジーク・バロック管弦楽団、1996年を聴いたのち、小澤、
ゼルキン、ボストン・フィル、1982年を聴く。
「ここのところ、オーケストラとピアノが合ってないですよね」「マイクロフォンを楽器の近くに置きすぎているなあ」「オーケストラが入
る前に、グレンは音をぽんとひとつ入れている」「指揮者はね、これ、明らかに二つで振っています」「このオーケストラの演奏は、
子音が出てこないですね」
聴かなきゃ判んないのである。理解するには、僕の持っているCDでは足りないのである。
僕はこの本の揚げ足をとっているわけでも、重箱の隅をほじくっているのでもない。これらの言葉を、どうあっても理解したいから、
じれているのだ。この本の言葉はただ読むだけでは足りない。感得しなければならない。それにはここで二人が聴いているのと
同じCDの、同じ箇所を、対話と同じタイミングで聴かなければならない。それで「あっ」と思ったとき、初めて理解したといえる
箇所が、随所にある。だから専門書だというのである。
しかしそういうところは、全体の五分の一か二くらいで、あとは小澤征爾氏の音楽を愛する読者には、興味のつきぬものがあ
る。言葉で音楽を語るのは苦手だと、この数十年いい続けてきた小澤氏から、これだけの言葉を引き出した村上氏の知識も
インタビューアーとしての手腕も見事である。村上氏が高名な小説家ということとは無関係に、このインタビューは村上氏でしか
成り立たなかっただろう。
小澤征爾氏が、音楽を哲学的にも、文学的にも、人生論的にも、政治的にも捉えることがなく、ひたすら音楽(この場合、
音楽とは「楽譜」のことだ)とだけ向き合っているのは、音楽ファンなら皆よく知っていることだろうけれど、ここまで徹底的に音楽
とばかり対面している芸術家だったのかと、僕は胸が熱くなった。
小澤「(しばらく黙考する)あのね、あなたとこういうことを話していて、それでだんだんわかってきたんだけど、僕ってあまりそういう
風にものを考えることがないんだね。僕はね、音楽を勉強するときには、楽譜に相当深く集中します。だからそのぶん、というか、
ほかのことってあまり考えないんだ。音楽そのもののことしか考えない。自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか……」
村上「音楽の中に、あるいはその部分部分に意味を求めるのではなく、ただ純粋に音楽を音楽として受け入れる、ということで
すか?」
小澤「そうなんです。だからね、人に説明することがとってもむずかしい。自分なりにその音楽の中にすっぽり入っちゃう、みたいな
ところがあります(中略)じっと楽譜を見ているとね、音楽が自然にすっと身体に入ってきます」
語られている言葉はありきたりだが、その内実は、たぐいまれな純粋さである。小澤氏のキャリアを、野心的だと批判する人や、
きらびやかだと羨む人には、この純粋さがどれほど稀有なものか、判っていないに違いない。
11月23日(水)
妻が朝から宅配便が来ない来ないとヤキモキしている。僕へのプレゼントが届くというのである。何だと訊いても決して教えない。
午前中いっぱい待ったが宅配便は来なかったので、二人で新宿へ出る。
昼食は中村屋にてカレー。工事中らしく移転して営業していたが、そのサーヴィスの素晴らしさには感動した。休日の昼食時
で混雑を極めている。にもかかわらず係の男性がたくみに客をさばいて怒る気分にしない。席についてからも忙しそうにしている
のにイライラした様子は見せない。中村屋という看板におぶさらない姿勢が行き届いていた。
新しい鞄など買って雨の中を帰宅。宅配便は七時ごろ来た。大きな封筒を渡されると妻はカメラを構えている。僕のリアクション
によほど自信があるらしい。開いて僕は、ナンダコレッ! ウワー凄いッ! と、猫も呆れる大声を出した。楽しくて可愛くて世界
のどこにもない心尽くしのプレゼントだった。それがなんだったかは、明日以降僕に会ったら判るだろう。いい一日だった。
いい一日だったのに、談志が死んだ。上から読んでも下から読んでも、だんしがしんだ。21日のことだったそうだ。
テレビに出ても喋らなかったり、ラジオで放送禁止用語を連発していた落語家が、死んだ途端にワイドショーで軒並み「いい人」
扱いされているのには呆れる。名人とか天才とか、談志自身が一番いわれたくなかった称号もつけられていた。何を今さら、と僕
が、テレビを見ながら呟くと、妻は、いい人にされるのはいい人だったからだ、死んだら何も言われなくなる人だっている、といった。そ
れは確かにその通りだ。
僕はもう十五年以上談志の高座を見ていないから、何もいえるわけがない。寄席に出なくなっちゃったから、独演会とか一門会の
チケットを苦労して手に入れるよりほかなかったが、苦労の甲斐があったのは二回に一回くらいで、客席にいるのがいたたまれなく
なるようなこともあった。調子が悪いとか何とかいって、マクラだけで終わってしまったりする。客が悪いこともあったようだが、僕の見た
ときにはむしろ、自分で自分を許さない、だから演らない、という場合のほうが多かったように思える。完璧主義者だった。だからいい
ときは凄まじくよかった。本多劇場で見た「富久」は忘れられない。
けれども、じゃ噺家として一流だったかと考えると、僕はそうは思わない。噺の技術が当代随一であったことは疑いようもなく、色気
もあったし、カリスマ性もあったし、努力は壮絶なまでにしていたはずだ。けれども一流の芸人になくてはならないものを、談志は
決定的に欠いていた。愛嬌である。
いや談志には愛嬌があった、えもいわれぬ可愛らしさを持った芸人だったという意見があることを僕は知っている。そういう感受性も
理解できる。でも僕には愛嬌のかけらも感じられなかった。僕に感じられなければよそで感じられてもしょうがない。愛嬌とはとぼけた
味のはずなのに、談志の愛嬌はとぼけていなかった。
その代わりに、かどうか知らないが、談志が落語へ導入したのが、知性である。「落語とは人間の業の肯定である」という、彼の有名
な定義は、落語始まって以来の形而上学的、倫理哲学的知性の結晶であって、これ以上に落語を知的に表現しえたことはかつて
ない。立川談志には、恐らく自分でも持て余すほどの知性があった。それが落語のネタに対しても、芸人への批評としてもあらわれ
