2月3日(金)
今、岩波書店のホームページの上にある「採用情報」をクリックすると、「2013年度の社員採用は一般公募ではなく、岩波
書店著者もしくは岩波書店社員の紹介を応募条件として行います。詳しい応募要項はここをクリックしてご覧ください。」と
いう文章が出てくる。
その文章の「ここ」をクリックすると、新卒と出版業務経験者の二種類が若干名募集されていて、赤い文字で、「岩波書店
著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」と注記されている。
これに驚いた新聞各社はいっせいに報道した。毎日新聞の取材に対して同社は、「応募条件であり、採用条件ではない」
と反論したそうである。
これが反論になりうるのは、紹介がなくて応募できなかった人を採用する予定がある場合に限るだろう。採用するのは応募し
てきた人だけなのだから、応募者に紹介状が必須なら、採用者は全員紹介状を持っている。小学生にも判る理屈だ。
大きな会社、有名な会社は、入社希望者をすべて受け入れることはできない。必ず選別して、大半の希望者を謝絶する。
「反貧困」とか「格差社会ニッポンで働くということ」といったタイトルの本を出している岩波書店とて例外ではない。
紹介が必要だといっているのである。親戚に「岩波の人」がいなきゃいかんといっているのではないんである。これを読んで「じゃ
俺はだめだあ」なんていってる奴は、最初からお断りという意味なのかもしれない。大学の先生には岩波から本を出している
人もいるから、そういう人を探して紹介状を書いてもらうとか、なんなら岩波書店のビルの前で日がな一日うろうろして、出入
りする人かたっぱしから「岩波の方ですか? 私に紹介状を書いてください!」と頑張ってもいいわけである。応募の時点で
入社の気概を見ているともいえる。
だけどこれ、気分悪い。印象がよくない。出版社にとって印象は大事ではなかろうか。
それから、これによってある種、滑稽な事態が巻き起こるのではないかと杞憂する。というのも岩波書店から本を出している
人というのは、けっこう沢山いるからだ。そういう人の中には、格差に反対とか、雇用の機会を均等にせよといってる人も少な
くない。そういう人が紹介状を濫発するのではないかと思うのである。「○○さんを紹介します。この人物は学業優秀、人品
潔白、岩波書店にもっともふさわしいと信じて疑いません」という文書を、学生の数だけ印刷して、○○のところに名前をいれ
て、文書のしまいに署名して配りまくるのではないか。例年より応募者が多くなっちゃたりして。岩波書店からは、高橋源一
郎氏も本を出しているし、湯浅誠氏も、蓮實重彦氏も出している。小沢昭一氏や永六輔氏すら出している。あっと大変
筒井康隆氏まで出しているではないか。クレイジーなことにならなきゃいいけどねー。知らないよー。
著者にとっては迷惑な話だろうなーと愚考する。おちおち街も歩けまい。岩波書店が僕なんか相手にしてくれるわけはないが、
万が一お話があっても、これではお断りするしかない。忙しいもんですから。