た。談志は古今亭志ん生を尊敬していたろうが、それ以上に圓生、そして文楽を尊敬していた。師匠の小さんなど、本当には相手
にしていなかったのではないかと疑われるほどである。近年の芸人でも太田光氏、松本人志氏など、愛嬌のない知性的な芸人を
評価している。
この知性とカリスマ性のおかげで、落語をめぐる状況の中に、変に気取った、サロン的な、浮ついた、品のある、つまらない雰囲気が
出来上がってしまったのではないか。落語が「いい趣味」みたいになってしまったのではないか。「立派なもの」になりすぎたのではな
いか。
何が「業の肯定」だ。そういうことをいっちゃいけない。蕎麦は立ち食い蕎麦、寿司は回転寿司が江戸以来の本来の姿である。お
座敷に上げて味もない指の先ほどの蕎麦を五千円で食わせるなんていうのは外道なのである。落語だって同じだ。なんか面白い
ことやってないかと覗きに来るオッサンや、テレビで見た芸人を見たくて来るネエチャンのために落語はある。「文化人」をうならすため
にあるんじゃない。
むろん落語は芸である。大衆迎合のおもちゃではない。オッサンやネエチャンの中には、文化人なんかよりよっぽど怖い目利きがいる
のだ。そういう人たちに談志は、果たしてどれほど向かい合ったか。ひと目で判るあの気弱さが、若い頃から持ち上げられた傲慢さと
あいまって、「判る奴だけ判る」芸を至上のものとしてしまってはいなかったか。
恐らく以上の評価は筋違いもいいところなんだろう。まったく的を射ていないだろう。僕に知性もカリスマ性もないもんだから、やっかみ
でこんなことを考えているに違いない。とにかく談志については、感じるものが複雑すぎる。
11月22日(火)
17日に東京グローブ座で観た『ロコへのバラード』はとても楽しかった。タンゴをドラマでつなげていく舞台だったが、ダンサーたちは
芝居もこなし、踊りは確かなもの、何よりバックバンドが素晴らしかった。贔屓目かもしれないが、弦楽器、ヴァイオリンとコントラ
バスが抜きん出て良かった。
そして20日にはチェロの発表会。ショパンのソナタの第三楽章と、バッハの第二組曲のメヌエットを弾いた。先生から音程が悪い
音程が合ってないと、さんざん注意された曲だった。最後のレッスンもそんな感じだったから、金曜日と土曜日はしゃかりきになって
練習した。しかも僕の順番は最後であった。無我夢中で弾いた。
昨日は完全脱力。さいわい仕事はいろいろ片付けてあるので今は比較的楽である。今日はゲラをたくさん見ました。そして明日
は誕生日。
11月16日(水)
常軌を逸した忙しさなのである。日記を書く時間も気力もなかったのである。すみません。
ポプラ社「アスタ」連載の『花のようする』を十月末に書き上げた。書き上げたとひと言でいえないような苦行だった。僕が苦行など
したところで大したことはないわけだが、それでも人間、原稿用紙にして400枚の小説を書き上げたら、普通はちょっと休みます。
それが当たり前だと思います。ところがそこから僕はただちに「きらら」のために『津々見勘太郎』の続きを書かなければならなかった。
この小説は僕の恩人たるIさんとの仕事で、あだやおろそかにはできないばかりか、連載の最初の二回を書いたあとになって、壮大
なる軌道修正が必要になった作品で、まだその軌道修正は固まりきってはいないのである。それでも連載は続くので書かなければ
ならないのである。仕事があるというのは本当に有難いのだが、ただ有難がっているだけでは駄目である。いいものを書いて恩に
報いなければ申し訳ないし、自分のためにもならない。その締切が昨日の15日までであった。なんとか仕上げてIさんに合格の
メールをいただいたときには脱力で涙が出そうになった。
今の世の中、働きたいと思いながら働けずに苦しんでいる人がたくさんいる。働けるのに休みたいなどと思うのは罪である。それに、
結局僕みたいな人間は、仕事をしているときが一番心が落ち着いているのだ。たとえばこうして日記を書いているだけでも、まあ
何もしないよりは落ち着いている、と思う。
しかし能力にも体力にも限界がある。とにかく今日は休もう。そう心に決めてご招待いただいた芝居『天守物語』を観に新国立
劇場へ行った。
泉鏡花の傑作戯曲。主役の富姫は篠井英介さん。対する図書之助は平岡祐太さんで、篠井さんとはこれから仕事をする予定
だし平岡さんとはラジオでもう仕事をしている。正直いって、頭の中でうまく並んでくれない二人である。どうなるか楽しみだった。
開演してまず驚いたのは演出が予想以上に素晴らしかったことだ。過剰なまでに奥行を深くとった舞台で、踊りや所作が同時的に
行われる。舞台装置も凄いし照明も美しいが、それら一切を統括する演出の見事さが際立っていた。脇の演者は完璧なアンサン
ブル。富姫登場までを飽きさせなかった。
そして富姫が現れるや、もう口は半開き目玉は釘付けである。なんという女形だ篠井英介という人は。今更ながらそのたたずまいに
圧倒される。篠井さんの前では美しいという言葉は浅く思われる。凄艶にして壮絶、演者は皆すぐれていたが、泉鏡花の言葉に
拮抗していると完璧に思えたのは、篠井さんと江波杏子さんであった。
もっともあとの演技者たちは皆若い。泉鏡花とは縁遠い言葉の世界しか知らない人も多かろう。にも拘らず鏡花の、この世ならぬ
言語世界に肉薄しえた俳優たちは本当に立派である。とりわけ平岡さんには驚いた。真面目である。そんなに真面目が表に出て
しまっては、色気が薄らがないかと思えるほどに真面目である。ところが平岡さんの場合、真面目さがそのまま色気の域にまで達し
ていた。それが妖怪である富姫との対比となって、朴訥な武士の存在感が出ていた。妖怪というのはつまり、不真面目の極みみた
いなものだ。真面目の極みが不真面目の極みに魅せられる。役者の力で舞台上には、鏡花の夢がそのまま実現されたようであった。
それにしても何という文人であろう、鏡花という人は。帰って岩波文庫を調べてみると、『天守物語』は原稿用紙で八十枚に足りな
い。八十枚かけずにあの異世界を描ききっているのである。これを台本通りに上演して二時間である。篠井さんとの仕事はこれから
書くことになっている。プレッシャーである。結局仕事だ。くそう。がんばるぞー!
10月8日(金)
ちょっと腹に据えかねたことがあったので忙しいが急いで書く。
これから自分も小説を書いてみたいんですがといって「フィクショネス」に来る人がいる。書きたいのだが書き方が判らないという人
がいる。僕に小説の書き方を教えて貰いたがっている人がいる。そういう人がこの日記を読んでいるかもしれないから、ここに小説
の書き方を書いておく。小説を書くには、筆記用具かワープロを用意し、その前に座り、文字を書けば書ける。ほかに小説の書き
方はひとつもない。立って書く人もいるだろうけれど。
こういうと、いや、それだと「普通の文章」は書けるんだが、小説が書けないんだという人がいる。意味不明である。普通の文章を
小説ってことにすればいいじゃないか。
すると相手は質問を変えて、藤谷さんはどういう風に書いてるんですかとくる。僕はワープロの前に座って書いている。これを「意地
の悪い答え」と思われるのは本当に心外だ。ほかにどういう書き方があるというのだ。
それでも満足せず、小説の書き方について僕から答えを引き出そうとする人がいる。そういう人に僕はこう答えることにしている。
あなたはあなたの小説を書くのでしょう? あなたの小説の書き方は、あなたしか知らない。僕が知っているのは、「僕がこれまで
書いた小説をどうやって書いたか」だけだ。「小説の書き方」どころか、「僕がこれから書く小説の書き方」だって、僕は知らないん
です。
つまり、どうやらある種の人は、この世にその人の知らない「小説の規範」があると思っているらしい。そんなものがあるわけないじゃ
ないか。「小説の規範」は、自分がこれまで読んだ小説にしかなく、自分が読んでいない小説は規範になりえない。人は誰でも、
自分の持っているもので生きていくしかない。小説を書くのも同じだ。小説といったら『謎解きはディナーのあとで』しか読んでいない
人は、『謎解きはディナーのあとで』を規範として小説を書くしかない。十読んでいれば十の規範があり、百読めば百の規範がある。
自分の書きたいのは、そういうものじゃないんです、という人がいる。当たり前ではないか。『謎解きはディナーのあとで』は他人の書い
たものだ。『細雪』も『罪と罰』もそうである。あなたのこれから書く小説は、僕がこれから書く小説と同じく、まだ誰も書いたことのない
小説ではないのか。しっかりせい!
憤懣の半分を書いたから、半分せいせいした。残りの半分は、自分の腹の中にとっておこう。
9月28日(水)
芝居の台本、初稿を書き上げたら、風邪引いてしまって喉が痛い。軽症だが、これから年内に小説を二本、最後まで書かな
きゃいけないのと、「きらら」に連載する『津々見勘太郎』を書き継がなきゃいけないのを考えると、素直になおりそうもないです。
あ、年明けにはもう一本あるんだった。たはー。
9月27日(火)
日記を書かないでいたあいだに総理大臣は変わり、大震災から半年経ち、台風は関東を吹き荒れたが、僕はずっと芝居
の台本を書きながら、小説のことを考えていた。シューベルトの小説だ。今シューベルトの評伝を読んでいるのだ。タイトルを
『けむり』という。『けむり』はシューベルトの小説ではなかった。これからもシューベルトの小説ではない。以後今日の日記は
このように、人には意味不明な備忘録として書かれる。
『けむり』は今からだいたい八年くらい前から練りに練られている小説で、カズオさんとの仕事になる。今カズオさんとは『津々見
勘太郎』という小説で一緒に仕事をしている。これはもうじき「きらら」に連載される。その件で今日はカズオさんと蕎麦を食べ
た。食べながら『けむり』や『津々見勘太郎』やシューベルトの話をした。
するとにわかに小説の構想が出来上がってきたのである。それまで『けむり』は『けむり』であった。シューベルトの小説ではなかっ
た。それが突如としてシューベルトの小説になり、そして決してシューベルトは出てこない。最近風邪気味なのだが、風邪気味
の僕の頭がぐるぐると働き始めた。働けば働くほど、なおのこと考えなければならないことが増えていった。しかし一方で道が通っ
たというか、楽になった部分もあった。突き抜けた。
シューベルトが『けむり』になった直接的な動機として、以下に文章を引用しておく。
一八一五年五月八日から十九日までに『四年間の哨兵勤務』(ドイツ語の原題略。以下同じ)(XV,1; D190)が成立し、
六月二十七日と七月九日のあいだには、一幕のまじめなジングシュピール『フェルナンド』(XV,3; D220)が書き上げられる。
次には八月までに『ヴィラ・ベラのクラウディーネ』(XV,11; D239)が書かれ、最後に、この重要な年の大晦日までに(中略)、
滑稽なジンクシュピール『ザラマンカの友人たち』(XV,4; D326)が来る。このような多産さは、イタリアの注文による作曲家を
すら凌駕するが、ただ残念なことにシューベルトはぜんぜん注文なしに書いたのであり、矢を空中に放ったわけである。しかし、
せめてこの矢の一本は、世界史のなかにも芸術史のなかにも存在するあの不合理がそれを奪ってしまわなかったら、後世に
届くところだった。シューベルトはその生涯にただ一度だけゲーテのオペラ=テクストを手に入れたのであり、この『ヴィラ・ベラの
クラウディーネ』は小さな規模の枠内においてではあるが、シューベルトのオペラ=劇の傑作になったのである。ところがわれわ