1月22日(日)
サントリーホールにて水戸室内管弦楽団定期演奏会。
あらゆる手はずを尽くして今日のチケットを手に入れた。小澤征爾氏がモーツァルトのニ長調ディヴェルテメント(K136)と
交響曲「ハフナー」、それにハイドンの第一チェロ協奏曲を指揮するとあれば、何としても聴きたかった。
ところが前日に報道があり、水戸で行われた同じプログラムでのコンサートは、19日には二曲演奏したところで、小澤氏が
疲労を訴え、三曲目は指揮者なしで演奏し、20日は全曲指揮者なしでコンサートを行なった由である。それでは今日
も指揮者なしだろうかとサントリーホールのホームページを見たところ、ハイドンの協奏曲のみ出演するという。心配しつつも
早めに「フィクショネス」を出た。
ホールの近くで小澤征良さんに偶然会うことができたりして幸先良く、期待をして開演を待った。モーツァルトの二曲をまず
指揮者なしで演奏し、休憩ののち協奏曲という、変則的なプログラムである。
ディヴェルティメントの冒頭から引き込まれた。引き込まれるなど思いもよらない、聞き飽きている曲である。大規模オーケス
トラでもなく、弦楽四重奏でもない、まさにぴったり室内楽の響き、その最も清冽な音だった。いささかの乱れもなかった。音
というより光が降り注ぐようだった。
ディヴェルティメントは弦楽合奏で、指揮者のいない演奏もあるが、交響曲を指揮者のいないオーケストラで聴いたのは初め
てだった。二管編成の結構複雑な音楽である。どうなるだろうと思っていたが、これもまた胸に迫る演奏だった。
プログラムを見ると、水戸室内管弦楽団は、ちょいちょい指揮者なしのコンサートを行なっているそうである。音楽家たちの質
の高さ、合奏に対する深い造詣がなければ、そんなことはできない。しかもこの「ハフナー」は、明らかに小澤征爾氏の解釈
を踏まえている。細かいダイナミズムや、微細なテンポのゆるめ方が独特で新鮮だった。あんな第四楽章は初めて聴いた。
さてこれで二曲終わって休憩に入ったが、この休憩が三十分もあった。そんなにあるのかと思いながら煙草を吸ったり、ホール
を見物していると、上手側の二階席が騒がしい。フラッシュの光がちかちかする。なんだろう、有名人でも来るのかなと思って
いたら、なんとびっくり、天皇皇后両陛下がおでましになった。
事前に何の通達もないのは日本ならではではなかろうか、海外なら全員ボディチェックだろうと思っていると、いよいよ若きチェ
リスト宮田大氏とメンバーにまざって、いつの間にか小澤征爾氏が現れた。チェリストは一段高いところを用意されていて、
小澤氏は平場で自由に動きながら指揮をする。
氏はやはり万全の体調ではなさそうだった。ソロが始まって間もなく、準備された椅子に腰かけながら指揮をした。それでも
音楽は驚くべき若々しさだった。最初のうち僕はチェロに不満を感じた。若い人である。もっと乱暴に、エゴイスティックに猪突
猛進したらどうだと思っていた。けれどもそれは間違った捉え方だったことが、すぐに明らかになった。小澤氏はソリストにも指
示を出していたのだ。つまりここでこの協奏曲は、協奏である以上に合奏曲として捉えられているのである。ソリストがでしゃ
ばるとか、オーケストラと競り合うような音楽を作っていない。あくまでも室内楽として、澄みきった歓びの音楽を響かせている。
第二楽章はとりわけ美しかった。妻は全曲を通して涙が止まらなかったようである。
ときおり見ると、両陛下が本当に心から音楽を楽しんでいる様子が、遠くからも明らかであった。演奏はスタンディングオベー
ションで迎えられたが、これを促したのは両陛下のご起立だった。
喝采に応えて再三登場する小澤氏は辛そうで、もうこれ以上呼び出すのは気の毒だと思ったけれど、喝采は止まらず、僕
も立ち去り難かった。

1月5日(木)
本日より仕事始め。ゲラを読む。
年末はしっかりと大掃除をした。新しい年を迎える、ということに、いつも以上に意識的になった。2011年のようなしんどい
一年はもういい。ゴミや埃と一緒に、はきだしてしまいたい。そして2012年を穏やかな年にしたい。昨年来の不安もまだ
鎮まっていないのだから。
年始もしっかり年始らしいことをした。初詣にも行った。そしたら地震があった。やんなっちゃうな、もう。穏やかにしようとしても、
地面は気を緩めさせてくれない。
書き初めもしたし、お餅も食べたし、親戚とも会ったし、お年玉もあげた。ピアノ初めはバッハを弾き、チェロ初めもバッハ、読み
初めは『源氏物語』と、いかにもお正月っぽい感じを、わざと揃えた。
そして映画初めとして、鈴木卓爾監督作品『ゲゲゲの女房』。妻が仕事で関わった作品なので、鈴木監督とは面識があるにも
拘らず、なんとなく見そびれていた。
期待以上に優れた作品だった。テレビドラマとはまったく趣が違うだろうとは予想していたが、これは小津安二郎や成瀬巳喜男
を思わせる、きわめて丹念に作られた夫婦ものの傑作だ。
画も美しい。シナリオもいい。だがやはり際立っていたのは、観客に物事を読み取らせる省略の見事さだ。
人間の生活に妖怪が当たり前のようにいて、人間にはそれが見えていない、などというのは、しかしこの映画の説明省略の、判
りやすい例にすぎない。鈴木監督は、観客がよほど考えないとその場面の意味が判らない・下手をすると考えるべき場面である
ことすら見過ごされてしまうような、説明の省略をする。こういう作り方は、観客を馬鹿だと決めてかかっている今の映像の作り方
に慣れた観客には、広く受け入れられないかもしれない。だが一方、「場面を読む」ことこそ映画を見る醍醐味のひとつと感じる
人には、これは実に嬉しい、見る人間を信じた品のいい映画と感じるだろう。
僕が、いいなあ、と思ったそういう場面のひとつは、新婚初夜の場面だ。むろん夫婦の営みなどは出てこない。朝焼けの貧しい
一室に、夫婦が眠っているだけである。妻が目をさます。浴衣を着ている。上体を立ち上げて、腰紐を探す。腰紐は、まだ寝て
いる夫の、敷布団の下から出てくる。
それが何を意味するか、一瞬判らない。何かを意味すると、気がつかない人もいるかもしれない。だがこれは、前夜の営みをあら
わしている。まず妻の布団だけが敷かれ、そこで妻が腰紐を解き、それから、そのままの姿で、夫の布団が敷かれなければ、妻の
腰紐が夫の敷布団の下から出てくることはないのだから。
映画とは省略の美学である。表現とは省略の美学である。

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