れには、その第一幕だけしか残されていない。ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーの所有していた第二幕と第三幕の総譜は、彼の
家人によって一八四八年頃、かまどと暖炉のたきつけに利用されてしまったからである。
(アルフレート・アインシュタイン著 浅井真男訳 『シューベルト 音楽的肖像』101〜102頁)
9月10日(土)
よしもとばななさんの新作『ジュージュー』(文藝春秋)がとってもいい小説だったので、今月の「文学界」のロング・インタ
ビューを読んだら、これまた面白かった。よしもとさんに訊きたいと思っていたことがいっぱい載っていた。
『ジュージュー』はハンバーグ屋さんが舞台である。下北沢にはかつて「カウボーイ」「マック」という、僕を105キロにした
素晴らしいハンバーグ屋さんが二軒あった。この小説を読み始めたら、やっぱりその二軒がなくなったことがモチベーション
のひとつと判った。『ジュージュー』は、多分架空の町の話だけれど、どことなく『もしもし下北沢』の続編的な要素もある
みたいだ。
インタビューには、よしもとさんが文芸誌に書かなくなって、書き下ろしを中心にしていた理由も書いてあった。
「この世から去っていかれた人が大勢いたんですね。色川武大さん(八九年没)、中上健次さん(九二年没)、井上光晴
さん(九二年没)、武田百合子さん(九三年没)、吉行淳之介さん(九四年没)、埴谷雄高さん(九七年没)、石和鷹
さん(九七年没)、江国滋さん(九七年没)といったかたたちが、気がついたらみんないなくなってしまった。
すごく言いにくいことですけど、そういう人たちが亡くなっていくにしたがって、残った人は文芸誌に何を書いても、とにかく書け
ばいいというか、まあ手抜きとまでは言わないけれど、果たしてこの人は生活をかけるようにしてこれを書いているんだろうかと
おもえるような、なにかぬるい感じが漂いはじめた気がするんです。」
今、小説を書いている人間、よしもとさんの小説を愛読している人間は、これ読んでアアーッとなったと思う。よしもとさんは、
やはり厳しい道を歩いていたのだ。そういうところで磨かれたのだ。今の文芸誌にそれはあるのだろうか。僕の場合はあるけど、
ほかの人にもあるのだろうか。ぬるいものを平気で出してないだろうか。
とにかくこういう名前がよしもとさんから出てくるのは、ヒリッとすることだった。年齢は僕のほうがひとつ上だが、これらの名前は
僕にとっては、現代文学史年表でしか見ない名前ばかりだ。
8月29日(月)
忙しく、筆も進まずにいたために、日記を書かない期間が長かった。すみません。
で久しぶりに書くこの日記は広告である。新潮社から『我が異邦』という作品(集)が出るのである。
作品(集)というのは、これ一応、三つの作品を収録しているのであるが、並べてみると、あたかもひとつの小説みたい
に見えるのである。これはある程度意図しなかったわけでもないが、改めて見ると我ながらびっくりする。だって巻末の
初出を見るとこうなっている。
「日本私昔話より じいさんと神託」が、雑誌「新潮」2009年5月号掲載。
「ふける」が、同誌2010年4月号。
「我が異邦」が、同誌2011年2月号。
ほぼ一年一作のペースなのである。三年かけてこの薄い本を作ったことになる。まったく「純」文学とはよくいったものだ。
商売度外視である。
しかしそれでも、新潮社から本を出すというのは僕にとって大きく、ここまで来たなあと思う。「おがたQ、という女」で新潮
新人賞の最終候補五作に残り、受賞作がふたつも出たのに落ちたのが2002年。あれから九年。いまだ文学賞には
縁がないが、まあそれはいい。新潮から本を出せただけで名誉だ。見事な装丁、表紙絵。この日記を読んだ人、どうか
全員買ってください。
7月28日(木)
日本文学史上最大の巨人、小松左京氏が亡くなった。享年八十。
僕は何度かこの日記にも書いているはずだが、小松左京は真実、日本文学史上最大の文学者である。
文学は人間を扱う。小松左京も終始人間を扱った。だが殆んどの文学者が人間を、人と人との関係や、社会の中の
人間、あるいは政治的人間、歴史における人間、そして何より、「私」という人間ばかりを扱っているのに対し、小松左京
は人間をあくまでも「生命」の一種として扱った。虫や獣、ウイルスや草花と同じ存在としてしか、小松左京は
人間を認めなかった。
これは仏教的な人間観に近いともいえる。だが決して一般的な人間観とはいえない。それに小松左京は宗教的な
考えで人間を生命の一種にすぎないと考えていたのではなかった。それは科学的な、宇宙の成り立ちに基点を置いた
知識の結論だった。だから小松左京は、とうとう一般的な意味では「文学者」と思われることはなかった。今後もそう
思われるのは難しいかもしれない。だが僕は逆に考える。人間もキノコも大差ないという視点を、小松左京のおかげで
付け加えられたのは、日本文学の栄光であり、小松氏から与えられた恩恵である。
小松左京にとって人間は地球のごく薄い表皮にへばりつく哺乳動物の一種でしかなかった。だからもちろん、いつ滅ん
でも、いくら死んでも、また突然変異が生まれても、何がどうなろうと、それは大いにありうることだし、しかも大したこと
ではなかった。地球は幾度となく種の絶滅を見てきたし、これからも見るだろう。そしてその地球は、宇宙の中ではアリ
のフンみたいなものである。取るに足らないのである。
それゆえ小松左京は幾度となく小説の中で人類を滅ぼしたし、別の歴史を作り出したし、新しい人類を生んできた。
むろんそれは、荒唐無稽、でたらめ、駄ボラのきわみであった。日本文学がいまだに最も欠落させているものは荒唐
無稽である。日本文学が想像力を硬化させ、矮小化し、貧弱なものになっている原因、それは駄ボラの軽視である。
だがそこにただ「人間なんて大したものじゃない」という視点しかなかったとしたら、僕はこんなにも小松左京文学を尊敬
したりはしない。小松文学には同時に、「そして我々は人間である」という、力強い情愛がある。この軽視と愛着の
同居こそ、小松文学の圧倒的な魅力にほかならない。
小松文学の読者なら忘れられないはずだ。あの「お茶漬けの味」という宇宙SFに現われる、京茄子のお茶漬けを描写
した見事な一節を。あんなうまそうなお茶漬けの描写は、池波正太郎にも滅多にないのではないか。あるいはあの『日本
沈没』の、いよいよ日本が危ないらしいと世間に知れ渡ったときに、不意にあらわれる無名の中年男が「買出し」に行く
ところ、あるいは『復活の日』の、原因不明の病原体を新型のインフルエンザと信じるしかない、町医者の会話と描写
……。小松左京が、冴えない日本人(つまり僕たち)を描くときの、切ない情愛と共感には、読み返さず、ただ思い出し
ているだけでも、胸を締めつけられるものがある。
戦時中に青春時代を送った人間として、小松左京は激烈な反戦小説も書いている。それらの多くはSFということになって
いるが、文学に多少なりとも敬意を抱く人であれば、かならず読まなければならない作品群であると僕は信じる。「地には
平和を」「召集令状」「戦争はなかった」「春の軍隊」は、どれも戦争に対する悲憤に満ちた傑作である。
小松左京を日本のH.G.ウエルズというだけでは足りない。小松左京はウエルズとフランソワ・ラブレーを足して二十世紀
を付け加えた、たぐいまれな日本最大の文学者である。
7月10日(日)
明日で震災が始まってから四ヶ月になる。今朝も比較的大きな地震があった。今までの時点で思うことをまとめる。
その1。国会議員たちは東日本を復興させるつもりがない。民主党も自民党も、共産党も社民党も無所属も、立法
府も行政府も、国家公務員も、復興なんかに手を貸すつもりは、本当にはない。そんなことは自衛隊と警察と消防と、
地方自治体と、あと閑な人がボランティアに行ってやればいいと思っている。そうでなければこの災厄の時期に政局に
などなるわけがない。
ボランティアではご飯を食べさせてもらった。お米は買っていたようだが、おかずは近隣の人々の善意などを受け取って
いた。だから基本は文字通り一汁一菜であった。調理の係りの人は苦心してメニューを作り上げていた。きゅうりの漬物
と生のきゅうりが出たりした。文句をいう人なんか、いるわけない。
それが災厄の時というものである。ありあわせのものを使うほかないのだ。政治だって同じだろう。僕だって今の総理大臣
が素晴らしいと思わない。馬鹿じゃないかと思うこともある。だけどそういう人間が総理大臣なんだから、ほかにどうしようも
ないだろう。なのに与党も野党も辞めろという。まるで自分たちが働かないのはあいつが辞めないからだ、辞めたら働くんだ
とでもいうかのように。あいつで働かない奴がほかの総理大臣だからって働くとは思わない。彼らにそんな信用はない。
彼らは今の総理大臣を辞めさせるだろう。そうなれば新しい総理大臣を決めるのにまた時間がかかる。決まってもその総理
大臣に文句をつける。法案に反対する。どんどん時間が浪費される。避難所や仮設住宅で人が死んでいく。生きて
いる人たちにも仕事はない。ローンは毎月払わなければならない。流された家のローン。四ヶ月。この前辞任した松本
復興相の総資産は七億六千万円だそうだ。閣僚の平均資産の十倍だそうだ。ということは閣僚の資産の平均は七千
六百万円か。被災者の中には四月になっても一日におにぎり二個しか渡されない人もいたという。せめて土日も国会
審議を続けてくれ。せめて。
その2。原子力発電は国家のために必要であるという主張が出てくるのは、意味のあることだろう。でたらめをいっている
わけでも、利権を守るためにいってるわけでもないかもしれない。けれど、ちょっと待ってくれ。まだ福島第一原子力発電
所の事故処理は終っていない。この先予定表通りにことが進むとも限らない。避難をさせられている人はまだ戻っていな
い。保障も進んでいないし、東京電力の損益がどれほどになるかも明らかでない。そんなときに原子力発電所の素晴ら
しさを主張するのは、火事場でライターを売るのも同然ではないだろうか。
僕は少なくとも日本に原発はなじまないと思っている。それは僕が、日本経済が発展しなくても構わない立場にいるから
である。原発がなくなれば職もなくなるような人や、日本経済は世界で優位を保たなければならないと思っている人は、
真剣に原発推進を唱えているのだろう。それは当然のことなのかもしれない。だが先日の報道で、南相馬市から避難を
余儀なくされた九十三歳の女性が、帰郷できないことを苦にして、みずから命を絶つという悲劇を読んだ。この痛ましい
苦痛と、日本の電力供給における原発の重要性とは、ほんとうに関係がないのだろうか。
6月24日(金)〜28日(火)
被災地のボランティアへ行った。あまりテレビなどで取り上げられない、小さな集落の瓦礫撤去や、物資搬入のお手
伝いなどをしてきた。
ごく短い期間ではあったが、小さな経験ではなかった。けれども詳細については語らないし、人にも勧めない。僕は
偏屈な人間で、組織というものが病的に嫌いだ。ボランティアをしている人間の中にも、リーダー面して人を顎で使っ
ている奴や、自己の善行に陶酔している奴を、横目で見るのもイヤだった。
ボランティアが、ほかの人よりもいいことをしていると、僕は思わない。「いいこと」とはなんだろうか。それは、「人に対し
てする、悪いこと以外のすべて」ではなかろうか。遠路帰宅した僕に妻はお風呂を入れてくれた。それは「いいこと」で
はないか。僕は瓦礫を撤去した。それも「いいこと」ではないか。あれこれの「いいこと」に優劣をつけるのは、下卑た
考えである。
しかし「いいこと」には分量がある、という反論は、成り立つだろう。自分の私生活や仕事を投げ打って、ひと月も
ふた月もボランティアに粉骨するというのは、確かに無私の精神であり、尊い。僕みたいに三日や四日、他人の住む
場所へお邪魔するのとは絶対に違う。
だが、だからいばっていい、ということにはならないだろう。僕が参加した瓦礫撤去のリームリーダーの「つるさん」は、
当地へもう何ヶ月も滞在して、ひたすら現場で汗をかき続けた人だった。力仕事に慣れない僕たちを励まし、ぼち
ぼちやりましょう、と明るくいってくれた。僕たちに何かを禁止するのは、ひたすら僕たちの安全のためだったし、指示
は的確で、減点法で評価することはまったくなかった。おかげで僕たちは無力ながら、できる限りのことを発揮できた。
つるさんは定年退職をした会社員だったようだが、自分の仕事に誇りを持ち、会社員時代も多くの部下を扱っていた
らしい。つるさんのような人も、ボランティアには少なくないだろう。ボランティアに必要な技量を持っている人間も多い
はずだ。だがリーダーの資質を持つ人間は、そもそもあまり多くはない。「いいことをしている」という意識にあぐらをかい
ているような人間は、ましてリーダーにふさわしくない。
僕がボランティアに行った理由は簡単である。行けたからである。時間があった。ほかの人だって実際のところ皆そうだ
ろう。被災者が気の毒だとか、そんな理由は思い上がりだと思う。電車でお婆さんに席を譲るのは、お婆さんが気の毒
だからではない。お婆さんの身体機能が弱っているからである。身体機能が弱っているのは、その人の特性で、その人
の不幸ではない。被災者の困苦は電車のお婆さんの比ではないけれど、その困苦はどこまでも具体的な問題だ。
家が災害で破壊された。もし僕にそれが可能であれば、家を建てる。この場合の「可能であれば」とは、僕が数千万円
を持っているか、あるいは建築の能力があれば、という意味ではない。それらの金や能力を他人に渡して、なおかつ
自己の生活に特段の問題がないのなら、という意味である。僕にはその財力も能力もない。だが、多少の交通費と、
数日の閑暇と、若干の体力を提供するのであれば、僕の生活には特別には問題がない。だからやった。「出来る範囲
でやる」というのは、そういう意味である。偉くもなんともない。そんなこといったら、被災地に十年常駐するのも、コンビニ
のお釣りを募金箱にいれるのも、全部偉い。「いいこと」だ。
被災地での具体的な作業の経験を教えてくれるのはありがたく、貴重で、被災地の現実を知らない僕は、ヴェテランの
ボランティアに較べて劣っているのかもしれないが、それを理由に無知な僕を見下したり責めたりするヴェテランがいる
場所には、行きたくない。
つるさんがいてくれてよかった。エトウさんもいてくれた。SさんもTさんもいい人だった。ああいう人がいるところには、また
行きたい。
(僕は今回、被災者の方々とはほんの数人としか言葉を交わさなかった。また被災地の現状についても、僕は自分の
見た狭い範囲のことしか知らないので、ここには書かなかった)
*お知らせ。
6月24日(金)から29日(水)まで、「フィクショネス」はお休みいたします。ご了承ください。
6月19日(日)
(読む必要はありません。自分ひとりのためだけに書きました。)
「新潮」7月号に掲載されている古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』を読む。
僕はこの作品の内容を紹介なんかしないし、人に読めとも勧めない。僕が勧めようと勧めまいと、どうせ読む人は
読むだろう。そして圧倒されるに違いない。またしても、古川日出男の書くものに、圧倒されるに違いない!
僕は文学の神というか芸術の神に、まじで問いたい。なんで古川日出男にだけ、いつもこれほどの才能が与えら
れるのか! いつも古川日出男なのか! いっつもじゃないか、いっ、つも!
最近の僕は古川日出男のことを考えると冷静ではいられなくなる。こういう作家が実在することに脅威を感じるか
らだ。古川日出男は僕が小説に関して持っていないものを、すべて持っている。その「持っていないもの」を僕が
表現すると陳腐になる。いわく独創性、躍動感、迫力、硬派、生真面目、禁欲性、集中力。くだらない表現
だ! もっと古川日出男にふさわしい表現ができないのか俺は!
すでにあちこちで書いているが、僕は今度の災厄に文学が即時的に反応するのはおかしいと思っている。軽々
に書けることではありえないと思っている。書けばそれは、その場の思いつきを順番に書いていくのと大差ないもの
になってしまうだろう。ところで『馬たちよ、』は、福島出身の作家古川日出男が、その場の思いつきを順番に書い
ているように(も)見える作品である。もちろんこれは古川日出男が楽な仕事をしているとか、本当に思いつきを
順番に書いているという意味ではない。ただそう見ようと思えば見えるということだ。ここには起承転結もなければ、
山場も布石もない。また読者への配慮もないし面白味にも欠ける。だいいちこの作品は小説ではないと作中で
断られており、したがって作品を読むだけで完結するものを持っていない。地震があったということ、津波、原発事
故があったということ、古川日出男が福島出身であること、そういった事実をふまえた上での文章だ。誰がどんな
状況で書いたか、ということを超越しなければ小説とはいえない(これは僕の信念)という意味でもこれは小説では
ない。ジャーナリスティックな散文叙事詩と僕は読んだが、そんな区分けをするところが僕のくだらないところだ!
だってこの作品は今僕が書いたようなことは一切ふっとばしてるんだからね。関係ないんだからね。地震があった、
そら書くことができたぞ、といって飛びつくのは芸術家の態度じゃないという僕の考えは変わらない。にもかかわらず
『馬たちよ、』は驚くべき散文芸術の傑作であって、藤谷はもちろん他の誰にも書くことのできない濃密な言語の
即興演奏(書き飛ばすという意味じゃない!)である。
今後古川日出男は東北や日本国中を歩き回ってこの延長線上に凄まじい散文ライブの大伽藍を構築するで
あろう。そういう輝かしい文業は僕には絶対に成しえない。だからといって僕が努力を放棄するとかそんなくだらない
ことはありえないが、それでも僕はこれから先も腹の底で、自分なりには一生懸命書きました、これ以上のものは
書けないくらいがんばりました、ほかにはない藤谷独自の小説だと思います、でも古川日出男(と東直子)は僕の
千キロ先をいってるけどね、と思い続けなければならないのだろう。古川さんと(東さんと)藤谷さんじゃ、全然違う
じゃありませんか、なんてことはいわないで貰いたい。当たり前だそんなことは! この気持ちをほかの人に理解され
ないのは不幸中の幸いである。理解されたら僕は干される。僕たちの時代には古川日出男と東直子がいて、彼ら
の書くものを僕たちは理解できないどころか、追いつくことさえできていないのだから、ほかの不徹底な小説家連中は
うっちゃって、この二人の作品にみんなで集中しよう、という理想的な読書社会は決して実現しない。ゆえに僕にも
仕事がいただける。助かった。不愉快である。
6月11日(土)
村上春樹氏のカタルーニャ国際賞受賞スピーチと、録画してあったNHKスペシャルを見る。どちらも内容は福島
第一原子力発電所の惨事である。
報道によると、東京電力の株主四百余名が、東電の原子力発電からの撤退を求めているそうだが、東電の
取締役会は、「今後も原子力を中心とした最適な電源構成を構築して、持続可能な低酸素社会を目指す」
として、撤退に反対しているそうである。
「日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させる
のはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回
は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう」
と、村上氏は語ったが、これまであまり心配していなかった僕も、さすがに今後の「原子力の平和利用」については、
猛烈な抵抗を感じないではいられない。
NHKスペシャルでは、事故が起こって最初の五日間を取材していた。技術的な問題から政治的判断、情報管
理に至るまで、判りやすく番組にしてあった。
それを見て僕は、東電の人たちがいっていた「想定外」という言葉の意味が、ようやく少し理解できた。
もっともなのである。想定外なのである。原子力発電所の詳細なシステムは、僕の頭では理解できない。だが要す
るにこういうことだろう。核燃料棒は、そのままでは、人間の生活圏に存在してはいけないものである。したがってあそ
こでは、核燃料棒を、水と、強固な建築物と、電力でもって、がっちりと守っているわけである。その守りが堅いことを
もって、科学者も政治家も実業家たちも、「原子力の平和利用」といっているのである。
彼らはもちろん、不測の事態にそなえたマニュアルを作っている。一部が故障した際の予備も持っている。訓練も行
なっているだろう。
だが福島では、電力がなくなり、水がなくなり、ついに建築物も爆発したのである。一部が故障したのならマニュアル
で対応できるが、全部が故障したら、それは核燃料棒が生活圏にむき出しになったということであって、そういうことは
決してありえないのだから、マニュアルも作成しえない。
これが「想定外」という言葉の意味である。文字通りそれは想定の外にあることであり、したがって非現実的である。
そして非現実的なことは起こった。野原の真ん中に核燃料棒がごろんと裸で放置されているも同然のことは起こった。
現在福島で行なわれている修復作業というのは、実際には、核燃料棒がまず放置されてある場所へ、あとからそれ
を隔離する施設を作っているのと同じことだ。
どんな堅固な非常時対策マニュアルを作ろうと、核燃料棒が丸裸になって、水も電力も建築物も利用できない
場合を想定することはできない。そういうことが起こらないようにするためのマニュアルなのだから。
ここまで考えて初めて、ようやく僕には「原子力の平和利用」という言葉の、むなしい響きを聞き取ることができる。原子
力にとって、日本の地面はまったく平和でない。人間にとっても平和ではないが、放射性物質に安住の地ではさらに
ないし、安住されたらこの地に人間は生きられない。
なんかくどくど書いたわりには、平凡すぎる結論になってしまった。
5月27日(金)
このあいだマガジンハウスから出して貰ったエッセイ『船上でチェロを弾く』で僕は、これからはショスタコーヴィッチと
サン=サーンスを聴こうと思うと書いた。
今僕は、読めば夏目漱石、聴くのはもっぱらグスタフ・マーラーだ。
震災以来、変化したことのひとつである。意識してそう読み、そう聴いている。
吉田秀和『マーラー』(河出文庫)も読んだ。「マーラーはむずかしい、私には。」と書き出されている。実際、難解
だ。吉田秀和のこのエッセイも難しい。楽譜の引用が読めなければ、話が追えないところが多い。音楽について
語っているのだから、当然といえば当然だけれど。
今の僕としては、むしろ「マーラーは楽しくない、私には。」といいたい。マーラーは、CDだけ、つまり音だけ聴いても
理解できないのかもしれない。舞台の上に音楽家が何十人も揃って、指揮者が現れて、どがーんと響いている、
その全体がマーラーなのかもしれない。CDだけだと一曲が長くてつかみどころがないし、聴きながらぼんやりしてしま
う。音だけ聴いても、何がどうなっているのか判らない。スコアを見ながら聞くと、とたんに興味が湧いてくるが、そんな
の音楽の聴き方としてどうなんだろうと、我ながら思ってしまう。
自分で弾くのは何かというと、もっぱらチェロではバッハ、ピアノではハイドンを弾いている。趣味としても僕は、ラヴェル
とかハイドンとかいった、「小さい」音楽が好きだ。多分だけれど、僕はこれから先、どうもあのワーグナーという作曲家
のものを聴くつもりには、ならないんじゃないかと思う。先のことは判らないけれど。
とにかく今は、楽しくないマーラーを聴いている。美しく、気高く、難解で、長大で、孤独で、インテリに人気のある、楽
しくないマーラー。「世紀末の退廃」とか、「ヨーロッパ音楽美学の終焉の象徴」とか、レッテルの貼られまくっているマー
ラー。それらのイメージやレッテルは、夏目漱石に貼り付けられている「国民作家」だの「実は暗い」だのといったレッテル
と同じくらい邪魔だ。僕は僕で聴いているのだ。そしてごく平凡な、世紀末芸術と解釈して、注意深く聴いている。
20世紀は1914年から始まった。第一次世界大戦が始まるまでは、まだ20世紀じゃなかった。マーラーは1911年
に死んだ。もうすぐ戦争が始まるだろう。まったく新しい戦争が。そこでは、産業革命によって長足の進歩を遂げた銃器
のおかげで、兵士たちは自分の殺した敵兵の顔も見ることがなく、自分が誰に殺されたかも判らない。ロマン主義によっ
て発見され、称揚されたはずの「私」は「大衆(マス)」になる。人格は番号を振られ、個性は数種類に分類され、英
雄は人間ではなく、現象として、たまさか脚光を浴びるにすぎない。
そんな時代にあって、マーラーのような自意識過剰の、夜郎自大な、自己を英雄視する、悲劇的な、そして圧倒的
な芸術的才能の持ち主は、もう居場所がないだろう。時代遅れの存在になるだろう。だがその音楽は疑いようもなく
美しい(そして「優れている」)ので、看過されることはないだろう。それどころか、もてはやされるだろう。彼は「最後の人」
として扱われる。そしてもはや「人」でなくなった「大衆」の中にあって、「大衆」であることに耐えられなくなった多くの人々
が、マーラーを他人事と思えなくなり、自分もまた世紀末の人、最後の人なのだと(ひそかに)思いながら、彼の音楽に
熱中するに違いない。その中には、もちろん、小説家も、画家も、映画製作者も、俳優も、音楽家もいるだろう。
いうまでもなく僕もそんな小説家の一人としてマーラーを聴いている。寂しい、気の滅入る話だ。楽しいわけがない。
5月10日(火)
明日で災厄が始まって二ヶ月になる。4月の11日には大きな余震が来たから、明日も何となく不安だ。
この二ヶ月で新聞雑誌にさまざまな文学者がさまざまなことを書いた。僕も少し書いた。目に入る限りのものを
読んで、その殆んどすべてに僕は割り切れないものを感じた。そして今、僕は大いに憂鬱だ。孤独を感じる。
文士が孤独なのは当たり前だろうし、生活上ではまったく孤独ではなく、むしろ人々とのつながりを改めて感じて
いる。だが何かを書こうとすると、とたんにふさぎこんでしまう。
だから少なくとも今は、何も読みたくない。生きている人間の書くものが嫌いになってきた。
それでもまあ、読んでいる。今月号の「すばる」には救われた思いだ。中沢新一「日本の大転換(上)」と、小澤
征良「ゆらがぬ決意」は、ともにとてもシンプルな、プリミティブなことが書かれている。
原子力発電が、「生態圏の外部に属する物質現象から、エネルギーを取り出そうとする技術」であり、そのよう
な物質現象が「生態圏に及ぼしたものの影響を、長い時間をかけてでも癒していく能力を、私たちの生態圏は
もっていないのである。」という、中沢氏の言葉。
「足元がぐらつくのは、とても不安なことだ。」という、小澤氏の言葉。
これらの当たり前ともいえる、平凡ともいえる言葉を、僕はほかで殆んど読まなかった。これは驚くべきことだと思う。
みんないろんな言葉をひねくりまわしたり、自分の中から出てきたわけでもない言葉を書いているらしいのだ。これら
のしっかりした言葉を読んで、僕もようやくそれに気がついた。
彼らは自分の領域から外へ向けて語っているという点でも、共通していると思う。中沢氏は人類学者で、人間や
生命の成り立ちについて、根源的なところを研究している。だから原子力発電について、政治的なことをいわずに、
語ることができている。小澤氏は小説家であり、エッセイストである。自分の経験、生活、感情を基点にしている。
だから彼女は、余震で家具がずれて、埃がみつかったので、掃除をした、というところから、「人々の、静物のいのち
を守る準備」について語ることができている。
文学というのは、そうでなければいけない。僕も自分の経験と生活と感情を、もっとよく見つめよう。ほかにできること
はないんだから。
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